2019年末から中国の武漢に端を発した未知のウイルス性感染症は、2020年に入って世界中に拡大した。このウイルス及び感染症は後に「COVID-19」と呼ばれるようになったが、日本では「新型コロナウイルス」「新型コロナウイルス感染症」という呼称が一般的なので、ここでもそれを踏襲することにする。
新型コロナウイルスはインドにも甚大な被害をもたらした。そしてインドの映画産業は大変革を余儀なくされた。
インド国内で初めて新型コロナウイルス陽性者が確認されたのは2020年1月30日だった。武漢などを旅行して中国から帰国したケーララ州在住の女性が喉の痛みなどを訴え、病院で検査したところ、新型コロナウイルスの陽性反応を示した。以来、インドで新規陽性者が次々に報告されるようになる。
インド政府の対応は迅速かつ極端だったといえる。ナレーンドラ・モーディー首相は新型コロナウイルスの感染拡大を抑え込むため、全土を対象にロックダウンの開始を宣言した。まずは3月22日に「ジャンター・カーフュー(国民戒厳令)」と称して14時間限定の自己隔離を国民に訴えたが、それは単なる練習に過ぎず、3月24日には3週間に及ぶロックダウンの開始を宣言した。生活に必須の飲食や医療などの分野に携わる「エッセンシャルワーカー」を除き外出が禁止され、ロックダウンを守らない人々は警察が厳しく取り締まった。しかしながら感染拡大は抑えきれず、ロックダウンの期間は順次延長されていった。
ロックダウンで影響を受けなかった人は皆無だが、特に困窮したのが都市部で肉体労働や家事補助などの低賃金労働に従事していた出稼ぎ労働者たちだった。彼らはロックダウンによって外出を禁止されたことで稼ぎを失い、家賃などの月々の支払いができなくなって、生活を続けられなくなった。故郷に戻ろうにも公共交通機関は停止されていた。そこで多くの人々が採った手段が、徒歩や自転車などで故郷に戻るというものだった。もちろん、故郷までの距離は1,000kmを越すことがある。一説によるとロックダウン時に3千万人が徒歩やそれに近い手段で移動したとされる。1947年に印パが分離独立(参照)したとき以来の大移動が起こったのである。このときに故郷を目指して大移動した労働者たちの様子は、ドキュメンタリー映画「1232 KMS」(2021年)によく収められている。
ワクチン接種
インドにおいて新型コロナウイルスのワクチン接種が始まったのは2021年1月16日だった。日本でワクチン接種が始まったのは同年2月17日だったため、インドの方が若干早かった。どちらの国でもまず医療従事者の接種が優先された。
インドが新型コロナウイルス感染症予防ワクチンとして認可したのは、アストラゼネカ社、モデルナ社、ジョンソン&ジョンソン社などのものだった。アストラゼネカ社のワクチンを国内で認可生産した「Covishield(コビシールド)」がもっとも普及した。また、国内で開発され実用化されたワクチン「Covaxin(コバクシン)」もある。
コロナ禍が明けた時点での統計によると、インドで少なくとも1回の接種を受けた人は全人口の75%に上り、3回接種を完了した人の割合も70%である(参照)。基本的にワクチン接種が受けられるのは12歳以上であり、このワクチン未接種者数には12歳未満の子供も含まれている。インドは若年層の人口が多い国であるため、それを除くと達成率は跳ね上がる。1回接種は95%、3回接種は88%とのデータもある。インドのように面積が広く人口の多い国でこの達成率は半ば信じられない。ちなみにインドに比べて人口が10分の1の日本では、12歳未満の子供も含めて、1回接種の割合は78%、3回接種の割合は69%である。
インドは「ワクチン・マイトリー(友好)」と称してワクチン外交にも積極的に乗り出し、96ヵ国にCovishieldなどのワクチンを提供した。最優先されたのはブータンとモルディヴであり、バングラデシュ、ネパール、スリランカ、アフガーニスターン、イラン、ミャンマー、モーリシャス、セイシェルなどの周辺国家に順次提供された。無償提供だけでなく、販売されたものもある。これらの国名を眺めると、インドが影響を及ぼしたい範囲が分かって面白い。
「The Vaccine War」(2023年)は、「Covaxin」開発を行ったインド医学研究評議会(ICMR)のバルラーム・バールガヴァ会長の著書を映画化したものだ。ワクチン開発の舞台裏を垣間見ることができる上に、国産ワクチン開発成功を国威発揚に活用した愛国主義映画でもある。
「Bal Naren」(2022年)では、モーディー首相が提唱したスワッチ・バーラト運動や公衆衛生の大切さにも触れられているが、終盤の主要なトピックになるのはワクチン接種である。ワクチンの危険性を盲信する村人たちにワクチン接種の安全性と重要性を説く内容になっており、啓発を目的にした映画だといえる。
ロックダウンと映画産業
ロックダウンの開始に伴って映画館も閉鎖された。よって、新作映画の公開も停止されてしまった。もちろん、映画の撮影も行えなくなり、映画産業は大打撃を被った。映画の製作や公開が止まっただけではなく、人々が映像作品を鑑賞する手段にも大きな変化が生まれた。ロックダウン中、多くの人々はNetflixやAmazon Prime Videoに代表される、「OTT」と呼ばれる動画配信サービスの数々を使って映画やドラマを消費するようになった。コロナ禍前にもインドにおいてはOTTプラットフォームが急成長していたのだが、コロナ禍がそれらのサービスの普及を強力に後押ししたのである。結果、人々は映画館に行かなくても映画を楽しめることを知ってしまった。映画業界にとって、新作の公開停止や撮影の中止などよりも大きな痛手になったのは、この習慣の変化だった。
資金繰りなどの理由で、OTTプラットフォームでの直接公開、いわゆる「OTTスルー」を選ぶ映画もあった。自殺したスシャーント・スィン・ラージプートの遺作になった「Dil Bechara」(2020年)やジャーンヴィー・カプール主演「Gunjan Saxena」(2020年/邦題:グンジャン・サクセナ -夢にはばたいて-)などが、第一次ロックダウン期に話題になったOTTスルー映画だった。その後もOTTスルー映画は増加し、特に低予算映画はOTTプラットフォームでの公開を積極的に選ぶようになった。
ロックダウン中に工夫して撮影が行われ、YouTubeやOTTプラットフォームで公開された「Home Stories」(2020年)や「Unpaused」(2020年)のような技ありの映画もあった。どちらも複数の映画監督がロックダウンやソーシャルディスタンスを守りながら複数の短編映画を作り、持ち寄ったオムニバス形式の作品である。
新型コロナウイルス感染状況の改善にともなってロックダウンは徐々に緩和されていき、既に2020年10月には映画館も、入場者は収容人数の半分という制限付きながら、営業できるようになった。この頃までには映画の撮影も再開されていたはずである。しかしながら、定員半分のチケット売上では期待した興行収入が見込めないことから、特に大予算型の新作映画の公開を控えるプロデューサーが大半だった。2021年3月頃からは、より感染力と致死性の強いデルタ株を主体とした第二波がインドを襲い、死者が急増した。そのときのインドの様子は日本でも盛んに報道された。この危機的な状況に対処するため、インドでは再びロックダウンが敷かれた。ただし、このときは全国一律でのロックダウンではなく、州によって異なった。この第二次ロックダウンは2021年6月頃まで続いた。この時期にはサルマーン・カーン主演の「Radhe」(2021年)が劇場とOTTで同時公開されるという試みが行われたことが特筆すべきである。
ようやくヒンディー語映画界が映画館での新作公開に踏み切り始めたのは2021年8月だった。年末までに、アクシャイ・クマール主演の「Bell Bottom」(2021年)、カンガナー・ラーナーウト主演の「Thalaivii」(2021年)、ローヒト・シェッティー監督の「Sooryavanshi」(2021年)、ランヴィール・スィン主演の「83」(2021年)などの話題作が相次いで公開され、だいぶ賑やかになった。しかしながら、大半の映画は興行的に期待外れの成績だった。この頃、南インド映画の「Pushpa: The Rise」(2021年/邦題:プシュパ 覚醒)が大ヒットしたのとは対照的で、ヒンディー語映画の危機が叫ばれるようになった。また、アーナンド・L・ラーイ監督の「Atrangi Re」(2021年)は、劇場公開してもおかしくない出来だったにもかかわらずOTTリリースとなった。
2022年に入り、インドではコロナ禍もだいぶ出口が見え始めた。第二波で9割以上のインド人が新型コロナウイルスに感染し、集団免疫ができたために新規陽性者数が急減したとされている。映画産業もだいぶ従来の形に戻り、南インド映画界では「RRR」(2022年/邦題:RRR)や「K.G.F: Chapter 2」(2022年/邦題:K.G.F: Chapter 2)のような大ヒット映画が出たのだが、ヒンディー語映画界では依然として不振が続いた。2022年上半期では、「The Kashmir Files」(2022年)と「Bhool Bhulaiyaa 2」(2022年)くらいが目立ったヒット作だった。
もっとも衝撃が大きかったのは、アーミル・カーン主演の期待作「Laal Singh Chaddha」(2022年)が大コケしたことだ。「ミスター・パーフェクト」の異名を持つアーミルは、出演作を厳選し、必ずヒットに持って行くことで知られるスター俳優だ。ヒンディー語映画界は、このアーミルの新作が当然のように大ヒットし、コロナ禍でダメージを受けた産業の完全復帰をアピールしようと画策していた節がある。公開されたのも、年間で映画のヒット率が高い独立記念日の週だった。ところが、この作品が期待外れのフロップに終わってしまったのである。この頃までに、ヒンディー語映画界を批判するボイコット・ボリウッド運動が勢力を増しており、「Laal Singh Chaddha」に対してもボイコットを呼びかけていた。ヒンディー語映画界はもはや立ち直れないのではないかという暗い予想も立てられた。
ヒンディー語映画界が一息付けたのはランビール・カプール主演の「Brahmastra Part One: Shiva」(2022年/邦題:ブラフマーストラ)が大ヒットしたことだ。大予算型の大作であり、大ヒットとはいうものの何とか製作費を回収したくらいだったが、ようやくヒンディー語映画復活の兆しが見え始めた。年が明けてシャールク・カーン主演の「Pathaan」(2023年)がボイコット・ボリウッド運動を乗り越えて記録的な大ヒットになったことで、ヒンディー語映画界のコロナ禍はひとまず終了としたと評価されている。
新型コロナウイルスの映画
コロナ禍が明けたことで、コロナ禍の頃を後から振り返って、当時を時代背景とした作品を作る余裕も生まれ始めている。コロナ禍中にコロナ禍の映画を撮影した例もある。前述の「Home Stories」や「Unpaused」もそうであるが、「36 Farmhouse」(2022年)、「Bloody Daddy」(2023年)、「Chalti Rahe Zindagi」(2024年)もコロナ禍中に作られたコロナ禍期の映画の一例だ。どちらも不特定多数の接触を避け、限られた空間で工夫して撮られている。
ロックダウンに伴い、都市部から農村部へ労働者の大移動があったのは先に述べた通りである。その様子を追ったドキュメンタリー映画「1232 KMS」も紹介済みだが、あのときの混乱をフィクション映画として再現した作品もある。マドゥル・バンダールカル監督の「India Lockdown」(2022年)である。また、警察官の立場から、故郷に帰ろうとする労働者の移動を制限する検問の様子を映画化した「Bheed」(2023年)もロックダウン映画の一種に分類できる。
「Bhediya」(2022年)は新型コロナウイルスとは無関係の狼男系ホラーコメディー映画だ。しかしながら、密林に生息する野生動物に潜んでいた未知のウイルスが人間に感染することで狼男になってしまうという一応の科学的な説明がなされており、コウモリから人間に感染して広がったとされる新型コロナウイルスから着想を得て作られた映画だということが分かる。このように、コロナ禍が明けてからも、思わぬところで新型コロナウイルスがネタに使われることがあるかもしれない。