「マードゥリー復活!」そんな大々的な宣伝と共に1、2ヶ月前から「Aaja Nachle」のプロモ映像が流れ始めた。マードゥリー・ディークシト。90年代のヒンディー語映画界に君臨した女王である。マードゥリー以降、マードゥリーを越える才色兼備の女優はヒンディー語映画界には現れなかったと考えるファンも多い。1999年の結婚と渡米を機に彼女の映画への出演は減り、「Lajja」(2001年)や「Devdas」(2002年)などはあったものの、ほぼ引退状態にあったマードゥリーを再び銀幕に呼び戻したのは、ヒンディー語映画界最大の映画コングロマリット、ヤシュラージ・フィルムスのトップ、アーディティヤ・チョープラーであった。マードゥリー・ディークシトは彼の熱烈な復帰要望に応え、遂に2007年、「Aaja Nachle」を引っ提げてヒンディー語映画にカムバックした。2007年11月30日公開である。
監督:アニル・メヘター
制作:アーディティヤ・チョープラー
音楽:サリーム・スライマーン
作詞:ジャイディープ・サーニー、ピーユーシュ・ミシュラー
振付:ヴァイバヴィー・マーチャント
衣裳:マニーシュ・マロートラー、マンディラー・シュクラー、ドリー・アフルワーリヤー・ティワーリー
出演:マードゥリー・ディークシト、コーンコナー・セーンシャルマー、クナール・カプール、ラグビール・ヤーダヴ、ディヴィヤー・ダッター、ヴィナイ・パータク、ランヴィール・シャウリー、ヤシュパール・シャルマー、アキレーンドラ・ミシュラー、ジュガル・ハンスラージ、ノワーズ、ウッタラー・バーオカル、ヴィノード・ナーグパール、ダライ、フェリー・ダルヴィエラ、ダルシャン・ジャリーワーラー、アクシャイ・カンナー、イルファーン・カーン
備考:PVRアヌパム4で鑑賞。
シャームリーという田舎町に住むディヤー(マードゥリー・ディークシト)は、マカランド(ダルシャン・ジャリーワーラー)に師事し、「アジャンター」という名の劇場でダンスを習っていた。だがインドの舞踊家を取材に来ていたナショナル・ジオグラフィーのカメラマン、スティーヴと恋に落ちる。両親(父:ヴィノード・ナーグパール、母:ウッタラー・バーオカル)の反対に遭ったディヤーはスティーヴと駆け落ちし、米国へ逃げてしまう。屈辱に耐えかねた両親は、家を捨ててどこかへ姿をくらましてしまう。 それから11年後、ニューヨーク。ディヤーはダンスの先生をして生計を立てていた。スティーヴとは既に離婚していたが、2人の間にはラーダー(ダライ)という女の子が生まれていた。ある日、ディヤーのもとに電話が掛かって来る。師のマカランドが危篤との知らせだった。ディヤーは急遽ラーダーを連れてインドへ向かう。 シャームリーに着いたシャームリーは、アジャンターの管理人ドクター(ラグビール・ヤーダヴ)から、マカランドが既に死んだことを伝えられる。また、アジャンターはまるで廃墟のようになっていた。ディヤーが駆け落ちした後、マカランドのダンス教室には悪評が立ち、誰もダンスを習いに来なくなってしまったのである。以後、アジャンターは廃墟となってしまった。しかも、2ヶ月後には取り壊され、ショッピングモールが建設される予定となっていた。 ディヤーは町の政治家ラージャージー(アクシャイ・カンナー)のところへアジャンターを壊さないようにお願いに行く。ラージャージーは、2ヶ月以内にシャームリーの住民によるパフォーマンスが上演されたら、取り壊しを中止にするという条件を出す。 ディヤーは「ライラー・マジュヌー」のミュージカルを上演することに決め、シャームリーの人々に呼び掛けてミュージカルへの参加を求める。だが、参加者は現れなかった。そればかりか、ラージャージーの政敵チャウダリー・オーム・スィン(アキレーンドラ・ミシュラー)の部下たちがやって来て妨害する。だが、ディヤーはその中にマジュヌーにピッタリの人材を見つける。イムラーン(クナール・カプール)であった。ディーヤーはチャウダリーを説得し、ミュージカルに協力することが政治的に有利になると説く。チャウダリーも乗り気になり、イムラーンはマジュヌーを演じることになった。 次第に参加者が集まって来た。イムラーンに片思いする少女アノーキー(コーンコナー・セーンシャルマー)がライラーを演じることになった他、役人のチョージャル(ヴィナイ・パータク)、会計のサンジーヴ・メヘター(ジュガル・ハンスラージ)、ディヤーに恋心を抱くモーハン・シャルマー(ランヴィール・シャウリー)などの出演が決まった。また、ライラーの父親はチャウダリー自身が演じることになった。だが、時間はあと1ヶ月しか残されていなかった。ディヤーは急いで演劇未経験の彼らのトレーニングを始めた。 一方、アジャンターの跡地にモールを建設しようとしていたビジネスマン(イルファーン・カーン)は、チャウダリーを500万ルピーで買収する。その日からチャウダリーは練習に来なくなるが、最も乗り気でなかったイムラーンはいつの間にか劇にのめり込んでおり、そのまま演劇グループに留まった。ディヤーの親友でビジネスマンの妻だったナジュマー(ディヴィヤー・ダッター)と警察官のスィン(ヤシュパール・ヤーダヴ)が代わりに出演することになった。 ミュージカル「ライラー・マジュヌー」は大成功に終わり、ラージャージーもアジャンター取り壊し中止を決定する。大仕事を終えたディヤーは、姿をくらました両親を探すためシャームリーを去るが、アジャンターではイムラーンやアノーキーらによって再びダンスの練習が行われるようになった。
ヤシュラージ・フィルムスは今年、「Ta Ra Rum Pum」(2007年)、「Jhoom Barabar Jhoom」(2007年)、「Chak De! India」(2007年)、「Laaga Chunari Mein Daag」(2007年)そしてこの「Aaja Nachle」と、5本の映画をリリースした。完全なフロップに終わったり、期待以上の評価・興行収入が得られなかったものもあるのだが、概して完成度の高い映画ばかりだと言える。質の高い映画を次から次へと送り出すヤシュラージ・フィルムスの実力は素晴らしいと思うのだが、いつ頃からか、同プロダクションの映画から気合が感じられなくなって来た。「気合」と言うと語弊があるかもしれない。ヒンディー語で言えば「ダム」だ。「ダム」がない、「パワフルさに欠ける」とでも言おうか。外面はとても綺麗で、キャストも申し分なく、ストーリーも洗練されており、売り出し方もとてもうまいのだが、何か心が空洞な感じがする。ヤシュラージ・フィルムスは、あまりに映画作りにこなれ過ぎていて、その作品から手作りの温かさが感じられなくなって来た。熱いハートが感じられないのだ。代わって、まるで工場生産の量産品のような冷たさが感じられるようになって来た。ハートのない映画は作品ではなく、商品だ。「Aaja Nachle」もどこかそのような「商品」であった。決してつまらない訳ではなく、むしろ面白いのだが、昔のインド映画にあったような仰天の興奮が少ないのである。そして見終わった後の感情が、ハリウッド映画を見終わった後の感情に似通って来た。映画館の座席に座っている間は面白いのだが、映画館を出た瞬間に別のことを考えてしまうような、持続性の低い面白さとでも表現しようか。ヤシュラージ・フィルムスの最近の作品の多くやこの「Aaja Nachle」は、インド映画の文法に則った典型的なインド映画なのに、インド映画ではないような気がどことなくする。この感覚は今後ヤシュラージの映画を見続ける上で徐々に深く掘り下げて行きたいと思っている。このような印象を受けたため、「Aaja Nachle」の総合評価は低めだ。
「Aaja Nachle」の脚本はまるでマードゥリー・ディークシトのために書かれたようなものである。米国から11年振りに故郷の町に帰って来たダンサーが、廃墟と化した劇場を再建するというストーリーは、米国在住のマードゥリーのヒンディー語映画復帰と重なる。そして、映画は歌と踊りに満ち溢れており、インド映画界屈指の踊り手であったマードゥリーが、そのダンスの才能を存分に発揮できる内容となっている。11年前のシーン(つまり20代のディーヤーを演じるシーン)は、既に42歳となったマードゥリーには年齢的につらかったが、チャーミングな笑顔は今でも衰えていなかった。マードゥリーのヒンディー語映画復帰作としては申し分ない作品だったと言える。
映画にはいくつかのテーマが隠されていた。劇場を救うために政治家と賭けをするシーンは、「Lagaan」(2001年)、「Chak De! India」(2007年)、「Dhan Dhana Dhan Goal」(2007年)などのスポーツ映画で採用された黄金パターンを思い起こさせる。その賭けに勝つために町の人々を結束させて行く過程は、町というコミュニティーの結束でもあり、「町の人々が自分の町のために積極的に行動する」というテーマにつなげられる。また、劇場の跡地にショッピングモールが建設予定という設定は、芸術vs商業主義という構図にも発展させることができる。モールを建設することが本当に町の発展にとっていいことなのか、しかも芸術や文化を犠牲にしてまで経済を最優先する必要があるのか、そういう問いが、発展著しいインドの社会に問い掛けられていたように感じた。米国生まれ米国育ちのラーダーが、最初はインドの環境に辟易しながらも、最後にはインドに溶け込み、グループ解散の危機に陥った母親の一番の支援者となる様からは、「インド人はどこでも生まれてもインド人」というメッセージが感じられた。そして最も重要なテーマは愛であった。インド版「ロミオとジュリエット」とも言える悲恋の物語「ライラー・マジュヌー」が、ディヤーとスティーヴの恋愛、アノーキーとイムラーンの恋愛、モーハンの一途な片思い、そしてそのミュージカル上演と、何重にも映画に盛り込まれていた。
しかし、疑問点も多かった。ディヤーと両親の再会は観客が最も期待するシーンだったはずだが、映画中では描かれず、まるで最後に思い出して急いで付け加えたかのようにナレーションで少し触れられていただけだった。あれほど出演者集めや練習に苦労していたのに、上演2日前や当日に出演者を変え(チャウドリーの脱退、ナジュマーや警察官スィンの加入)、しかもショーに何の影響もないのは非現実的過ぎた。シャームリーの住民だけによるパフォーマンスが条件だったのに、なぜかプロっぽいバックダンサーが出て来るのも大きな突っ込み所である。また、一度はビジネスマンの夫に頼まれてディヤーの悪い噂を町に流すナジュマーが最後で突然グループに加入するが、彼女の心情の変化の描写が少なくて説得力に欠けた。クライマックス後にラージャージーとディーヤーの結婚が示唆されたのも蛇足ではなかっただろうか?できることなら11年前からディヤーに恋焦がれていたモーハンにハッピーエンドを用意してあげたかった。ディヤーはショーを成功させた後に米国に帰ってしまったが、彼女が去った後、シャームリーで同じような文化活動が存続するかも大いに疑問である。
マードゥリー・ディークシトはやはり素晴らしかった。もう未婚のヒロイン役はできない年齢になっているが、かえってこれからいろいろな役を演じていけるような気がする。結婚を機にした引退後カムバックを果たしたものの伸び悩んでいるジューヒー・チャーウラーに比べて、才能に幅のあるマードゥリーの方が活躍できそうだ。もし今後もヒンディー語映画に出演し続けるならば、の話だが。依然として彼女の拠点は米国なので、もし出演するとしても1年に1本か、それ以下のペースになるだろう。
コーンコナー・セーンシャルマーはヒンディー語映画界でどういう評価なのだろうか?どうも彼女は「ブス→変身→美人」というキャラクターを演じることが多いような気がする。つまり、見方によってはブスに見えるということが認知されているということか。あまりこの映画やライラー役に適役ではなかったように見えたが、マードゥリーの引き立て役としては適任だったかもしれない。あまり美人の若手女優を引き入れるとマードゥリーが霞んでしまう恐れがあった・・・。
クナール・カプールは「Rang De Basanti」(2006年)の頃から全く変わらぬファッションとキャラクターである。売れて来たのでそろそろ脱皮が必要だと思うが、クリケット選手のマヘーンドラ・スィン・ドーニーが髪をバッサリ切ったらスポンサーから大ブーイングが巻き起こったという事件も最近あり、長髪スタイルで売れてしまった男優の苦悩をこれから感じることになるかもしれない。演技はまだ未熟である。
他にも多くのサポーティングキャストが出演していたが、中でも注目したいのはヴィナイ・パータク。「Bheja Fry」(2007年)で一気に大ブレイクしたコメディアン系男優である。今回はいかにもお役人と言った雰囲気のチョージャル役を演じており、映画の中で最も面白かった。チョージャル夫妻のちょっとしたロマンスも微笑ましかった。
音楽はサリーム・スライマーン。タイトル曲「Aaja Nachle」、ミュージカル出演者を募集する際の威勢のいい曲「Show Me Your Jalwa」、ラーハト・ファテー・アリー・カーンの歌うサドソング「O Re Piya」など、いい曲が揃っている。ただ、突出したヒット曲はない。
映画の舞台となるシャームリーは、ウッタル・プラデーシュ州ムザッファルナガル県にある実在の地名だが、実際にそこで撮影されたわけではないようだ。自動車のナンバーを見たらマディヤ・プラデーシュ州のものになっていたので、おそらく同州のどこかの町でロケが行われたのではないかと思う。
「Aaja Nachle」は無難にまとまった映画で、決して観て損はないが、傑作に数えられることはないだろう。もしこの映画がヒットしなくても頷けるし、ヒットしても頷ける。ヒットしなかった場合は脚本やその他に問題があったからであり、ヒットした場合はそれだけマードゥリーの人気がすごいということだ。ちなみに僕が観た回の観客席は空席が目立っていた。