Article 370

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Article 370
「Article 370」

 2014年から中央政府の政権を握るナレーンドラ・モーディー首相は剛腕の政治家として知られ、前代未聞の大胆な政策をいくつも実行してきた。賛否両極端な政治家であるが、その実行力の高さは誰も否定できない。

 第一次モーディー政権での大きなトピックのひとつは2016年の高額紙幣廃止だ。モーディー首相が突然TV演説を行い、当時最高額紙幣だった1,000ルピー札とその次に高額紙幣だった500ルピー札を法定通貨から外してしまったのである。主な目的はブラックマネーの駆逐だった。インドではブラックマネーは現金、しかも高額紙幣でやり取りされることがほとんどであり、高額紙幣を廃止することでブラックマネーを強引に排除しようとした。ブラックマネーの駆逐は前政権時代から懸案になっていた汚職撲滅の一環でもあったが、もうひとつの大きな目的はテロの抑制であった。南アジアにおいてテロが宗教や政治のイデオロギーとは別にビジネス化していることは公然の秘密で、テロが実行される度に国内外で準備金や報酬として多額のブラックマネーが動いているとされていた。高額紙幣廃止はインドの経済や社会に大混乱をもたらしたが、確かにテロの数は一時的にではあるが減少した。高額紙幣とはほとんど縁のない生活をしていた貧困層を中心にモーディー首相のこの思い切った政策を支持する声は根強い。

 第二次モーディー政権では第一次以上に歴史的な政策がいくつも実行に移された。その中でも特にインパクトがあったのが2019年の憲法第370条廃止である。憲法第370条はジャンムー&カシュミール州(当時)の特別な地位を規定するもので、この条文があるおかげで同州はインドの他の地域とは異なる状況に置かれていた(参照)。すなわち、同州には独自の憲法があり、独自の元首がおり、独自の旗があったのである。インド憲法も部分的にしか施行されていなかった。そもそも1947年の印パ分離独立時に同地域の帰属を巡ってインド、パーキスターン、そしてジャンムー&カシュミール藩王国のハリ・スィン藩王の間で駆け引きがあったことが原因でこの条文ができていた。将来的に廃止が見込まれた暫定的な条文だったにもかかわらず、途中で半ば恒久化されてジャンムー&カシュミール州の既得権益になってしまっていた。インド人民党(BJP)など、この条文の廃止を訴える政党はいくつもあったのだが、いざ実行に移そうとすると、南アジアの火薬庫であるカシュミール渓谷を大いに刺激することになり、どんな結果が引き起こされるか誰にも分からなかった。よって、誰もこの条文に実際に手を触れようとはしてこなかった。それをモーディー首相は2019年8月5日に突如として廃止してしまったのだ。インドの近現代史を知る者ほど、半ば信じられない行動だった。

 この憲法第370条廃止の舞台裏を映画化したのが2024年2月23日公開の「Article 370」である。監督はアーディティヤ・スハース・ジャーンバレー。正直言って初めて見た名前だ。過去に数本の短編映画を撮った経験があるくらいである。主演はヤミー・ガウタム。他に、プリヤマニ、ラージ・アルジュン、ヴァイバヴ・タトワーワーディー、アルン・ゴーヴィル、ラージ・ズトシー、ディヴィヤー・セート、キラン・カルマルカル、スミト・カウル、イラーヴァティー・ハルシェー、モーハン・アーガーシェー、スカンド・サンジーヴ、アシュウィニー・カウル、アシュウィニー・クマール、ラージーヴ・クマールなどが出演している。また、アジャイ・デーヴガンがナレーションを務めている。

 プロデューサーの一人アーディティヤ・ダルはヤミーの夫であり、過去には「Uri: The Surgical Strike」(2019年/邦題:URI サージカル・ストライク)を監督している。

 憲法第370条廃止はBJPの功績に数えられており、この映画の内容は当然BJPにとって有利なものである。実名は出て来ないが、ナレーンドラ・モーディー首相やアミト・シャー内相そのままのキャラも登場し、彼らの礼賛が行われている。折しもインドでは下院総選挙が間近に迫っており、モーディー首相とBJPに三期目を任せるか否かが有権者の審判にかけられようとしている。モーディー政権が発足して以来、BJPの政策を喧伝するような映画が盛んに作られるようになったが、下院総選挙のタイミングで公開されたこの映画もそのひとつに他ならず、BJPのプロパガンダ映画の誹りを免れることはできない。それでも、憲法第370条がどのようなプロセスでもって廃止されたのか、BJP側の主張が分かりやすく説明されており、しかも娯楽映画として非常に高い完成度を誇っている。きちんと批判的に観る必要はあるが、絶対に無視できない映画である。

 この映画は、2024年2月からシネ・リーブル池袋で実施された「週末インド映画セレクション」で上映されたため、本国インドでの公開から約2週間後というタイムリーな時期に鑑賞することができた。その際の邦題は「憲法第370条」であった。

 2016年、地元警察諜報部のズーニー・ハクサル(ヤミー・ガウタム)は、行方を追っていた分離派テロリスト、ブルハーン・ワーニーの居所について確度の高い情報を得る。上司のカワル・アリー(ラージ・アルジュン)に作戦実行の許可を求めるものの、カワルからは待機を命じられた。この機会を逃したくなかったズーニーは中央予備警察隊(CRPF)のヤシュ・チャウハーン(ヴァイバヴ・タトワーワーディー)らを率いてブルハーンの隠れ家を急襲する。これによってブルハーンの殺害に成功する。

 ところがカシュミール人の間で非常に人気のあったブルハーンが殺されたことでカシュミール地方では大規模な抗議活動が発生する。ズーニーは命令違反を責められ、デリーに飛ばされてしまう。

 ちょうどその頃、首相(アルン・ゴーヴィル)はマーダヴ・パテール内相(キラン・カルマルカル)と共に憲法第370条の廃止に向けて動き出していた。首相官房の書記官ラージェーシュワリー・スワーミーナータン(プリヤマニ)は現地の実行部隊を率いる人物を探しており、ズーニーに白羽の矢を立てる。ズーニーは国家捜査局(NIA)に採用され、再び故郷に戻る。ズーニーは旧知のヤシュやワスィーム・アッバースィー(スカンド・サンジーヴ)をチームに入れる。

 首相は、秘密裏に、合法的に、かつ犠牲者なしで、憲法第370条の廃止を実行しようとしていた。ラージェーシュワリーは合法性を立証するため、過去にこの条文に関して発令された憲法令を調べ、抜け道を探る。その過程で、原本がない文書があることに気付き、ズーニーに連絡してジャンムー&カシュミール州図書館で捜索してもらう。その結果、決定的な文書が発見される。

 その頃、ジャンムー&カシュミール州では連立政権が瓦解したことで州知事統治となっていた。地元でライバル同士だった政治家、サラーフッディーン・ジャラール(ラージ・ズトシー)とパルヴィーナー・アンドラビー(ディヴィヤー・セート)は、手を組んで州政府を立ち上げようとしていたが、ファックスの不具合により期限に間に合わず、同州は大統領直轄に移行した。

 2019年にはプルワーマーにてCRPFの車列に対して自爆テロがあり、40人の武装警察官が殺害されるという事件があった。このテロでズーニーは相棒のヤシュを失ってしまう。このときになると、ズーニーはジャンムー&カシュミール州で何か大きなことが行われようとしていることに察知し始める。ズーニーはプルワーマー事件の首謀者であるテロリストのヤクーブ・シェーク(スミト・カウル)を逮捕する。一方、ジャーナリストのブリンダー・カウル(イラーヴァティー・ハルシェー)もカシュミール情勢に注目を始める。

 憲法第370条廃止の日として2019年8月5日が選ばれた。それに向けてジャンムー&カシュミール州の通信が遮断され、治安部隊が配備され、戒厳令が敷かれ、政治家や活動家が予防拘禁された。政府は動きを察知されないために偽の情報を複数発信し始める。その内のひとつは戦争であった。パーキスターン軍はインドが戦争の準備を進めていると感じて対応を始めるが、ガセネタであった。

 運命の8月5日、首相は大統領官邸を秘密裏で訪問し、憲法第370廃止につながる憲法令に署名をしてもらう。パテール内相は上院にその憲法令を提出し、憲法第370条の廃止と同州の分割、そして連邦直轄地化についての投票を行う。上院で与党は十分な数を獲得していなかったが、野党以外の議員たちからの支持を受け、法案は可決した。下院では与党が圧倒的に優勢だったため法案の可決はたやすく、こうして憲法制定以来の懸案だった第370条の廃止は実現した。

 それと時を同じくして、テロリストのザーキル・ナイクー(アシュウィニー・カウル)は有力政治家のジャラールを暗殺し、同州に騒動を巻き起こそうとしていた。ズーニーはジャラールを護送し、襲撃してきたテロリストに立ち向かって、ナイクーを殺す。こうして、憲法第370条廃止の余波によって無実の犠牲者が一人も出ることのないようにという首相の切実な願いも同時に実現されたのだった。

 モーディー政権によって憲法第370条が廃止された後、その違法性と無効化を主張する訴訟が行われた。2023年12月11日に最高裁判所は判決を下し、憲法第370条廃止は合法かつ有効であるとした。これによって憲法第370条の廃止は確定した。「Article 370」は満を持して公開されたといえる。

 憲法第370条廃止を巡る議論の中で長年最大の争点になってきたのは、ジャンムー&カシュミール州の憲法制定会議(Constituent Assembly)である。憲法第370条の中で、この暫定的に盛り込まれた条文を廃止するためには、同州の憲法制定会議の同意が必要とされていた。ところが憲法制定会議は1957年に解散されてしまった。よって、憲法第370条廃止に必要な組織がなくなり、それをもって憲法第370条は恒久化したとする解釈が主流であった。つまり、ジャンムー&カシュミール州に一時的に認められた自治権はその時点をもって不可侵になってしまったのだった。

 2019年8月5日にモーディー政権が突如として実行した憲法第370条廃止は、それゆえに多くの人々を驚かせた。一体どのような法的根拠でその廃止が実現したのか。「Article 370」はその舞台裏を克明に描き出している。

 ただし、ブルハーン・ワーニー殺害やプルワーマー事件など実際の出来事を織り交ぜながらも、巧みにフィクションが織り交ぜられているため、全てが全て真実だと受け止めるのは危険である。たとえば、憲法第370条の条文修正を巡って過去に大統領によって発令された憲法令(Constitution Order/C.O.)に関して、当時政権を握っていた国民会議派(INC)が国民を欺くような行為をしていたような叙述があったが、それについては慎重な検証が必要だ。ワーニーの殺害についても、殺害自体は事実であるものの、彼の居場所を特定して作戦が実行されたのではなく、実際には治安部隊が別の目標を追って急襲をした場所にワーニーがたまたま居合わせて射殺されることになったとされている。他にも事実と異なる部分はたくさんある。主人公のズーニーについても、勇敢な女性であったが、実在の人物ではないとしていいだろう。

 もっとも注視すべきなのは憲法第370条廃止までの法的なプロセスである。インド憲法で使われている英語は高尚すぎて分かりにくく、新聞記事などで読んでもなかなか理解しづらい。この映画を観るとそれがかなりよく分かるようになる。映画の中では具体的な政党名が出て来るわけではないが、ここでは分かりやすくするために実在する政党名を出して解説する。

 まず、ジャンムー&カシュミール州では2015年から地元政党である人民民主党(PDP)と中央与党のBJPとの間で連立政権が続いていたことがポイントとなる。PDPは、地元政党の国民評議会(NC)とライバル関係にあるが、2014年末に実施された州議会選挙ではどの政党も過半数に達せず、BJPとの連立で過半数を確保し、政権運営を行っていた。映画の中ではプラヴィーナー・アンドラビーといいう女性政治家がPDPの党首となる。モデルになっているのは同州において女性として初めて州首相を務めた、PDPのメヘブーバー・ムフティーだ。

 この連立政権は2018年6月にBJPが支持を撤回したことで瓦解し、その後同州は州知事統治となった。通常、州政府を担える政権が形成されないと大統領統治となるところであるが、憲法第370条の規定によりジャンムー&カシュミール州だけは例外で、直接大統領統治に移行せず、州知事統治の期間を挟むことになった。州知事というのは中央から派遣される名誉職の州政府元首であるが、非常時には実権を持つ。だが、州知事統治期間中も政情は安定せず、2019年1月に大統領統治となった。この大統領統治は7月に半年延長された。よって、憲法第370条廃止が行われた8月5日には、ジャンムー&カシュミール州に州政府や州議会は存在せず、大統領が全権を握る状態になっていた。当時の大統領はラームナート・コーヴィンドであったが、BJP政権時代の2017年に任命されており、当然のことながらBJPの意のままに動くことが期待されていた大統領であった。とはいっても元々インドの大統領は政治的な実権を持っていない。それはつまり、国会にジャンムー&カシュミール州の政治を決定する権利が委ねられていたことになる。

 ところでインド憲法の第367条では「解釈」について規定されている。インド憲法は日本国憲法と異なって柔軟性があり、改正も比較的容易で、しかも正式な改正手続きを踏まなくても運用を変える手段が複数用意されている。「解釈」もそのひとつだ。さらに、第370条1項d号において、大統領にはジャンムー&カシュミール州に適用される条文を選ぶ権限や、それを除外・修正する権限が与えられている。憲法第370条廃止に当たっては、この「解釈」と第370条1項d号が最大限活用された。

 8月5日、首相の要請に従い、大統領は憲法令(C.O.272)を発令した。これは、インド憲法の全条文をジャンムー&カシュミール州に適用すると同時に、第367条に新たに第4項を追加し、ジャンムー&カシュミール州に関して、憲法第370条に規定された「憲法制定会議」を「州議会」と解釈するものだった。これによりジャンムー&カシュミール州議会が憲法第370条廃止について決定権を持つことになったが、前述の通り同州は大統領直轄となっていたために州議会は存在しておらず、大統領にその判断が委ねられることになった。それは、実際的には国会に判断が委ねられたことを意味した。

 インドは日本と同じく二院制を敷いており、国会には上院と下院がある。憲法改正には各院出席議員の2/3以上の賛成が必要となる。BJPは下院にて単独で過半数を獲得し、連立政党などと併せると十分な数を擁していたが、上院では数が足りなかった。モーディー首相は敢えて上院で先に憲法第370条廃止の法案を審議することにした。秘密裏に進めていたため、事前に他の政党との根回しが行われていたとは思えない。大きな博打に出たといってもいいが、BJP以外にもジャンムー&カシュミール州のインド完全統合を悲願とする政党は存在し、期待通り協力が得られた。法案は2/3ギリギリとなる67%の賛成票を得て上院で可決し、続けて下院でも8割以上の賛成票を得て可決した。こうして、憲法制定以来70年近くにわたって懸案となっていた憲法第370条の廃止が決定し、ジャンムー&カシュミール州は完全にインドの一部になった。歴史的瞬間であった。同時に、同州をジャンムー&カシュミールとラダックに二分割し、どちらも連邦直轄地にする法案も可決された。

 インド神話は、解決が不可能に思える無理難題をトンチや屁理屈のような手段で強引に解決するストーリーで溢れている。たとえば、ブラフマー神から「家の中でも外でも、昼でも夜でも、地上でも空でも、いかなる武器でも、人間にも動物にも、神にも悪魔にも殺されない」という恩恵を授かって無敵になった悪魔ヒラニヤカシヤプは、ヴィシュヌ神の化身である人獅子神ナラスィンハによって殺された。なぜナラスィンハはヒラニヤカシヤプを殺すことができたのか。なぜなら、神の化身で人間と動物が合わさった化け物のような容姿をしたナラスィンハは人間でも動物でも神でも悪魔でもなく、ヒラニヤカシヤプを家の中でも外でもない玄関において、昼でも夜でもない黄昏時に、地上でも空でもない膝の上にて、武器ではない爪によって殺したからだ。モーディー政権が強行した憲法第370条廃止は、正にナラスィンハによるヒラニヤカシヤプ殺害を思わせるようなウルトラCであった。この見事な手法をまざまざと見せられ感服するのがこの「Article 370」鑑賞の肝になるのだが、その大体の骨子については作り話ではなく事実であることを踏まえると、さらに驚かされる。

 娯楽映画として成立させるために「Article 370」には様々なフィクションが追加されているが、軸となるのはこの部分であり、憲法第370条廃止の合法性について国民に分かりやすく説明する内容になっている。BJPへの忖度、というより、BJPの協力がなければ作れないストーリーであり、プロパガンダ映画の域は出ないが、このプロセスの合法性については最高裁判所の判決も出ているため、疑問を差し挟むことは難しい。2018年にジャンムー&カシュミール州を州知事統治に持ち込み、それを後に大統領統治に切り替え、2019年に憲法令と法案の国会審議を経て憲法第370条が廃止され、2023年に最高裁判所がその合法性にお墨付きを与え、2024年に映画がそのプロセスを分かりやすく国民に提示した。そしてタイミングよく下院総選挙を迎える。そこまでセットだと考えると、プロパガンダ映画だと批判したい気持ちが萎えてしまうほどの鮮やかすぎる連係プレイだ。

 今までほぼ無名だったアーディティヤ・スハース・ジャーンバレーという監督がこのような国家的なプロジェクトの一部となるプロパガンダ映画を任されたこと、そしてそれを素晴らしい手腕で遂行したことにも大いに驚かされる。過去には短編映画で受賞もしており、才能ある監督なのだろうが、今後注目せざるを得ない。

 「Article 370」に関してもうひとつ重要だったのは、なぜ憲法第370条廃止が必要だったのか、という理由の部分だ。この映画ではそれについて深掘りされてはいなかったが、ナレーションの中でいくつか触れられていた。憲法第370条があるせいで、ジャンムー&カシュミール州にはインド憲法のいくつかの重要な条文が施行されておらず、州民は多くの不便を被っていた。たとえば同州の女性は州外の男性と結婚すると同州の資産を没収されてしまう。同州にも不可触民がいるが、インド憲法で保障されている権利が付与されておらず、彼らの人権が抑圧されたままだった。カシュミーリー・パンディトの受難については「The Kashmir Files」(2022年)で語られていた通りである。また、同州では政治家、警察、テロリスト、パーキスターン軍などが結託することで汚職が横行している様も映画では描き出され、憲法第370条にその根本的な原因があるとされていた。ズーニーの父親の死因も憲法第370条を遠因とする汚職のせいで自殺と決め付けられ、そのために彼女は憲法第370条に恨みを抱いていたという設定だった。決してカシュミール人を一様に糾弾するような内容ではなく、彼らも憲法第370条の被害者だったのだという論調であった。

 映画の最後では、憲法第370条が廃止され、同州に発展がもたらされた様子が簡単に紹介されていた。たとえば2022年には同州に初めてマルチプレックスが開館した(参照)。騒乱が続いていた同州では20年以上にわたって映画館が存在せず、州民たちは映画館で映画を楽しむ機会を奪われていたのである。元々同州は観光業で潤っていたが、騒乱により大打撃を受けていた。その観光業も憲法第370条廃止以降はV字回復し、同州を訪れる観光客の数は過去最高を更新し続けている。ジャンムー&カシュミール準州の明るい未来が暗示されていたが、その真偽は下院総選挙ではっきりするだろう。

 主役ズーニーを演じたヤミー・ガウタムは2010年代に台頭してきた女優で、アーディティヤ・ダル監督の「Uri: The Surgical Strike」にてブレイクした。以降、「A Thursday」(2022年)や「OMG 2」(2023年)など、高い評価を受けている。ダル監督とは2021年に結婚しており、今回は夫がプロデューサーを務める映画でキャリアベストともいえる女性エージェントを熱演した。素晴らしい演技だった。

 もう一人の主役はラージェーシュワリー・スワーミーナータンであり、彼女を演じたのは南インド映画女優のプリヤマニである。過去には「Jawan」(2023年)などのヒンディー語映画にも出演していた。「Article 370」では、清楚なサリー姿に身を包み、首相が決定した憲法第370条廃止を陰ながら支える頭脳派の女性官僚を演じた。その冷静かつ献身的な演技は強く印象に残った。

 ナレーンドラ・モーディー首相に似た首相役を演じたのはアルン・ゴーヴィルだ。彼は伝説的なTVドラマ「Ramayan」(1987-88年)でラーマ役を演じたことで有名な男優である。2024年1月のラーム生誕地寺院開眼供養式でも招待されており、モーディー首相自身と近い存在であることが予想される。しばらく引退状態にあったが、最近になって急に表舞台に復活した。

 アミト・シャー内相に似たマーダヴ・パテール内相役を演じたのはキラン・カルマルカルである。マラーティー語映画界で長く活躍してきた人物であるが、やはり最近になってヒンディー語映画への露出が目立つようになってきた。本来なら彼は禿ではないのだが、シャー内相の外見に合わせて禿のかつらをかぶっての演技となった。

 本来ならばモーディー首相とシャー内相のリーダーシップにより憲法第370条の廃止が実現したのであろうが、この映画ではズーニーとラージェーシュワリーという2人の女性の活躍に焦点が当てられている。2010年代から続く女性中心映画の流れを汲んでいるのであろうし、あからさまに実在の政治家を礼賛する演出を避けたのであろうが、娯楽映画として成立したのは彼女たちの存在があったからである。とはいえ、モーディー首相とシャー内相を持ち上げていることには変わりがない。彼女たちの本業以外での素顔が詳細に描かれていたわけでもなかったのは時間の関係であろうか。ズーニーの死んだ父親に関して悲しいエピソードが紹介されていたくらいだ。

 「Article 370」は、第二次モーディー政権時代の大きな成果である憲法第370条廃止を題材にした映画である。近年、映画が政治の道具になっていることを懸念する声が上がっているが、この映画も間違いなくそのリストに加えられる問題作となる。下院総選挙が迫る中、政権を主導するゴールデンコンビ、モーディー首相とシャー内相に似たキャラが優れた政治家として描出されており、憲法第370条廃止の合法性についても丁寧に説明がなされている。プロパガンダ映画の誹りは免れない。だが、逆にBJPが映画をこうして政治の道具にすることで、映画はインド政治を語る上で欠かせない存在になった。従来、インド関係の政治学者は映画を下に見て無視しようとする傾向にあったが、モーディー政権時代に入り、もはや映画を研究対象から外すことは不可能になっている。さらに、そういう文脈を切り離しても、「Article 370」は娯楽映画としてよく出来ており、純粋に楽しむことができる。興行的にも成功しており、4-5月に予定されている下院総選挙への影響も今後分析されることになるだろう。あらゆる意味で必見の映画である。