23年振りの映画館開館

 2020年から始まった新型コロナウイルスによる世界的な大流行により、インドでも様々な産業が悪影響を受けたが、その中でも映画産業は最悪の部類に入るだろう。断続的なロックダウンによって映画館が封鎖された時期が続き、人々の映画館離れが進んだ。

 現在、インドの映画館数は8,000館ほどに落ち込んでいるという。コロナ禍前には12,000館あったとされているが、インドの映画館数はデータによって数がまちまちであり、実際のところよく分からない。複合スクリーン型映画館であるマルチプレックスの登場により、スクリーン数との混同も見られるようになり、余計複雑になった。

 昔ながらのシングルスクリーン型映画館は、大手マルチプレックスチェーンの拡大により相次いで閉館していく流れがコロナ禍前から見られたが、コロナ禍によってとどめを刺された映画館は多かったと思われる。よって、インドにおいて映画館数が減少しているのは紛れもない事実であろう。そして、どうもこの期間に映画館数で中国に追い抜かれたようである。中国の映画館数はコロナ禍をものともせずに右肩上がりで伸びている。

 そんな中、明るいニュースも飛び込んできた。カシュミール地方の主都シュリーナガルに、23年振りとなる映画館が開館したとのことである。しかも、大手マルチプレックスチェーンINOX系列のマルチプレックス(複合スクリーン型映画館)である。インドにマルチプレックスが導入されたのは1997年のことであり、当然のことながら、これがカシュミール地方初のマルチプレックスになる。

Myoun INOX Cinema
©Malikswiki

 カシュミール問題で詳述した通り、1980年代からカシュミール地方では断続的に騒乱が続いている。映画が「非イスラーム的」とみなされたことで、映画館がイスラーム教過激派テロの標的になり、客足が途絶え、相次いで閉館に追い込まれた。1999年には州政府はシュリーナガルの3館を再開しようとしたが、初日に爆弾テロに見舞われて死者を出し、希望の灯火は即座に絶たれることになった。以来、カシュミール人の大半は映画館で映画を鑑賞するという楽しみを味わえずに過ごしてきた。インド人は映画好きな国民性だが、主要都市にすら映画館がないような地方もあったのである。

 だが、2019年に、他州とは異なる自治権を持っていたジャンムー&カシュミール州が連邦直轄地(準州)に格下げされ、インドに完全に併合されたことで、状況が変わった。カシュミール併合を強行したナレーンドラ・モーディー政権は、カシュミール地方に発展を呼び込むことで住民からの支持を取り付けたい思惑で、その方策のひとつとして映画に力を入れ始めている。

 シュリーナガルに開館した初のマルチプレックスを開館させたのも、モーディー政権の肝いりだと考えていいだろう。2022年に9月20日に開館式が催され、アーミル・カーン主演の「Laal Singh Chaddha」(2022年)が上映された。2日前にはプルワーマーとショピヤーンにもシングルスクリーン館が開館しており、ここのところカシュミール地方では映画館の開館ラッシュになっている。

 10月2日付けのタイムズ・オブ・インディア紙には、開館後の「Myoun INOX Cinema」の様子が報告されていた(First day, first show: Kashmir keeps its date with the movies)。この週には、サイフ・アリー・カーンとリティク・ローシャン主演の「Vikram Veda」(2022年)が封切られており、10月1日のモーニングショーがいわゆる「ファーストデー・ファーストショー」であった。残念ながら520席のホールに観客は20人ほど。盛況とは言いがたい状況だ。しかし、オーナーのヴィカース・ダル氏は希望を失っていない。まずは騒乱の続くカシュミール地方に映画館が戻ってきたことが大変な業績であり、今後、カシュミール人の生活に映画が戻ってくると確信している。

 その記事には地元の人々のインタビューもいくつか掲載されていた。驚かされるのは、カシュミール地方にこれだけ長いこと映画館が存在しなかったことで、映画館がどういうものなのか知らない世代が支配的になってしまっていることだ。Myoun INOX Cinemaで警備員をする23歳のイシュラト・ラスールさんは、この仕事に就くまで映画館を全く知らなかったという。映画館での映画鑑賞体験について、「サイズも音量も全てが大きい。心臓がドキドキする」と、素朴だが心を打つ感想を寄せている。カシュミールでの映画館開館を映画化すると、映画という娯楽の原点を思い返すことのできるいい作品になりそうだ。また、根っからの映画好きは、従来は何時間もかけてジャンムーなどに出向き、映画を観ていたという。カシュミール地方に映画館ができたことで、そういう苦労をしなくてもよくなりそうだ。

 ただ、日常的にテロにさらされているカシュミール地方の映画館だけあって、セキュリティーは非常に厳しいようだ。インドの映画館は基本的にセキュリティーが厳しく、入館前には手荷物チェックがあり、金属探知ゲートを通らされる。大きな荷物や精密機器などは持ち込みを拒否されることもある。シュリーナガルではそれに輪を掛けて厳しいセキュリティー体制が敷かれている。二重のセキュリティーチェックがある他、武装した治安部隊が館内を警備をしている。空港並みの警備である。

 地元には、娯楽産業を優先的に振興する政府の政策に批判もあるようだ。映画などよりもまず、若者のための教育、技術習得、就職や起業などに力を入れて欲しいとの意見も寄せられている。ただ、映画館が地元の雇用創出に貢献していることは確かであるし、今後カシュミール地方が映画ロケ地としての輝きを取り戻せば、より多くの雇用にもつながっていくことだろう。政府はロケ地の誘致にも積極的で、フィルムシティーの建設計画もあるようである。

 2019年のジャンムー&カシュミール州併合は賛否を巻き起こしたが、モーディー首相の人気の源泉は、州首相時代にグジャラート州を発展させた手腕にある。カシュミール地方に平和を取り戻すためには、発展でもって地元の人々の不安を取り除いていくしかないだろう。シュリーナガル初のマルチプレックスは、その象徴のひとつとして数えられることになりそうだ。