Lafangey Parindey

3.0
Lafangey Parindey
「Lafangey Parindey」

 2000年代後半に活発に活動するようになった若手俳優の中で既に勝ち組がはっきりして来ており、最近のヒンディー語娯楽映画は、その勝ち組の男優と女優を組み合わせて作るのが一種のトレンドとなっている。勝ち組を具体的に指摘するならば、男優からはランビール・カプールやイムラーン・カーンなど、女優からは、カトリーナ・カイフ、ディーピカー・パードゥコーン、ソーナム・カプールなどが挙げられ、その他、ユニークな立ち位置にいるアバイ・デーオール、ファルハーン・アクタルや、南インドの映画界からチャンスをうかがっているジェネリアやアシンなどの動向も注目される。これに加えて長年ヒンディー語映画界で活躍して来た新旧の大御所俳優たちが引き続き存在感を放っており、彼らがヒンディー語映画界のメインストリームを構成していると言っていい。

 本日(2010年8月20日)より公開の「Lafangey Parindey(ならず者と鳥)」は、ニール・ニティン・ムケーシュとディーピカー・パードゥコーンの初共演作である。上で敢えてニール・ニティン・ムケーシュの名前は挙げなかった。なぜなら彼は、メジャーデビュー作「Johnny Gaddaar」(2007年)のスマッシュヒットを除けば、まだ主演作で大したヒットがないからである。しかし、十分上を狙える位置におり、その証拠に今回飛ぶ鳥を落とす勢いのディーピカーとの共演が実現した。よって、ニールにとって重要な作品となる。

 監督は「Parineeta」(2005年)で高い評価を得たプラディープ・サルカール。だが、次の「Laaga Chunari Mein Daag」(2007年)を外しており、ここで起死回生の一作と行きたいところである。ただ、「Lafangey Parindey」は、彼の今までの2作とはまた違った雰囲気の映画で、守りに入っていないことがうかがわれる。プロダクションは、ヒンディー語映画界最大の映画コングロマリット、ヤシュラージ・フィルムスである。

 題名の翻訳には多少迷いがあった。「Lafangey Parindey」の「Lafangey」はヒンディー語の言語的特徴から形容詞・名詞のどちらとも受け止められる。もし形容詞だとしたら、題名は「ならず者の鳥たち」になり、もし名詞だとしたら、題名は「ならず者たちと鳥たち」になる。映画のストーリーや映画音楽の歌詞から判断したところでは、これは主人公の男女2人をそれぞれ象徴した言葉で、後者と受け止めた方がより自然だと判断した。ただ、複数形で考えると変なので、単数形で考えた。呼格と考えればこの問題は解決するが、言葉遊びの一種で、そこまで深く考える必要もないだろう。

監督:プラディープ・サルカール
制作:アーディティヤ・チョープラー
音楽:Rアーナンド
歌詞:スワーナンド・キルキレー
振付:ボスコ=シーザー
衣装:マノーシー・ナート、ルシ・シャルマー
出演:ニール・ニティン・ムケーシュ、ディーピカー・パードゥコーン、ピーユーシュ・ミシュラー、マニーシュ・チャウダリー、ヴィラージ・アダヴ、ナミト・ダース、ヴィナイ・シャルマー、パローミー、アマイ・パーンディヤ、ケー・ケー・メーナン(特別出演)、ジューヒー・チャーウラー(特別出演)、ジャーヴェード・ジャーフリー(特別出演)、シヤーマク・ダーヴァル(特別出演)
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

 ムンバイーの低所得層が住むティラクワーディー地区に住むナンダン・カームテーカル(ニール・ニティン・ムケーシュ)は、アンダーグランドで毎週金曜日に開催されている違法賭博ボクシングのチャンピオンで、「ワン・ショット・ナンドゥー」の異名を持っていた。ナンドゥーは腕っ節が強いだけでなく、目隠しをして対戦相手と戦って勝つ独特のスタイルを確立していた。ナンドゥーは違法賭博の総元締めオスマーン・アリー(ピーユーシュ・ミシュラー)や、その右腕アンナー(ケー・ケー・メーナン)からも可愛がられていた。

 同じティラクワーディー地区には、ピンキー・パールカル(ディーピカー・パードゥコーン)という女の子も住んでいた。ピンキーは日中モールで従業員として働いていたが、彼女にはダンサーになる夢があった。タレント発掘番組「インディア・ゴット・タレント」のオーディションが行われることを知り、ピンキーは同僚と共にローラースケート・ダンスの練習に励んでいた。

 あるとき、オスマーンから呼び出しを受けたナンドゥーは、自動車を運転する仕事を頼まれる。アンナーは、ナンドゥーが運転する自動車に乗って対立マフィアを暗殺する。ナンドゥーとアンナーは逃亡するが、その途中で誰かをはねてしまう。アンナーはナンドゥーを下ろし、一人で走り去る。その後、アンナーは遺体で発見された。

 ナンドゥーがはねたのはピンキーだったことが分かる。ピンキーはこの事故によって両目の視力を失ってしまう。世間ではアンナーが1人で自動車を運転して暗殺をし、ピンキーをはねたことになっていたため、ナンドゥーが疑われることはなかったが、ナンドゥー自身は罪悪感に苛まれていた。

 退院後、仕事はクビになってしまったものの、ピンキーは踊りの練習を続けようとしていた。だが、盲目になったためにパートナーも別の人とオーディションに出場することを決める。ピンキーの夢は完全に閉ざされようとしていた。しかし、ナンドゥーがピンキーに救いの手を差し伸べる。元々目隠しボクシングを得意としていたナンドゥーは、盲目となったピンキーに、目が見えなくても周囲の物事を判断するテクニックを教わる。徐々に踊れるようになって来たピンキーは、ナンドゥーをダンスパートナーに抜擢する。最初は断るナンドゥーであったが、やがて折れ、ローラースケートを履いて踊る練習をし始める。2人の間に恋が芽生えるのも時間の問題であった。

 ナンドゥーは真剣にピンキーとの結婚を考えるようになるが、ピンキーがボクシングで金儲けをしている男とはどんな女性も結婚しようとはしないと言っていたため、用心棒の仕事をし始める。ナンドゥーとピンキーのペアはオーディションを勝ち抜き、最終5組にも選ばれる。ナンドゥーはこれを機にボクシングを止めることを決意し、オスマーンに相談しに行く。この事態を予想していたオスマーンは、ナンドゥーがボクシングを止めることを許すが、その代わり最後の試合に敗北して引退するように勧告する。無敗だったナンドゥーは、最後の試合でKO負けを喫する。

 一方、とある警察官がピンキーのひき逃げ事件を執拗に捜査していた。その結果、ナンドゥーの名前が浮上する。警察官はピンキーに会いに行き、彼女をはねたのはアンナーではなく実はナンドゥーであると明かす。ショックを受けたピンキーは、敗北したばかりのナンドゥーに対し絶好を言い渡す。

 「インディア・ゴット・タレント」の決勝戦が行われようとしていた。ピンキーは、ナンドゥーとのペアを解消し、1人で出演すると言い出す。ギリギリまでテレビ局側には真実を明かず、本当に1人でステージに立つ。審査員として来場していたジューヒー・チャーウラー(本人)、ジャーヴェード・ジャーフリー(本人)、シヤーマク・ダーヴァル(本人)は驚き、失格にしようとするが、途中でナンドゥーが入って来る。ピンキーは最初戸惑うが、すぐにペースに乗り、息がピッタリの踊りを披露する。トラブルはあったものの、ナンドゥーとピンキーは優勝する。

 収録後、ピンキーはナンドゥーを待っていた。ピンキーは、自分をひいて盲目にしたのはナンドゥーだが、その自分に見ることを教えたのもナンドゥーであると考え、彼を許す。ナンドゥーとピンキーは熱い口づけを交わす。

 盲目をはじめとする身体障害を物語の中心に据えた映画は、ヘレン・ケラーの人生をルーズにベースとしたヒンディー語映画「Black」(2005年)の成功後にヒンディー語映画界で増えたのだが、何となくデリカシーに欠ける表現が多く、そういう事柄に過敏な社会に生きている日本人にとっては、嫌悪感を覚えるものも少なくなかった。「Lafangey Parindey」の中心にいるのも、事故によって盲目となった女性である。だが、この映画は潜在的に精神に負荷を与えるような要素をなるべく(いい意味で)軽く扱う努力をしており、不思議と盲目という点がストーリーの真の中心になることはなかった。ヒロインのピンキーは盲目になってもガッツを失わず、彼女が視力を失ったことへの悲しみを吐露するシーンは意外にも少ない。タレント発掘番組でも、ピンキーが盲目であることは特に審査員などに明かされていなかったようである。それだけでなく、この映画には完全な悪役がいない。違法賭博の総元締めオスマーンも極悪人ではなく話の分かる人物であるし、ピンキーをひき逃げした真犯人=主人公ナンドゥーを追う警察官も人情的である。登場人物の多くは低所得層で、低所得層が集住する地区に住んでいるが、貧困を感じさせるようなシーンもなかった。

 ボクシングやダンスという派手な要素があったものの、物語の中心となっていたのはやはり恋愛である。女の子の側がぐいぐい引っ張って行くタイプの恋愛で、主演2人の好演もあって、とても微笑ましいシーンが多かったが、その恋愛の革新は、同情との葛藤であった。ナンドゥーは、自分がピンキーをひいてしまったという引け目からピンキーの手助けを始める。その動機は罪悪感であり、言わば同情だっただろう。だが、その事実を知らないピンキーは、ナンドゥーをとても親切な人間だと考えるようになり、絶対の信頼を置くようになる。ピンキーがナンドゥーをダンスパートナーに選んだのも、彼が同情で彼女を助けている訳ではないと考えていたからである。このギャップがストーリーの中心であった。そしてこのギャップを抱えつつも二人はお互いに惚れ合うようになり、最終的には強気なピンキーがナンドゥーに愛の告白をする。もちろん、このときまでにナンドゥーのピンキーに対する気持ちは同情ではなく愛情になっていたのだったが、ピンキーに真実を隠していることが彼の気持ちを引っ張ることとなった。

 インド娯楽映画ではこういう場合、必ず最終的に真実を明かすことを決意することになる。相手に何か隠し事をしながら、付き合ったり結婚したりすることは、インド娯楽映画の文法では決して好まれない。だが、その決意をした途端、他の方面から本人に真実がばれてしまうというのが常套手段で、「Lafangey Parindey」でもその伝統的手法が踏襲されていた。具体的には、ピンキーひき逃げ事件を密かに捜査していた警察官が、ピンキーに真実を暴露してしまうのである。捜査の進行状況はストーリーの合間に効果的に挿入され、スリルを煽っていた。真実を知ったピンキーは当然ナンドゥーと絶交する。そうなった場合の解決法もインド娯楽映画では既に定石がある。真実を明かそうとしたことを知る友人などが、真実を明かそうとした相手にそのことを伝え、仲を取り持つのである。やはり「Lafangey Parindey」でも全くもってその手法で解決がなされており、ボクシングを止めたナンドゥーの決意を友人がピンキーに伝えていた。そういう意味ではとても古風な映画であった。

 昨今テレビが社会的影響力を増して来たことを反映し、ヒンディー語映画の中でテレビ番組が扱われることも多くなった。「Rann」(2010年)や「Peepli Live」(2010年)などが代表例だし、「Slumdog Millionaire」(2008年)もその国際的な例だが、ここ数年人気のタレント発掘番組をストーリーに組み込むことも出て来た。その最初の例は「Rab Ne Bana Di Jodi」(2008年)であり、「Chance Pe Dance」(2010年)が続くが、この「Lafangey Parindey」はその最新の例だと言える。特に「Lafangey Parindey」のプロデューサー、アーディティヤ・チョープラーが監督した「Rab Ne Bana Di Jodi」との類似性は指摘されざるをえないだろう。それでも、タレント発掘番組の決勝戦をクライマックスに持って来る脚本はヒンディー語映画の歌と踊りの伝統と相性が良く、「Rab Ne Bana Di Jodi」に続いてとても感動的なシーンに仕上がっていた。さらに、ピンキーが盲目であることが、「Rab Ne Bana Di Jodi」よりも緊迫感あるクライマックスを演出していた。ナンドゥーと絶交したピンキーは決勝戦において一人で踊り出すのだが、まるでナンドゥーがいるかのような表現力豊かなダンスであった。そこへ駆けつけたナンドゥーが途中から参加し、彼女の影となって踊る。当然、ピンキーは彼の存在に気付き、やって来たことを責めるのだが、彼に説得されて踊りを続ける。この瞬間、このペアの最高の踊りが引き出されるのだった。

 総じて感動的な映画になっていたのだが、それに大きく貢献していたのがヒロインのディーピカー・パードゥコーンである。今回彼女が自分で台詞をしゃべっていたのか不明なのだが、もしそうだとしたら満点を与えたい。タポーリー・バーシャー(ムンバイヤー・ヒンディー)で強気な発言を繰り返すピンキーは、関西弁を話す女性が何となく魅力的に見えるのと同じ効果なのか、非常に魅力的であった。要所要所の演技もとても心のこもったものであった。特に月についてナンドゥーと語り合うシーンや、最後にナンドゥーを受け容れるシーンなどは、素晴らしかった。その上、ローラースケートを履いて踊るという、運動神経が悪いとできない芸当をしていた。見たところ代役ではなく本人が踊っていた。さすが元バドミントン選手である。この映画で、ディーピカーはライバルのカトリーナやソーナムよりも頭ひとつ飛び抜けた印象である。

 ディーピカーの相手役ニール・ニティン・ムケーシュも堅実な演技であった。腕っ節は強いが奥手なナンドゥーを、持ち前のオドオドした表情を駆使して、巧みに表現していた。強さと弱さを同時に演じ分けられたことで、俳優としての成長を印象付けた。ゴシップ好きな人には、ニールとディーピカーのキスシーンも見所となるだろう。見ているこっちが恥ずかしくなるくらいの、明白かつ長時間の口づけであった。

 違法賭博の総元締めオスマーン・アリーを演じたピーユーシュ・ミシュラーも良かった。特別出演の俳優が数人いるが、その内で比較的重要な役を演じたのはケー・ケー・メーナンのみ。小汚い風貌で突然ぬっと現れるので覚悟した方がいい。

 音楽はRアーナンド。まだ無名の音楽監督だが、TVCMの音楽作曲で活躍している人物で、今後映画界でも活躍しそうだ。ARレヘマーンなども同様の道を辿って才能を開花させている。そこまで多くの歌が挿入されていた訳ではないが、「Man Lafanga」はナンドゥーがピンキーに恋したときに流れ、非常に印象的な使われ方をしていた。「Ishq Mahnge Pade Phir Bhi Sauda Kare(恋は高い買い物、それでも取引は止めない)」という歌詞が後々まで脳裏に響いていた。

 上で少し触れたが、この映画の言語はタポーリー・バーシャーともムンバイヤー・ヒンディーとも呼ばれる、ムンバイーの路上で話されているヒンディー語の一方言である。しかも手加減なしの訛り具合なので、通常のヒンディー語映画に比べて台詞の理解度は低かった。

 「Lafangey Parindey」は、ストーリーラインに目新しさはないものの、ディーピカー・パードゥコーンの熱演が光る佳作である。名作「Parineeta」の実績があるプラディープ・サルカール監督にはもっと冒険をして欲しい気もするのだが、これはこれでよくまとまっている。ファイティングシーンやダンスシーンも満載だが、中心はロマンス。多少の流血はあるが、極度に観客の心を沈ませないような配慮が感じられ、娯楽映画として安心して観られる作品である。