Black

4.5

 先週からなぜか似たような名前の映画が続けて公開された。先週は「Black Friday」と「Black Mail」という映画が同時に公開されるはずだったが、直前になって「Black Friday」は公開中止になった。そして本日(2005年2月4日)、「Black」という映画が始まった。今日は「Black」をPVRプリヤーで鑑賞した。

 「Black」の監督は、「Hum Dil De Chuke Sanam」(1999年/邦題:ミモラ)や「Devdas」(2002年)のサンジャイ・リーラー・バンサーリー。キャストはアミターブ・バッチャン、ラーニー・ムカルジー、シェールナーズ・パテール、ドリティマーン・チャタルジー、アーイシャー・カプール(子役、新人)、ナンダナー・セーンなど。バンサーリー監督の前2作とは打って変わって、ハリウッド的感動作に仕上がっていて驚いた。涙なくしては見れない傑作である。

 英領インド時代のシムラー。アングロ・インディアンの家に生まれたミシェル・マクネリー(アーイシャー・カプール/ラーニー・ムカルジー)は、生まれつき盲目でしかも聾唖だった。ミシェルは8歳になったが、知能は発育せず、好き勝手に振る舞い、毎日のようにトラブルを起こしていたが、両親はそれを黙認していた。父親のポール(ドリティマーン・チャタルジー)はミシェルを精神病院へ入れようとしたが、母親のキャサリン(シェールナーズ・パテール)はそれに反対していた。ミシェルにはサラ(ナンダナー・セーン)という妹もいた。

 ある日、ポールとキャサリンは最後の望みを託して一人の教師を雇う。それがデーブラージ・サハーイ(アミターブ・バッチャン)だった。デーブラージは傲慢で強引な男だったが、どうすればミシェルが言葉やマナーを覚えるか知っていた。彼の口癖は「不可能はない」だった。ポールの反対にあいながらもデーブラージはミシェルに根気良く言葉とマナーを教え、水に「water」という名前があることを知ったのをきっかけに、全ての事象には名前があることを認識する。

 それからミシェルは多くの言葉を覚え、やがて大学に入学することができた。しかし、盲目で聾唖者のミシェルには進学することが難しく、落第していた。だが、ミシェルは諦めなかった。だが、その内デーブラージに異変が起こり始めた。やたらと物忘れが激しくなったのだ。アルツハイマー痴呆症である。

 そのとき、ミシェルの妹サラの結婚式が行われた。ミシェルは世の中に愛、結婚、キスというのものがあることを知る。その夜、ミシェルはデーブラージにキスを迫る。デーブラージは彼女にそっとキスをし、そのまま彼女のもとを去る。そのまま彼は長い間帰って来なかった。

 それから12年の歳月が過ぎ去った。ミシェルは40歳になっていた。だが、デーブラージの消息は分からなかった。ある日、教会からの帰りに、突然ミシェルとサラはデーブラージが噴水の傍に座っているのを発見する。だが、デーブラージは元々目に病気を抱えており、既に盲目となっていた。しかもアルツハイマー痴呆症は末期症状に達しており、彼は何も覚えていなかった。ミシェルのことすら忘れていた。ミシェルは必死にデーブラージに記憶を思い出さそうとするが、効果はなかった。

 その年、ミシェルは遂に大学を卒業することになった。彼女はデーブラージの前で自分が大学を卒業したことを示す。ミシェルの大学卒業はデーブラージの夢でもあった。デーブラージは彼女の卒業の衣を触り、少しだけ記憶を取り戻す。デーブラージは、この世界に不可能がないことを、自らの身をもって再び証明したのだった。今度はミシェルが、デーブラージに言葉を教える番だった。

 またひとつ、突然変異的な傑作インド映画が誕生した。あらゆる意味で「Black」は普通のインド映画ではない。インド映画の伝統や枠組みを打破するインド映画である。ミュージカルシーンがない、歌と踊りがない、あからさまなコメディーが入らない、大袈裟な効果音が入らない、演技がヒーロー、ヒロインっぽくない、舞台はインドなのにインドを感じさせない、などなど、インド映画がこれまで遵守して来たルールを全て無視するかのような衝撃的な映画だった。

 これまでヒンディー語映画のスターというと、皆が憧れるようなかっこいいヒーロー役しか演じて来なかったイメージがある。だが、最近は頭の狂った人のような役を演じるスターが増えてきた。「Koi… Mil Gaya」(2003年)ではリティク・ローシャンが知能障害児の役を演じていたし、「Rakht」(2004年)でもスニール・シェッティーが精神病の患者を演じていた。「Bhoot」(2003年)ではウルミラー・マートーンドカルが幽霊に取り付かれた女性の役を演じていたのも記憶に新しい。だが、ここに来てヒンディー語映画界で演技派女優としての地位を確立しつつあるラーニー・ムカルジーが、目が見えず、耳が聞こえず、口も利けないというヘレン・ケラーみたいな三重苦の女性役という困難な役に挑戦し、周囲を驚かせた。目はあさっての方向を向き、ガチョウのようなヨチヨチ歩きをし、怒ると奇声を発して手足をばたつかすという、見ていて不快になるほどの迫真の演技だった。捨て身の演技と形容してもいい。ラーニー・ムカルジーはデビュー当初から地味な印象が強いが、彼女こそ同世代の女優陣の中で最も演技力のある女優であることが、この映画でも証明された。

 この作品の脚本は、アミターブ・バッチャンのために書かれたと言われている。よって、アミターブ・バッチャンの演技も素晴らしかった。回想シーンでのバッチャンは、三重苦の少女に何とか言葉とマナーを教え込もうとする熱血教師を威厳たっぷりに演じ、現在のシーンではアルツハイマー痴呆症に冒され、盲目となった患者をやはり鬼気迫る演技で演じていた。バッチャンなくしてこの映画は成立しなかっただろう。アミターブ・バッチャンとラーニー・ムカルジーのキスシーンはかなりのレア物だと思うのだが・・・。

 そして最も驚いたのは、8歳のミシェルを演じたアーイシャー・カプールという子役の俳優。アーイシャーはポンディシェリー出身、演技経験の全くない9歳の少女らしいが、この子は本当に障害児なんじゃないかと疑ったくらいの文句の付けどころのない演技だった。前々から僕はインド映画の子役の演技力の無さを憂いていたが、この子のような演技のできる子役が出てくると、インド映画の将来が楽しみになって来る。ハリウッドで俗に「天才子役」ともてはやされる子役俳優と比べても遜色ないどころか、勝るとも劣らない圧倒的演技力だった。

 その他、父親を演じたドリティマーン・チャタルジー、母親を演じたシェールナーズ・パテール、妹を演じたナンダナー・セーンなど、どれもインド国内や国際舞台で活躍する演技派俳優で、隙がなかった。

 ストーリーを読めば分かるが、この映画は明らかにヘレン・ケラー(1880-1968)の生涯をベースにしている。アミターブ・バッチャンが演じたデーブラージ・サハーイは、ヘレン・ケラーを献身的に支えたサリヴァン先生とそっくりであり、水が重要な役割を果たしたこと、口に手を当てて発声方法を知覚したこと、盲目聾唖者でありながら大学を卒業したことなど、ヘレン・ケラーの伝記に出てくる事項とそっくりである。

 時代設定や環境設定はいまいち理解不能だった。一応英領インド時代のシムラーということになっており、人々は英語とヒンディー語をしゃべっていたが、街並や風景はまるで外国のようだった。いくら英領インド時代と言っても、シムラーがこれほどイギリス色に染まっていたとは思えないのだが・・・。だが、現在のシムラーを見ているからそう思うだけであって、実際当時のシムラーはこんな感じだったのかもしれない。いったい西暦何年の話なのかはよく分からなかったが、映画中の風景に出てくる映画館にチャーリー・チャップリンの「キッド」(1921年)や「黄金狂時代」(1925年)の看板が出ていたので、その辺りの話ということだと思う。俳優陣も、インド人にしては白人の顔に近い人々が意識的に選ばれていたような印象を受けた。

 映画では雪が非常に印象的な役割を果たしている。今年のシムラーは大雪だったようだが、この映画が撮影されていた去年の1月は全然雪が降らなくて撮影に支障が出たという。そこで監督は大量の塩を辺り一面にまいて強引に雪に見せたそうだ。相当塩の無駄遣いをしたのではなかろうか・・・。

 「Black」は、インド映画というよりも、限りなくハリウッド映画に近いインド映画である。今までラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督などがハリウッド映画っぽいインド映画を送り出して来たが、これほどまでインド色とインド映画色を消した、かつ完成度の高いインド映画はなかった。インド映画もやればできるのだ。だが、やろうとしなかっただけなのだ。なぜならそれは庶民の求めるものではないからだ。「Black」は、英語のセリフが全体の半分以上を占めており、庶民を対象とした映画ではない。かと言って、上流層のみをターゲットにしたお高くとまった芸術映画でもない。経済開放後、急速にインドで発達しつつある中産階級を対象とした映画だ。以前のインド映画界では、娯楽映画と芸術映画が全く別の道を歩んでいた。庶民は息抜きに娯楽映画を楽しみ、上流階級は芸術映画を鑑賞して悦に入るという構図が出来上がっていた。しかし、21世紀に入り、庶民と上流階級の中間に当たる中産階級が勃興してきたことにより、娯楽映画と芸術映画の中道を行く映画が模索され始めた。それにより、ヒングリッシュ映画や、社会性の強いヒンディー語映画などが多数製作されるようになり、シネコンの普及を受けて都市部の映画館でも一般公開されるようになった。「Black」は、それらの模索の中で導き出されたひとつの完成形と言ってもいいだろう。猿真似と揶揄されるくらい徹底的にハリウッド映画の手法を取り込み、インド人俳優とスタッフでハリウッド映画のような映画を作ってしまった。これはインド映画史に残る事件かもしれない。