Ra.One

4.5
Ra.One
「Ra.One」

 下半期に入って話題作・ヒット作が続いている2011年のヒンディー語映画界だが、その中でも今年最大の話題作が、ディーワーリー(2011年10月26日)公開のシャールク・カーン主演「Ra.One」であった。シャールク・カーンのホーム・プロダクション、レッドチリ・エンターテイメントの最新作であり、ラジニーカーント主演「Robot」(2010年)を越える、インド映画史上最大予算を掛けて作られた作品であり、また、あらゆるメディアにまたがる大々的かつ徹底的な広告戦略も打ち出して来ており、正に「キング・オブ・ボリウッド」シャールク・カーンの一世一代を賭けた超大作となっている。ただ、予告編やサントラCDなどから内容を垣間見る限り、もしかしたらもしかして大失敗作に終わるかもしれないという不安もあった。シャールク・カーンは俳優としては成功を収めているが、彼がプロデュースした作品は必ずしも当たって来ていない。例外的に文句ない大ヒットとなったのは「Main Hoon Na」(2004年)や「Om Shanti Om」(2007年)など、ファラー・カーン監督のシャールク・カーン主演作のみである。

 言葉遊びに敏感でインドのことを少しでも知っている人なら、「Ra.One」という題名を見て「ラーマーヤナ」の悪役ラーヴァンを思い起こすだろう。その通り、これは、劇中に登場する、ラーヴァンからインスピレーションを得た悪役の名前である。2010年にはマニ・ラトナム監督が「Raavan」という映画を作っているが、それに引き続きラーヴァンを題名に冠した映画の登場で、現在までラーヴァンのキャラクターが悪役ながらインド人に愛され続けて来ていることが分かる。

 ヒロインはカリーナー・カプール。主演シャールク・カーンとの同一作品出演は過去に何作かあるが、カップリングは大フロップ作「Asoka」(2001年)以来となる。しかしながら、カリーナーは最近「3カーン」の中の2人――アーミル・カーンとサルマーン・カーン――と共演して大ヒットを飛ばしており、上り調子だ。シャールク・カーンにとっても彼女がラッキーマスコットになるかどうか、見物である。悪役のRa.Oneはアルジュン・ラームパールが演じる。「Om Shanti Om」以来、アルジュンは得意な役柄が出来、起用が多くなった。その他、サンジャイ・ダット、プリヤンカー・チョープラー、アミターブ・バッチャンなどの特別出演または声の出演があり、豪華絢爛である。その中でもサプライズは、タミル語映画界のスーパースター、ラジニーカーントが「Robot」で演じたチッティー役でスーパーな特別出演をしていることである。よって、「Ra.One」は、ヒンディー語映画界のシェヘンシャー(皇帝)アミターブ・バッチャンが声の出演をし、ヒンディー語映画界のキングが主演し、タミル語映画界のスーパースターが特別出演するという、これ以上にないほど豪華な作品となっており、この点だけを見てもシャールク・カーンの気合いのほどがよく分かる。

 また、2D版に加えて3D版も公開となった。インドで公開された初の3D映画でも、初の国産3D映画でもないが、「Ra.One」でもって初めて3D映画に触れるインド人観客は多いだろう。僕は特に2Dか3Dかにこだわりは持っていなかったが、たまたま近所の映画館が3D版を上映しており、しかも値段は据え置きだったので、迷わず3D版を見ることにした。オリジナルのヒンディー語版に加え、タミル語版、テルグ語版、ドイツ語版も同時公開されたようだが、僕が観たのはヒンディー語版である。

監督:アヌバヴ・スィナー
制作:ガウリー・カーン
音楽:ヴィシャール・シェーカル
歌詞:アタハル・パンチー、ヴィシャール・ダードラーニー、クマール
振付:ガネーシュ・ヘーグデー
衣装:マニーシュ・マロートラー
出演:シャールク・カーン、カリーナー・カプール、アルジュン・ラームパール、シャハーナー・ゴースワーミー、アルマーン・ヴァルマー(子役・新人)、トム・ウー、ダリープ・ターヒル、スレーシュ・メーナン、サティーシュ・シャー、ラジニーカーント(特別出演)、プリヤンカー・チョープラー(特別出演)、サンジャイ・ダット(特別出演)、アミターブ・バッチャン(声の出演)
備考:PVRプリヤーで鑑賞、満席。

 ロンドン在住でゲーム会社勤務のシェーカル・スブラマニアム(シャールク・カーン)は、妻ソニア(カリーナー・カプール)との間に出来たゲーム少年の息子プラティーク(アルマーン・ヴァルマー)の「絶対に悪役が負けないようなゲームがあれば」と言う希望を叶えるため、絶対的な力を誇る悪役を中心にした格闘型バーチャルゲームを開発する。全身を覆うコントローラーを装着したプレーヤーのモーションがキャプチャーされ、ゲーム上のキャラクターの動きに反映されるというシステムだった。当初悪役はランダム・アクセス・ヴァージョン1というコード名で呼ばれていたが、いざ悪役の名前を付けようとした際に、その略称の「Ra.One」がインド神話のラーヴァンに通ずるということで、そのままRa.Oneに決まった。そしてそれがそのままゲームの題名となった。また、ヒーローの名前も当初は「グッド・ワン(善玉)」だったが、その略称G.Oneが、ヒンディー語の「ジーヴァン(人生)」に通じるということで、これもとんとん拍子に決定した。さらに、G.Oneの顔はシェーカルがモデルとなった。

 「Ra.One」開発チームには、中国人のアカシ(トム・ウー)やインド人のジェニー・ナーヤル(シャハーナー・ゴースワーミー)などがいた。開発中に悪役Ra.Oneの異常な行動が散見されたものの、格別注意を払う者はおらず、そのまま放置され、ゲームは完成した。

 「Ra.One」のローンチング・パーティーに母親と共に出席したプラティークはすっかり「Ra.One」を気に入ってしまい、大人たちが祝宴をしている間、アカシの好意によって「Ra.One」をプレイさせてもらった。プラティークはルシファーというハンドルネームを使いゲームにアクセスし、プレイを開始する。そこでレベル2まで進んだが、途中で中断させられてしまう。だが、Ra.Oneはゲームの中断を快く思わず、ルシファーに対して執拗にゲーム再開を迫っていた。異常を察知したアカシはシェーカルを呼び、バグフィックスに取り掛かり始める。ソニアとプラティークは先に家に帰していた。

 ゲームのプログラムだったRa.Oneはいつの間にか自我を持っており、ルシファーとの戦闘続行のためにRa.Oneの人形にアクセスして現実世界に侵入して来た。手始めにアカシを殺し、アカシの姿形もインストールする。次にシェーカルも殺されてしまう。当初シェーカルは交通事故で死んだとされたが、プラティークは現場に残っていた特徴ある印などから、Ra.Oneの仕業だと考えるようになる。プラティークはRa.One開発室へ急ぎ、そこでG.Oneを起動しようとする。もしRa.Oneが現実世界に来られたならば、G.Oneも同様に現実世界に来られるはずだった。一方、Ra.Oneはプラティークがルシファーであることを知り、プラティークを追い始める。プラティークは、Ra.Oneが迫って来ていたために、G.Oneの起動を待たずに脱出し、ソニアの運転する車に乗り込む。Ra.Oneはソニアとプラティークを追い掛けるが、間一髪のところでG.Oneが現れ、Ra.Oneを撃退する。そしてG.OneはRa.OneのHARTを入手する。HARTとは、ゲーム「Ra.One」中のキャラクターの心臓部で、力の源でもあり、弱点でもあった。HARTを心臓部に組み込むとキャラクターは最大限の力を発揮できるが、レベル3でHART部に特殊な銃弾を撃ち込まれると消滅するという弱点も生じるのであった。

 シェーカルの死後、ソニアはプラティークを連れて故郷ムンバイーへ帰ろうとしていた。ところがそこへ突然シェーカルの顔をしたG.Oneが現れたため、混乱してしまう。プラティークはすぐに状況を理解したが、ソニアはG.Oneをインドに連れて行くことに反対だった。しかしG.Oneは付いて来てしまう。こうしてG.ONeはムンバイーの土を踏むことになる。空港前では複数の暴徒を一網打尽にする大活躍を見せると同時に、チッティー(ラジニーカーント)とも対面する。

 最初はG.Oneの扱いに困っていたソニアだったが、シェーカルの顔をし、シェーカルが入力した様々なデータを持つG.Oneを徐々に受け容れるようになる。だが、Ra.Oneは完全に破壊されておらず、モデルの姿を借りて自動再生し、インドへ襲来した。Ra.One(アルジュン・ラームパール)はソニアとプラティークを誘拐し、G.Oneにゲームを挑む。G.Oneはまず、暴走するムンバイー近郊列車に乗せられたソニアを救出する。次にRa.Oneが待ち構えるムンバイー・エキスポへ飛び、プラティークとシンクロして、G.OneからHARTを取り戻したRA.Oneと戦い出す。中断前にレベル2まで行ったため、まずプラティークは最終ラウンドであるレベル3への移行を目指して戦う。時間切れによりG.Oneはレベル3進出に成功する。

 レベル3では双方銃を与えられると同時に、1発だけ弾丸を与えられる。この弾丸を相手のHARTに打ち込めば相手は消滅する。先手を打ったのはRa.Oneの方だった。Ra.Oneは試合が始まると真っ先にG.Oneに銃を撃ち込む。銃弾はG.Oneに命中し、倒れる。ところがこれはプラティークの作戦だった。プラティークは事前にG.OneからHARTを抜き取っていた。HARTを装着していない場合、銃弾で撃たれても無効となる。早速プラティークはG.Oneに隠しておいたHARTを埋め込む。復活したG.OneはRa.Oneに反撃する。Ra.Oneは10体に分身してG.Oneに迫るが、プラティークは父親が生前に口にしていた「悪に落ちたら常に影が付きまとう」という諺を想い出し、10体の中から影のある1体が本物だと察知して、銃弾を撃ち込む。果たしてその通りで、Ra.Oneは消滅する。同時にG.OneもRa.Oneのかけらを身に受けて現実世界から消滅する。だが、G.OneのHARTは後に残った。

 後日談。ソニアとプラティークはロンドンに戻っていた。プラティークはHARTを使ってG.Oneの再生を試みていた。そしてそれに成功する。

 僕は常々インド映画がハリウッドの得意ジャンルを安易に真似することに反対している。マーケットの規模が全く違い、それに伴って予算の規模も全く違うハリウッド映画と同じようなジャンルの映画をインド映画界が背伸びして作っても、ハリウッド映画には到底太刀打ちできず、最終的には呑み込まれてしまう恐れがあるからだ。よって、インド映画はインド映画の良いところを守りつつ発展して行くべきだというのが持論である。SF映画「Koi… Mil Gaya」(2003年)公開前もこういう心配をしていたし、この「Ra.One」公開前も全く同様の懸念を抱いていた。ところが、インド映画はそんな僕の心配を常にいい意味で裏切り続けてくれた。

 「Ra.One」は、今後インド映画がどういう方向で発展して行くかを示す、大きな指針となり得る作品のひとつである。ここ最近ヒンディー語映画界では、グローバル市場を念頭に置き、やたらハリウッド映画を意識した作品作りが行われている。その中でも、インド映画の良さを廃し、「グローバルスタンダード」に準拠したインド映画が何本かあり、それらは失敗に終わっている。最大の失敗作がリティク・ローシャン主演「Kites」(2010年)であった。一昔前のハリウッド映画をインド人俳優で作ったような作品であり、一体誰をターゲットにしているのか分からない駄作だった。インド映画の伝統である歌と踊りを無闇に廃し、上映時間も2時間弱に収め、全体的に薄味にしてグローバル映画としているような例も少なくなく、そういう動きには今でも絶対に反対である。

 しかしながら、インド映画らしさを守りながら、そのフォーマットの中で、真面目なメッセージを発信したり、世界の観客にアピールする娯楽力のある作品も多く登場しており、それらは順当にヒットを飛ばしている。その先駆けは何と言っても「Lagaan」(2001年)であるが、最近では「3 Idiots」(2009年)が好例である。「Ra.One」も、このリーグに属する映画であった。

 「Ra.One」には、豪華絢爛な歌と踊りのシーンが目白押しであるし、コテコテのインドジョークも連発される。また、映画で重きが置かれる価値観もインドの文化に根ざしたものであるし、インドに関連のあるモチーフも多用される。それでいて、映画を支える技術的な部分では完全にハリウッドレベルを実現しており、カーチェイスシーンや戦闘シーンなど、手に汗握る見所満載である。前半はロンドンが舞台となるが、後半からはムンバイーが舞台となり、この意味でも根無し草的映画になっていない。現代のインド人観客を楽しませるインド映画として、非常にバランスの取れた作品となっていたと評価できる。

 「Ra.One」の最大のテーマは「悪に対する正義の勝利」である。これは「勧善懲悪」という四文字熟語と同義であり、しかもしばしばこの四文字熟語は映画の評価の際にネガティブな意味合いを持つ。だが、インド映画に限っては、勧善懲悪は欠点ではない。これは映画の歴史よりも古いインドの伝統に根ざした絶対的な方程式であり、これを動かすことはインド映画らしさを失うことになる。物語の常套手段として、「悪に対する正義の勝利」を強調するために、まずは「悪」の賛美が行われる。シェーカルの息子プラティークは、アニメやゲームなどに出て来るヒーローを「退屈」だと考えており、悪役に対して魅力を感じている少年であった。シェーカルはそんな息子に「最後に勝つのは正義だ」と言い聞かすものの、プラティークを喜ばせるために悪役が絶対的な力を持ったゲームを作ることを決める。これが映画の導入部となっており、クライマックスでは当然のことながら正義が勝利を収める。ただ、Ra.Oneがどのように悪なのか、映画中では特に説明がなかったのが気になった。言わば「とにかく悪役っぽい風貌をしているので悪役」という投げやりな設定で、いい加減だったのではないかと感じた。もっとも、「ラーマーヤナ」の中のラーヴァンと重ね合わしてキャラ作りをしているため、インド人には説明は不要なのかもしれない。

 ちなみに、「Ra.One」はディーワーリー祭当日に公開となったが、ラーム王子がラーヴァンを退治したのはディーワーリー祭より約20日前のダシャハラー祭であり、「Ra.One」の公開もダシャハラーに合わせた方がよりメッセージが明確になったのではないかと思った。ダシャハラー祭ではラーヴァンの像が燃やされる。劇中でRa.Oneがインドに到着したのはちょうどダシャハラーの日であった。そのときRa.Oneは「なぜ毎年ラーヴァンの像が燃やされるのか?それは悪が絶対に滅びないからだ」という強烈な決め台詞も発する。また、劇中にはダシャハラー祭の約10日後に行われる、夫の長寿と健康を祈る女性の祝祭カルワー・チャウトの描写もあった。

 「Ra.One」のもうひとつの重要な軸は父と子の関係である。最近のヒンディー語映画で描かれる父親像が急に弱々しいものになって来ていることは何度も指摘しているが、この「Ra.One」もそのひとつだと言える。序盤、プラティークは父シェーカルをドジで弱虫で情けない人物だと見下している。だが、シェーカルは人一倍プラティークのことを愛しており、自身の信念を曲げてまでして、息子の希望に沿ってゲーム「Ra.One」を作る。プラティークは「Ra.One」を気に入り、父親に感謝しようとするが、それを伝える前にシェーカルはRa.Oneに殺されてしまう。しかしプラティークは、バガヴァドギーター第2章第22頌にある「人間が古い衣服を捨てて新しい衣服を着るように、不滅の魂は古い身体を捨てて新しい身体を手に入れる」という一節を聞いて、突然現れたG.Oneを父親の生まれ変わりだと考えるようになる。G.Oneは百人力のパワーを誇り、正にプラティークが常々抱いていた父親像・ヒーロー像そのものであった。そしてG.OneはRa.Oneに誘拐されたプラティークを救い出し、シェーカルが果たせなかった父親としての任務を全うする。もちろん、いくらプラティークがエピローグでG.Oneの再生に成功したとしても、シェーカル自身は戻って来ない。だが、今やプラティークは父親を完全に理解し、永遠に尊敬することだろう。父親にとって、たとえ死んでしまったとしても、それは小さな話ではない。

 最近は、ビデオゲームの影響で子供に「殺す」という行為に抵抗がなくなっているという話をインドでも聞く。ビデオゲームの中では敵を「殺す」行為は日常茶飯事であり、また自分が死んでもまたやり直しができる。上記のバガヴァドギーターの引用とは全く正反対となるが、劇中には「現実世界では人間は死んだら戻って来ない」という警告も盛り込まれていた。

 また、オマケであろうが、禁煙のススメとも取れる1シーンもあった。喫煙シーンに厳しいインドならではの措置であろう。ちなみにシャールク・カーンはヘビースモーカーとして知られている。

 全体として「Ra.One」は非常に優れた娯楽作品であったが、いくつか難点も見られた。一番の難点は設定部分が分かりにくいことである。冒頭部分で説明された無線データの可視化や可触化と本筋との関連性、ゲームのキャラクターが現実世界に侵入して来る理論的裏付け、HARTの役割など、一応劇中に説明があるものの、それでも完全には理解できず、そういうものだと自分に言い聞かせてストーリーを追うしかなかった。

 ハリウッドのロボット映画やSF映画の影響が大きすぎる点も、ハリウッド映画をよく見ている観客には気になる点であろう。もっとも意識していると思われるのが「ターミネーター2」(1991年)と「マトリックス」シリーズである。Ra.Oneがアカシの容姿をインストールしてからルシファーを追い掛けるシーンまでの展開は「ターミネーター2」そっくりだったし、Ra.Oneがソニアの運転する自動車を追い掛けるシーンは、劇中で最も迫力のあるアクションシーンだったものの、「マトリックス」シリーズにかなり似ていた。

 おそらくラジニーカーント主演のロボット映画「Robot」との比較も今後されることだろう。制作費では、2010年の時点でインド映画史上最高額だった「Robot」を、「Ra.One」は早くも越したとされている。しかしながら、映像の迫力、ストーリーの面白さ、悪ふざけやサプライズなど、様々な点を考慮すると、「Robot」の方が一枚上手かもしれない。「Ra.One」の方は、悪役が世界征服や大量殺人などの大それた野望を抱かず、ルシファー=プラティークの抹殺のみを追い求めるため、世界遺産チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス(元ヴィクトリア・ターミナス)破壊など一部のシーンを除きあまり外界との接点がないし、全体としてこじんまりとまとめた感じだが、「Robot」の方は徹底的に物語を拡大し、人類滅亡の一歩手前まで行く、観客の想像力を越える極端な展開を披露している。娯楽映画としてはやはり、破綻覚悟で徹底的な娯楽を追い求めた「Robot」の方が楽しさは上だ。

 日本人としては、中国人エンジニア、アカシの存在も気になる。アカシは「中国人はみんなジャッキー・チェンじゃない!」が口癖で、それがお約束ギャグとなっているが、アカシという名前は日本人の名前じゃないのかというのが我々日本人の心に浮かぶ素朴な疑問である。むしろ日本人の方が、インド人から事あるごとに「ジャッキー・チェン」と呼ばれて困っているし、インド映画に根強く残る日本人と中国人の混同もどうにかして欲しいと願っている。

 シャールク・カーンの演技は、はまり役とそうでない役で開きがあり、必ずしもオールマイティーの俳優ではない。だが、最近は「Om Shanti Om」や「Rab Ne Bana Di Jodi」(2008年)などで一人二役やそれに近い形での、全く正反対のキャラを演じ分ける特技を発展させつつあり、それが非常にうまく行っている。「Ra.One」も、天然ボケの父親シェーカルと生身の感情を持たないG.Oneの演技を演じ分けており、良かった。シャールクが演じたタミル人キャラがどれだけ現実に近いか、その評価はタミル人がしてくれるだろう。

 カリーナー・カプールは、一応ヒロインながら、ロマンス映画ではないため、ストーリー上ではものすごく大事なキャラでもない。しかし、ふとした拍子に見せる微妙な表情に、既にベテランの域に達した演技力の片鱗を感じさせられるところがあった。

 プラティークを演じた子役アルマーン・ヴァルマーも好演。悪役Ra.Oneを演じたアルジュン・ラームパールは意外に出番が少ないが、今回スキンヘッドで登場し、恐ろしさがよく出ていた。

 特別出演のサンジャイ・ダットは、代表作「Khalnayak」(1993年)のパロディー、プリヤンカー・チョープラーは「Dostana」(2008年)のヒットで愛称となった「デーシー・ガール」として冒頭に少しだけ登場する。また、前述の通りタミル語映画界のスーパースター、ラジニーカーントがチッティー役で少しだけ出演している。しかしあくまでオマケの出演で、ストーリーの中で重要な役割は果たしていない。アミターブ・バッチャンの声は、ゲーム「Ra.One」のイントロダクションで流れる。他に、これらの特別出演に関連して、過去の有名映画音楽が少しだけ流れるシーンがいくつかある。

 音楽はヴィシャール・シェーカル。正直言ってサントラCDを聞いた時点ではあまり魅力を感じなかったのだが、映画を観た後でもう一度聞き直すと、どれもストーリーにシンクロして作られており、映画の中での収まりは良かった。「Ra.One」サントラCDの中の売れ筋は何と言ってもパンジャービー曲「Chammak Challo」。「チャンマク・チャッロー」とはパンジャービー語の俗語で「セクシーガール」を意味する。R&Bシンガー・ソングライターのエイコン(Akon)が共同作曲し歌を歌っている。ベン・E・キングの有名曲「スタンド・バイ・ミー」のヒンディー語カバー「Dildaara」も目立つ曲だ。シェーカルの死後かつG.Oneとの生活スタート時に流れ、ストーリー上のアクセントになっている。「Ra.One」には飛びっきりの名曲はないが、映画によく溶け込んだ良曲ばかりだと言える。

 ヒンディー語版「Ra.One」の言語は基本的にヒンディー語だが、面白いことに、シャールク・カーン演じるシェーカルがタミル人という設定であるため、タミル語の台詞が意外によく出て来る。逆にタミル語版がどうなっているのか興味あるところである。

 「Ra.One」は、インド映画史上最大予算作品かつ2011年最大の話題作の名に恥じない超娯楽大作であった。アクションシーンなどの映像はハリウッド映画レベルだが、歌と踊りやコテコテのインドジョークなど、インド映画らしさも失っておらず、絶妙なバランスの取れた国際派インド映画だ。押しも押されぬ今年必見の作品の一本である。完成度が低かったのに大ヒットとなってしまった「Bodyguard」(2011年)に比べたら、よっぽど大ヒットする資格を持った作品である。