Robot

5.0
Robot
「Robot」

 インド初のSF映画は、一般にはリティク・ローシャンの人気を不動のものとした「Koi… Mil Gaya」(2003年)とされている。インド映画がハリウッドばりのSF映画を作ったと聞いて、とんでもないゲテモノ映画になっているに違いないと怖い物見たさで観に行った記憶があるが、意外にインド映画のフォーマットにうまく消化されており、驚いたものだ。もちろん、「未知との遭遇」(1977年)や「E.T.」((1982年)からの影響があまりに大きく、「パクリ」のレッテルを貼られてしまうこともあるのだが、インド映画がハリウッドの得意とするジャンルに果敢に挑戦し始めたことを記念する記念碑的作品だったことには変わりがない。「Koi… Mil Gaya」の他には、アニル・カプール主演の「Mr. India」(1987年)もSF映画の範疇に入れられることがある。だが、さらに遡って行くと、「Kaadu」(1952年)という映画があるようだ。これは印米合作のSF映画で、英語とタミル語で作られたと言う。英語版の題名は「The Jungle」である。主演は白人だが、インド人女優スローチャナーがカメオ出演し、音楽、編集などの裏方でインド人スタッフが参加している。

 それでも、近年のヒンディー語映画におけるSF映画の流行は「Koi… Mil Gaya」の成功の結果だと考えざるをえないだろう。その後、「Rudraksh」(2004年)、「Krrish」(2006年)、「Alag」(2006年)、「Love Story 2050」(2008年)、「Drona」(2008年)、「Jaane Kahan Se Aayi Hai」(2010年)など、様々なSF映画が作られて来た。その全てがヒットした訳ではなく、大失敗に終わったものも少なくないのだが、ヒンディー語映画界においてSF映画がひとつのジャンルとして着実に定着しつつあることは確かである。

 さて、「Koi… Mil Gaya」が登場したときはかなりの衝撃だったのだが、それを越える衝撃的なSF映画がインド映画界に出現した。しかも南のタミル語映画界から。ロボットをテーマとした「Enthiran/Robot/Robo」が本日(2010年10月1日)全国一斉公開となったのである。

 オリジナルのタミル語版タイトルは「Enthiran」。「Endhiran」と綴られることもあり、ブレがあるが、これはタミル文字に有声音と無声音の区別がないためで、タミル文字通りに綴れば「Enthiran」、発音に従えば「Endhiran」となる。タミル語には疎いのだが、おそらくこの単語は、サンスクリット語で「機械」を意味する「yantra」がタミル語的に訛った形であろう。ちなみにジャイプルの世界遺産ジャンタル・マンタルの「ジャンタル」もこのサンスクリット語から来ている。一方、ヒンディー語吹替版の題名は「Robot」、テルグ語吹替版の題名は「Robo」になっている。

 「Enthiran/Robot/Robo」の主演はタミル語映画界のスーパースター、ラジニーカーント。「Muthu」(1995年/邦題:ムトゥ 踊るマハラジャ)のおかげで日本でも知名度の高い俳優である。ただ、この映画は最初からラジニカーントのために企画されたものではないようで、元々カマル・ハーサンやシャールク・カーンなどに主役がオファーされていたと言う。また、ラジニーカーント映画にはありがちなのだが、今回も彼は一人二役を演じている。ヒロインはインド美人の代名詞アイシュワリヤー・ラーイ・バッチャン。ラジニカーントとアイシュワリヤーの共演は初である。アイシュワリヤーは基本的にヒンディー語映画界で活躍しているが、南インド生まれであり、南インドの言語をいくつか話すため、南インド映画にも時々出演している。つい最近は、ヒンディー語版とタミル語版が同時制作された「Raavan/Raavanan」(2010年)にて、ヒンディー語版とタミル語版のヒロインを務めた。

 実は僕も「ムトゥ 踊るマハラジャ」からインド映画の世界に入った一人であり、ラジニーカーントには特別な思い入れがある。本当はラジニーカーント映画を楽しむためにタミル語を勉強したかったのだが、タミル語留学の情報がなかったのでヒンディー語留学をした経緯がある。結局長いことインドに住みながらタミル語をマスターすることは出来なかったが、ラジニーカーント映画をヒンディー語で見ることが出来るのはとても嬉しい。デリーではヒンディー語版とタミル語版が公開となった。コアなラジニー・ファンからは邪道扱いされるかもしれないが、遠慮無くヒンディー語版「Robot」を選んだ。

 ちなみに、かつてラジニーカーント主演の「Chandramukhi」(2005年)がデリーで公開されたときには、タミル語音声のみであったものの、英語字幕が付いた。同じくラジニカーント主演「Sivaji – The Boss」(2007年)がデリーで公開されたときにはタミル語音声のみ字幕無しであった。南インド映画のヒンディー語吹替版がデリーで公開されたことは過去にもあり、例えばカマル・ハーサン主演タミル語映画「Dasavathaaram」(2008年)のヒンディー語吹替版「Dashavtar」が公開されたが、タミル語版公開からしばらく経った後の翌年公開であった。また、同じ映画のタミル語版とヒンディー語版を同時制作・同時公開する作戦はマニ・ラトナム監督がよく採っており、「Guru」(2007年)や「Raavan/Raavanan」がその代表例である。

 また、特筆すべきは、「Enthiran/Robot/Robo」がインド映画史上最高額の予算である15億ルピーを費やして作られたことである。映画の予算は公表されないことが多く、そういう場合は推定額になってしまうのだが、今までインドの全映画界において、物価の上昇を無視し、額面のみで判断して、もっとも大予算を費やして制作されたのは、ヒンディー語映画「Blue」(2009年)だとされていた。その「Blue」でさえ、7億5千万ルピーほどと推定されている。映画は予算が全てではないが、いかに「Enthiran/Robot/Robo」が巨額の資金を投入して作られた映画か、一応の目安になるだろう。さらに誇張されて、アジア映画最大予算の映画とされることもあるが、少なくとも日本映画の最大予算映画とされる「天と地と」(1990年)の50億円は越えていないと考えられる。また、この巨額の予算の内、40%は特殊効果に費やされたと言う。

 監督はシャンカル。タミル語映画「Boys」(2003年)や「Sivaji – The Boss」のヒット作で知られた売れっ子監督である。アイシュワリヤーとも過去に「Jeans」(1998年)で仕事をしている。プロデューサーはカラーニディ・マーラン。タミル・ナードゥ州を中心に展開するテレビ局サン・ネットワークの会長で、同時に新聞社やラジオ局も経営するインドのメディア王である。民間航空会社スパイスジェットも傘下にある。また、彼はタミル・ナードゥ州の現州首相カルナニディの血縁に当たる政治家家系生まれであることにも注目。タミル映画界でインド映画史上最大予算の映画制作が可能だったのは、プロデューサーが握るこの絶大な権力と財力のおかげだと考えても間違いではないだろう。

 音楽はグラミー賞・アカデミー賞受賞の音楽家ARレヘマーン。作詞は、ヒンディー語版はスワーナンド・キルキレーになっているが、タミル語版やテルグ語版では異なっている。ヒンディー語版の台詞もスワーナンド・キルキレーが担当した。サウンドデザインは「Slumdog Millionaire」(2008年)でARレヘマーンと共にアカデミー賞を受賞したラスール・プークッティー。他に、裏方でハリウッドの人材が活用されている。スタント・アクションは「マトリックス」シリーズや「キル・ビル」シリーズで知られる袁和平(ユエン・ウーピン)、コスチュームデザインは「メン・イン・ブラック」(1997年)のメアリー・E・ヴォクト、アニメーションと特殊メイクは、「アバター」(2009年)のスタンウィンストン・スタジオが担当している。

 本当はタミル・ナードゥ州の映画館でタミル語オリジナル「Enthiran」を観るのが最大限にこの映画を楽しむ正しい方法であり、この映画の公正な評価もその方法を採った上で初めて可能となるであろうが、一応参考までにヒンディー語吹替版「Robot」を見た感想を、いつもの映画評の形式で記しておく。

監督:シャンカル
制作:カラーニディ・マーラン
音楽:ARレヘマーン
歌詞:スワーナンド・キルキレー
アクション:袁和平
衣装:マニーシュ・マロートラー、メアリー・E・ヴォクト
出演:ラジニーカーント、アイシュワリヤー・ラーイ・バッチャン、ダニー・デンゾンパ、カルナス、シャーンタラーム、デーヴァダルシニー、カラーバヴァン・マニ、コーチン・ハニーファー、サブ・キリルなど
備考:サティヤム・シネプレックス・ネループレイスで鑑賞。ヒンディー語吹替版。

 ロボット工学の科学者ワシーカラン(ラジニカーント)は10年の歳月を費やし、人間と同様の動きをし、かつ人間以上の能力を秘めたロボットの開発に成功する。そのロボットはワシーカランに瓜二つであり、彼の母親にチッティー(ラジニカーント)と名付けられた。ワシーカランはチッティーを軍に配備し、戦争や紛争で死人が出ないようにすることが夢であった。その前にまずは人工知能研究機関であるAIRDから認可を受けなければならなかった。AIRDのトップは、かつてワシーカランにロボット工学を教えたボーラー教授(ダニー・デンゾンパ)であった。

 ところでワシーカランにはサナー(アイシュワリヤー・ラーイ・バッチャン)という恋人がいた。サナーは大学で医学を学んでいたが、最近ワシーカランがロボットの開発に没頭して全く相手をしてくれなかったので怒っていた。しかし、サナーはチッティーを見てすっかり気に入ってしまう。チッティーはサナーの勉強を手助けしたり、暴漢から守ったり、大活躍であった。

 ワシーカランは学会でチッティーを発表する。学者たちからは絶賛を受けるが、面白く思っていない人物が1人いた。それはボーラー教授であった。ボーラー教授もロボットの研究に昼夜没頭していたが、なかなか成功しなかった。ロボットの開発に重要なのはニューラル・スキーマであった。ボーラー教授はニューラル・スキーマの情報を引き出そうとするが、やはりワシーカランも最重要機密情報としており、ボーラー教授にも明かそうとしなかった。ボーラー教授がロボットの開発を急いでいたのは、影でテロリストに戦闘用ロボットの売却を約束していたからであった。失敗を繰り返したボーラー教授は、やがてテロリストから脅されるようになる。

 ワシーカランはまず、AIRDから認可を得ようと、チッティーの能力を披露する。だが、審査委員会の長を務めるボーラー教授は、チッティーの戦闘力が味方にとっても脅威となり得る弱点を巧みに引き出し、認可を却下する。その帰り、ワシーカランは火事の現場に出くわし、チッティーに人々の救出を命令する。チッティーは次々に囚われた人々を救い出す。その様子はテレビで報道され、チッティーの救命能力の格好のアピールとなった。ところが、人間の尊厳などを理解しないチッティーは、裸の女性までもそのままの姿で助け出してしまい、彼女を公衆の面前にさらしてしまう。命を救われた女性もその恥には耐えきれずに自暴自棄になってしまい、その結果自動車に轢かれて死んでしまう。

 ボーラー教授はワシーカランに、チッティーに人間の感情を理解し、人を思いやる感情が備わらない限り、AIRDの認可は与えられないと困難な課題を課す。ワシーカランはチッティーに人間の感情を理解するプログラムをセットしようとするがうまく行かない。だが、ある日落雷を受けたチッティーは、そのショックで人間と同様の感情を宿すことになる。チッティーは、熟練の産婦人科医が匙を投げるような難産を、ハイテクを駆使しつつ妊婦の感情を配慮しながらやり遂げ、その新能力をアピールする。おかげでボーラー教授もAIRDの認可を与えざるをえなかった。だが、そのときボーラー教授は新たな勝算を直感していた。

 感情を持ったチッティーは、やがてサナーに恋するようになってしまう。次第にワシーカランの命令にも従わなくなる。ワシーカランはサナーの誕生日パーティーに彼女との結婚を公表するが、チッティーはサナーと結婚するのは自分だと主張し出す。ワシーカランは軍の幹部の前でチッティーの能力を証明し、夢を実現しようとするが、チッティーはそれに背き、戦闘能力を披露する代わりに詩を朗読し始める。軍の幹部からは失笑を買い、ワシーカランは大恥をかく。怒ったワシーカランはチッティーをバラバラにし、捨ててしまう。

 ボーラー教授はバラバラになったチッティーをゴミ捨て場から見つけ出し、ニューラル・スキーマを入手して修理した後、大量殺戮プログラム「レッドチップ」をセットする。チッティーは完全なるターミネーターとして生まれ変わった。新生「チッティー・バージョン2.0」はワシーカランとサナーの結婚式に乗り込み、サナーを連れ去ってしまう。

 それ以降、街中に複数のチッティーが出没し、日用品から石油まで、あらゆるものを強奪し始める。チッティーはボーラー教授を殺害し、自らを増産し始めたのだった。そしてAIRDのオフィスを占拠し、そこにロボット王国を打ち立てた。しかもチッティーは、サナーの子宮にロボット受精卵を移植し、世界初の「ロボ・サピエンス」を誕生させようと画策していた。

 一方、ワシーカランは軍隊と協力し、チッティー破壊を計画する。まずワシーカランはチッティーそっくりの容貌となり、破壊したチッティー・コピーのIDを装着して、チッティーの城に乗り込む。そして囚われの身のサナーと会い、チッティー破壊作戦の手順を説明する。それは街中の電力を落とし、チッティーとその無数のコピーたちをバッテリー切れにする作戦であった。サナーはチッティーを誘惑して気を引き、その間に軍は街中を停電にして様子を見た。だが、チッティーとコピーたちは自動車のバッテリーから電源を供給し始めた。この作戦が失敗したことで後は強行突破しかなくなり、コマンドー部隊がチッティーの城に突入する。その隙を突いてワシーカランはサナーを連れて逃げ出す。

 チッティーとコピーたちはマグネットパワーを利用して合体し、様々なフォーメーションを組んでコマンドー部隊を翻弄した。ワシーカランはコンピューターウイルスを送り込んだり、マグネットパワーを無効化したりして、チッティーとコピーたちを無力化しようとするが、チッティーたちの圧倒的パワーの前にはほとんど効果がなかった。だが、最終的にはチッティーのボディーから元凶のレッドチップを引き抜くことに成功する。

 開発したロボットが街に多大な損害をもたらしたことでワシーカランは罪に問われ、裁判にかけられる。一旦は死刑が宣告されそうになるが、正常に戻ったチッティーが異議を申し立て、ロボット=道具による傷害や破壊は殺人などではなく、事故であると主張する。また、チッティーにレッドチップを埋め込んだのは死んだボーラー教授であることも証明する。それによりワシーカランは無罪放免となる。だが、裁判官は代わりにチッティーの解体を命令する。ワシーカランは涙ながらにチッティーに自己解体を命じ、チッティーは皆に別れと感謝の言葉を告げながら自らをバラバラにする。「私はロボットで良かった。レッドチップを抜き取ることが出来るのだから。だが、人間に埋め込まれたレッドチップは抜き取ることが難しい」というメッセージを残しながら・・・。

 ハリウッドにはロボット映画の長い伝統があり、ひとつのジャンルとして確立している。「2001年宇宙の旅」(1968年)、「ブレードランナー」(1982年)、「ターミネーター」(1984年)、「ロボコップ」(1987年)、「アンドリューNDR114」(1999年)、「A.I.」(2001年)、「アイ, ロボット」(2004年)、「トランスフォーマー」(2007年)、「Wall・E/ウォーリー」(2008年)などがその代表作として挙げられるだろう。さらに、我らが日本では、アニメにおいてロボットが人気のテーマとして根付いており、ロボット(またはそれに似たもの)が登場するアニメには、「鉄腕アトム」、「ドラえもん」、「キテレツ大百科」、「Dr.スランプ アラレちゃん」、「機動戦士ガンダム」、「超時空要塞マクロス」、「鉄人28号」、「マジンガーZ」、「ヤッターマン」、「トランスフォーマー」、「機動警察パトレイバー」、「攻殻機動隊」、「新世紀エヴァンゲリオン」など枚挙に暇がない。まだドラえもんのようなロボットは開発されていないが、少なくとも日本人の多くはそれらの作品を通してロボットに慣れ親しんでいると言えるだろう。しかし、インド映画では、ロボットはまだそれほど開拓されていない分野であった。「Love Story 2050」で少し出て来たのが記憶にあるぐらいだ。だから、ロボットをテーマにしたインド映画「Robot」が一体どんな感じの映画になるか興味があった。結論から先に言えば、見終わった後に「やはりロボット映画をもインド映画的にうまく料理してしまったか」という強力な脱帽感を感じた。「Koi… Mil Gaya」を見終わった後の感覚に近い。いや、それ以上か。「Robot」は、タミル語映画の中でも特に独特の特徴を持ち、1ジャンルとして成立しているラジニーカーント映画ということもあったが、それ以上にインド映画の王道をひたすら突っ走る潔さが心地よかった。ヒンディー語映画界からはアクション大作「Dabangg」(2010年)が生まれたが、タミル語映画界からも強力なレスポンスが返って来た。逆に言えば、「Dabangg」のクッションがなかったら、「Robot」からはさらに大きな衝撃を受けていたに違いない。

 「Robot」は、言わば今までハリウッドなどで作られて来たロボット映画のおいしいところを全部まとめてひとつの映画に詰め込んでしまったような作品である。インド映画の感想でよくこういう言い方を見るが、一言で言ったらそう評価するしかない。前半では、圧倒的な計算力、暗記力、戦闘力を持ち、人間を献身的にサポートするロボット像が描かれる。ヒロインのサナーは、恋人ワシーカランの開発したチッティーの能力を使って試験を切り抜けようとするが、この辺りは「ドラえもん」にも似ている。だが、チッティーには人に言われたことを真に受ける弱点もあり、それでいくつものお約束的な笑いを取っていた。中盤では、ロボットが感情を持ったらどうなるか、という、これまたロボット映画によくありがちな問いが映像化される。「Robot」では特にロボットに恋愛感情が生まれるという点が強調され、チッティーがサナーとの結婚を熱望するという面白い展開になる。だが、その熱望は、ロマンス映画の方向ではなく、アクション映画の方向へとストーリーを押しやる。ワシーカランに破壊され、破棄されたチッティーは、テロリストと密通したボーラー教授によって修復され、しかも大量殺戮プログラムを組み込まれる。こうしてチッティーはインド史上最凶最悪の悪役として生まれ変わる。ロボットが人間に反抗するストーリーもロボット映画の定番である。チッティーはサナーを誘拐し、ボーラー教授を殺害しただけでなく、サナーの子宮を使って「ロボ・サピエンス」を生み出そうとする。これは、チッティーが人間と比べて引け目に感じていた「生殖」というコンプレックスを克服するための手段でもあった。このロボットの生殖、もっと言えばロボットの性欲をストーリーに組み込んだのは新しい点かもしれない。そしてコマンドー部隊の突入を受けたチッティーは、自ら複製したコピーたちと合体し、巨大ロボに変身する。ここに至って映画は巨大ロボ物の要素まで持つことになる。チッティーの最期はまた寂しいものだ。「現代の人類にはまだチッティーのようなロボットを使いこなす能力がない」と判断した裁判官は、チッティーの解体を命じる。そしてチッティーは粛々とそれを受け容れ、自己解体する。この終わり方は「ターミネーター2」(1991年)のエンディングを思わすものであった。

 馬鹿馬鹿しいまでに娯楽に徹した映画であったが、一応メッセージも込められていた。それは人間の悪意への警鐘である。チッティーは「レッドチップ」という悪意を埋め込まれたせいで殺人マシーンと化してしまったが、そのチップを取り外したことで正常に戻った。だが、一旦人間の脳裏に悪意が埋め込まれてしまうと、そう簡単にそれを取り出すことは出来ない。ロボットも所詮道具であり、それは使う者の善意と悪意によってプラスにもマイナスにも結果をもたらすことになる。そして道具の力が強ければ強いほど、使う者の善意は試されることになる。映画の中で一貫して主張されていたメッセージはこれであり、最後にチッティーの口からそれが明確に語られることになる。もっとも、SF映画というのは基本的に文明批判である訳だが。

 あと、チッティーの弱点は、頻繁にバッテリーを充電しなければならない点である。おかげでチッティー(バージョン2.0を含む)は何度かピンチに陥る。この比較的アナログな問題は、現代人が直面する携帯電話のバッテリーチャージ問題を連想させた。しかし、ここまで超絶パワーを持ったロボットに、太陽光発電とか、自律的な発電機能を付けなかったのは一応突っ込み所になり得る。軍用にするにしても、この電源問題はかなり大きな問題になり得るだろう。

 ラジニーカーントは今回、科学者ワシーカランとロボットのチッティーという一人二役だが、チッティーは一旦破壊され、殺人マシーンとして生まれ変わるため、事実上一人三役だと言える。ワシーカランを演じたラジニーカーントは抑え気味の演技であったが、チッティーではかなり彼の味が出ており、特に殺人マシーンと化した「チッティー・バージョン2.0」では水を得た魚のように自由奔放な演技をしていた。それぞれ良かったのだが、やはり「チッティー・バージョン2.0」が一番好きだ。ヒンディー語の台詞をラジニーカーント自身がしゃべっていたかどうかについては不明である。

 アイシュワリヤー・ラーイ・バッチャンはいつになく活き活きとした演技をしていた。ヒンディー語映画界ではあまりコテコテの娯楽映画に出演しなくなってしまったのだが、「Robot」の彼女からはなぜか、デビュー直後のような初々しさや思いっきりの良さが感じられた。ロボットというテーマに合わせてヘンテコなコスチュームに身を包んで踊っているシーンもある。また、「3 Idiots」(2009年)で45歳ながら大学生役を演じたアーミル・カーンのように、今回アイシュワリヤーは既に37歳ながら博士課程の女学生役を演じている。つまり20代後半ぐらいの女性と考えていいだろう。30代後半になって20代女性の役は多少無理があるかと思ったが、「Robot」の彼女はどこか若返っているような気さえした。そういえば「Robot」の撮影は2008年から2010年の2年に渡って行われたため、シーンによっては2年前の彼女を見ていることになる。しかし、それが理由でアイシュワリヤーからそういうピチピチしたオーラが出ている訳ではないと思われる。やはりラジニーカーントとの共演や、ラジニーカーント映画の独特の雰囲気が彼女をそう見せているのだと思う。ちなみに、ヒンディー語吹替版における彼女のヒンディー語の台詞は彼女自身が吹き込んでいたと思われる。

 意外な配役はダニー・デンゾンパである。ヒンディー語映画界で悪役や脇役で登場することの多いスィッキム系の俳優であり、東洋顔をしているので東洋人の役を演じたりもできるのだが、おそらくタミル語は出来ないはずで、タミル語映画出演はかなり思い切った配役だと感じた。演技力はある俳優なので、演技自体は悪くなかった。

 音楽はARレヘマーン。「Robot」の音楽には少し詳しく触れたい。まず、やはりARレヘマーンの作曲能力が光る。最近、彼が作曲した英連邦スポーツ大会(CWG)テーマソングが不人気で、才能の枯渇を問われたり、高額な報酬に疑問の声が上がったりしているが、「Robot」の音楽を聴く限り、彼がインドにおいて依然として最先端を行くトップクラスの作曲家であることは否定のしようがない。元々メカっぽい音作りが得意だったので、ロボットをテーマとしたこの映画の曲にこれ以上適任な人物はいない。

 どれも一癖も二癖もある曲ばかりなのだが、まず一番印象的なのは「Boom Boom Robo Da」であろう。重低音が心地よく、いかにもARレヘマーンと言った感じのノリノリの曲だ。歌詞の中にニュートンやアインシュタインと共にホンダのアシモの名が入っているような気がする。また、「おお、新人類よ」という意味の「O Naye Insaan」は、いかにもSF映画といったミステリアスな雰囲気の曲だ。ダンスナンバー「Kilimanjaro」は、ペルーのマチュピチュで撮影されているにも関わらず、「キリマンジャロ」と「モヘンジョダロ」で押韻するという荒技が使われており、面白い。また、南米っぽいバックダンサーが多数登場してアイシュワリヤーと踊る。変な動物もわざとらしく背景で佇んでいたが、アルパカであろうか。「Naina Miley」はハイテンポのダンスナンバーだが、冒頭19秒辺りで「アリガトウゴザイマス」という日本語が入っていきなり驚かされる。しかしこの「アリガトウゴザイマス」は、ストーリー、ダンス、映像などとは何の脈絡もない。ARレヘマーンはかつて「One 2 Ka 4」(2001年)という映画で「Osaka Muraiyua」という曲を作っている。これは「大阪村井屋」とされているが、全くナンセンスなフレーズとして使われている。それを思わせる日本語の使い方だ。日本にもファンが多いラジニーカーントの映画であるため、やはり日本市場を念頭に置いたサービスだろうか?ちなみに映画中にはもうひとつ日本向けサービスがある。チッティーのモーターは、架空日本企業「ハヤタ」製という設定であり、映画中の台詞の中でもそれがはっきりと出て来る。

 予算の40%を費やしたとされる特殊効果(CG、特殊メイクなど)は、まだハリウッド映画と比べて稚拙さが残るものの、インド映画最高レベルと評価していいだろう。そして何と言ってもその使い方に、ハリウッド映画にはあまりない粋さがあり、大いに楽しめる。特にクライマックスのチッティー合体はいろいろな意味で圧巻である。また、ラジニカーントのメイクだけでも3千万ルピーが費やされたと言う。

 映画はチェンナイを主な舞台としているが、いくつか特徴的なロケ地の風景が使われている。筆頭はペルーの世界遺産マチュピチュ。マチュピチュでインド映画のロケが行われたのは初のことだと言う。ただ、マチュピチュが使われるダンスシーンの曲名は「Kilimanjaro」である。他に序盤のダンスシーン「Pagal Anukan」で使われた風景も印象的であった。砂漠に真っ青な湖や河があるのだ。これはブラジルのどこからしい。後はヒマーチャル・プラデーシュ州やゴア州でも撮影が行われたようだ。

 「Robot」は元々タミル語映画だが、今回はヒンディー語吹替版を見たため、隅々までかなり理解することが出来た。ヒンディー語版とオリジナルのタミル語版の間で大きな違いはないはずである。ただ、画面にヒンディー語(デーヴナーグリー文字)が使われるシーンがいくつかあった。そのシーンはおそらく言語ごとに違う文字が使われているのではないかと予想される。

 「Robot」は、日本でも知名度の高いラジニーカーントの最新作。インド映画史上最大の予算をかけ、ハリウッドの技術陣をも動員して作られたインド製ロボット映画であり、一瞬たりとも観客を飽きさせない、娯楽のマシンガンのような作品である。ヒロインのアイシュワリヤー・ラーイ・バッチャンもいつになくハッスルしている。音楽、ダンス、ダンスシーンのロケ地も申し分ない。これは本気でインド娯楽映画の最高傑作、今年必見の一本。ヒンディー語が分かる人にはやはりヒンディー語吹替版「Robot」を勧めるが、タミル語が分かる人を含めてそれ以外の人はオリジナルの「Enthiran」を観るべきであろう。