Bajrangi Bhaijaan

4.5
Bajrangi Bhaijaan
「Bajrangi Bhaijaan」

 南アジアの情勢についてあまり詳しくない人にとって、インドとパーキスターンの関係は分かりにくいかもしれない。この2国は過去に3回(非公式なものを含めると4回)戦争をしており、お互いにお互いを宿敵と認識している。インドは長年、パーキスターンからの越境テロに悩まされているし、パーキスターンもインドが国内の反政府勢力を援助していると考えている。両国は「犬猿の仲」という言葉がピッタリだ。どちらの国でも上から下まで完全に敵意を剥き出しにしていたら、分かりやすいと言えるだろう。だが、実際にはそうでもなく、両国の国民が心底お互いに憎しみ合っているという訳でもない。そもそもこの2国は元々同じ国であり、同じ民族が住んでいると言ってよい。家族が両国に分かれて住んでいるという例も多く、日本人が思う以上に両国の間で人の往来はある。また、北インドの人々にとっては、南インド人よりもパーキスターン人の方が文化的・言語的に親近感が沸くということもある。草の根のレベルでは常に両国の親善が模索されており、お互いに気になってしょうがないというのが実際のところだ。

 映画界は、印パ親善を積極的に推し進めている業界のひとつだ。印パ間での人材交流はとても活発で、パーキスターン人の俳優や歌手がヒンディー語映画に出演したり、インド映画がパーキスターンの映画館で上映されたりなど、ごくごく普通の出来事である。映画中でのパーキスターンの描写方法もかなり好意的なものに変わって来た。かつては「Border」(1997年)や「Gadar: Ek Prem Katha」(2001年)のように、パーキスターンを絶対的な敵国として描いていたこともあったが、最近ではパーキスターンに対する視点はかなり相対化され、中立的もしくは友好的なものも登場して来た。たとえば「Tere Bin Laden」(2010年)はインド映画でありながらパーキスターンを舞台にしており、しかも劇中でのパーキスターンの描き方に全く嫌みなところは見られない。

 しかしながら、「Bajrangi Bhaijaan」ほどパーキスターンを好意的に描いたインド映画が今まであっただろうか。ヒンディー語映画界の大スター、サルマーン・カーンはここ数年、毎年イードの時期に映画をリリースし、立て続けにヒットとしているが、2015年7月17日公開の「Bajrangi Bhaijaan」もイード公開のサルマーン映画である。インドで迷子になったパーキスターン人少女をインド人がパーキスターンの親元まで連れて行くという、印パ友好を地で行くようなストーリーの映画で、30億ルピー以上のコレクション(国内興行収入)を稼ぎだし、2015年最大のヒット作となった。パーキスターンでも上映され、ヒットを記録しており、正に2015年の「現象」のひとつと記憶していいだろう。

 「Bajrangi Bhaijaan」の監督はカビール・カーン。「Kabul Express」(2006年)、「New York」(2009年)、「Ek Tha Tiger」(2012年)などの監督で、イスラーム教やパーキスターン、アフガーンスターンなどが関係して来る映画を撮る傾向にある。脚本を担当しているのは南インドの脚本家KVヴィジャエーンドラ・プラサード。「Makkhi」(2012年)や「Baahubali: The Beginning」(2015年)のSSラージャマウリ監督の父親で、今まで数々のヒット作の脚本を担当して来た。音楽はプリータム。作詞はマユール・プリー、アミターブ・バッターチャーリヤ、ニーレーシュ・ミシュラー、カウサル・ムニール。今回、サルマーン・カーンが初めてプロデューサーも務めるのも特筆すべきだ。

 主演は前述の通りサルマーン・カーン。ヒロインはカリーナー・カプール・カーン。他にナワーズッディーン・スィッディーキー、メヘル・ヴィージ、オーム・プリー、シャラト・サクセーナー、アルカー・カウシャル、ラージェーシュ・シャルマー、ハルシャーリー・マロートラー(子役)など。最近インド国籍を取得したパーキスターン出身歌手アドナーン・サーミーがカメオ出演している。

 パーキスターン領カシュミールのスルターンプルで生まれ育ったシャーヒダー(ハルシャーリー・マロートラー)は6歳になっても言葉を一言も発しなかった。心配した母親のラスィヤー(メヘル・ヴィージ)はシャーヒダーをインドのデリーにあるニザームッディーン廟へ連れて行くことにした。印パの往復は国際特急サムジャウター・エクスプレスを利用した。デリーからの帰り、シャーヒダーは深夜に列車から降りてしまい、動き出した列車に追いつけず、迷子になってしまう。

 ところで、ハリヤーナー州のクルクシェートラでは猿神ハヌマーンを祀る祭りが行われていた。そこで人一倍陶酔して踊っていたのがパワン・クマール・チャトゥルヴェーディー、通称バジランギー(サルマーン・カーン)。熱心なハヌマーンの信徒で、心は誰よりも純粋だったが、頭も力も弱かった。バジランギーは父親の死後、デリーにやって来て、オールドデリーに住む父親の旧友ダヤーナンド(シャラト・サクセーナー)の家に厄介になっていた。バジランギーはダヤーナンドの娘ラスィカー(カリーナー・カプール・カーン)と共に過ごす内に恋仲になった。

 バジランギーは、たまたまクルクシェートラに流れ着いたシャーヒダーに気に入られ、仕方なく彼女をデリーまで連れ帰る。ダヤーナンドは、シャーヒダーの肌が白いのを見て、ブラーフマンだと考え、彼女を家に住まわせる。シャーヒダーは自分の名前も言えないので、周りの人々は彼女をムンニーと呼んだ。ところが、ムンニーがイスラーム教徒であるばかりか、パーキスターン人であることが発覚する。ダヤーナンドは激怒し、ムンニーを一刻も早く追い出そうとする。バジランギーは当初、彼女を旅行代理店に預けてパーキスターンに送ろうとするが、売春宿に放り込まれそうになったため、誰も信用できなくなり、自分でパーキスターンまでムンニーを送り届けることを決意する。ヴィザやパスポートなど持っていなかったが、バジランギーはハヌマーンのご加護だけを信じて、国境地帯まで乗り込んだ。

 国境ではブー・アリーという越境ガイドに助けられ、国境線に立てられた鉄柵の下のトンネルをくぐってパーキスターン領内に入ることに成功した。だが、バジランギーは曲がったことが大嫌いで、パーキスターンの国境警備隊から無理を言って「許可」をもらい、堂々とパーキスターン領内を歩くことになる。早速バジランギーとシャーヒダーはスパイと間違われ、パーキスターン警察に捕まる。それを見た地元ジャーナリストのチャンド・ナワーブ(ナワーズッディーン・スィッディーキー)は特ダネだと考え、バジランギーをつけ回す。バジランギーとシャーヒダーは警察からの逃亡に成功し、チャンド・ナワーブも2人に同行することになる。

 三人はシャーヒダーの故郷を探しながら、様々な人々に助けられ、パーキスターン領カシュミールに辿り着く。三人は、離れ離れになった人々を引き合わせると言われるハズラト・アミーン・シャーのダルガー(聖廟)に行くが、そこへパーキスターンの警察上官ハミード・カーン(ラージェーシュ・シャルマー)がインド人スパイを捕えにやって来る。三人は咄嗟に逃げたために見つからずに済む。また、このときチャンド・ナワーブは、インド人がパーキスターン人の迷子の女の子を助けている様子をビデオに撮影してネットにアップする。チャンド・ナワーブのビデオに、たまたまシャーヒダーの母親が映っていたことで、シャーヒダーの故郷が分かる。三人はバスでスルターンプルへ向かう。

 チャンド・ナワーブがアップしたビデオは瞬く間に有名になった。警察はバジランギーがインド人スパイであるという疑いを捨てておらず、その映像を活用して検問を始めた。三人の乗ったバスも検問に引っかかった。そこでバジランギーは囮になって警察を引き寄せ、その隙にチャンド・ナワーブがシャーヒダーを連れてスルターンプルへ向かった。シャーヒダーは母親との涙の再会を果たす。しかし、バジランギーは警察に捕まり、拷問を受けていた。

 チャンド・ナワーブのビデオは印パのニュースチャンネルも取り上げるまでになった。チャンド・ナワーブは、バジランギーの釈放を求めるメッセージを送り、印パ両国の国民に、国境地帯のナーローワールまで集まるように呼び掛ける。バジランギーを拷問していたハミードも、バジランギーはスパイではないと確信し、彼をナーローワールまで連れて行く。チャンド・ナワーブの呼び掛けに応じ、両国の多くの国民がナーローワールに集まっていた。その中には、ダヤーナンドやラスィカー、そしてシャーヒダーの家族の姿もあった。国境警備隊も国民の声に負け、バジランギーをインドに帰すことになった。そこへシャーヒダーが駆け寄る。だが、バジランギーは気付かずにインドへ帰ってしまいそうだった。シャーヒダーはここで初めて声を出し、バジランギーを呼ぶ。バジランギーは振り返り、シャーヒダーを抱き上げる。

 ストーリーは非常に単純で、ほとんど何のサプライズもない。予想していた通りに物語が進み、予想していた通りに物語は終わる。だが、それでいて面白い。とても面白い。グッと来る場面が何度もある。映画の面白さや物語の面白さというのは、物語の単純さや複雑さとは必ずしも関係しない。いかに観る人の心を掴み、揺さぶり、コントロールし、そして刺激するかだ。「Bajrangi Bhaijaan」はその点で大きく成功しており、2015年の傑作に数えられる程までまとめ上げられている。

 「Bajrangi Bhaijaan」のストーリーに入って行くためには、印パのこれまでの歴史や、ヒンドゥー教とイスラーム教の関係などについて、多少の知識を持っていることが必要になるだろう。なぜなら「Bajrangi Bhaijaan」が本当に両国民に伝えたいのは、印パの国民が囚われがちなステレオタイプな物の見方の打破だからだ。それは必ずしも印パ両国の関係に留まらず、むしろインド国内のカースト主義的な物の見方にも拡大され得る。それに加えて、印パ両国のクリケット事情についても抑えておくと全然違う。

 ひとつひとつ解説して行く。まず、主人公のバジランギーや、彼が居候することになったダヤーナンドの一家は、皆ブラーフマン階級のヒンドゥー教徒である。これは、名前などからも分かるし、台詞の中にもヒントがいくつか出て来る。ブラーフマンということは菜食主義者である。しかも、ダヤーナンドはブラーフマンの中でもしきたりなどに特にうるさい人物として描かれている。隣に住むイスラーム教徒が肉を調理しているだけで顔をしかめる有様だ。家の中にブラーフマン以外の人を入れるのにもいい顔をしない。イスラーム教徒などもってのほかだ。また、一般にブラーフマンは他のインド人に比べて肌の色が白い。肌の色が黒いほど下のカーストとされる傾向にある。劇中では肌の色についての言及が多いが、それは「肌の色が白い=ブラーフマン」という固定観念があるからだ。

 さて、シャーヒダーはカシュミール地方出身の女の子である。宗教はイスラーム教。非菜食であり、肉は大好物だ。カシュミール地方の人々は概して色白であり、シャーヒダーも白い。カシュミール人でなくても、中世に中央アジアなどから移民して来たイスラーム教徒の子孫は、色が白い傾向にある。一方、改宗した土着インド人の子孫であるイスラーム教徒は、他のインド人と肌の色は変わらない。

 バジランギーは、シャーヒダーの肌が白いことから、当初はブラーフマンの子と考えた。ダヤーナンドもその推測にさして疑問を差し挟まなかった。だが、実際にはイスラーム教徒であった。これは、肌の色で人を差別するインドの習慣に対する強烈な皮肉だ。しかも、シャーヒダーはパーキスターン人であった。ダヤーナンドは、きっと家にパーキスターン人が上がり込むなど、予想だにしていなかったことだろう。当然、態度をコロリと変える訳だが、肌の色で人を差別することの愚かさがここでコミカルに提示される。

 シャーヒダーの国籍が発覚するシーンも絶妙であった。それは印パのクリケットマッチをダヤーナンドの一家がテレビ観戦しているシーン。パーキスターンが勝って大喜びするシャーヒダーを見て、皆は彼女がパーキスターン人であることを知るのである。ちなみに、パーキスターン勝利の立役者となっていたシャーヒド・アーフリーディーは、パーキスターンを代表する人気クリケット選手であり、シャーヒダーの名前の元にもなった。

 一般のインド人は、漠然とした「パーキスターン人」という集団に対して、決していいイメージを持っていない。何だか分からないが、とにかく悪い奴ら、といったイメージだ。また、印パ分離独立時にパーキスターン領パンジャーブ地方から逃げて来た人々にとって、パーキスターン人は自分たちを殺戮した殺人鬼である。そういうイメージが今でも根強い。特に映画の舞台の一部となっていたデリーには、パンジャーブ人難民が多いため、パーキスターンに対する漠然としたイメージは悪い。だから、バジランギーがパーキスターンに行くことには誰もが反対であった。ましてやパスポートとヴィザもなしに渡航するのは自殺行為だ。

 ここで、どのインド人の脳裏にも、一人のインド人が思い浮かぶ。サラブジート・スィンだ。サラブジートは1990年に印パ国境地帯でパーキスターン警察によって逮捕されたインド人だ。同年にラホールなどで起こった連続爆破テロへの関与を疑われて「スパイ」容疑などで裁判に掛けられ、死刑を宣告された。サラブジートの死刑は度々延期され、その間、インド政府や彼の家族は彼の釈放を求めて来たが、実現しなかった。2013年にサラブジートは刑務所の中で他の囚人に刺され、死亡する。

 バジランギーも同様の目に遭う恐れがあった。だが、パーキスターン領内に足を踏み入れたバジランギーが出会うパーキスターン人の多くは、とても親切で、パスポートもヴィザもない彼を最大限援助してくれた。ジャーナリストのチャンド・ナワーブ、バスの車掌、モスクのマウラーナー(神官)などなど・・・。パーキスターンやパーキスターン人が、ほとんどネガティヴに語られていないのである。もちろん、その裏には、パーキスターン人の迷子の少女を助けるために命を危険にさらしてまでパーキスターンに足を踏み入れたバジランギーの勇気ある行動があった。だが、愛情をもって接すれば、印パの人々は分かり合え、助け合えるということが、この一連の出来事から雄弁に語られていたと言っていいだろう。

 バジランギー自身も、物語が展開するにつれて、イスラーム教やパーキスターン人に対する偏見をひとつひとつ落として行く。最初はダルガーに足を踏み入れるのもためらっていたのだが、最後ではパーキスターン人にサラーム(右手を手の甲を見せながら額の高さに上げる、イスラーム教徒同士の挨拶の仕草)をするほど、敬意を表するまでになっていた。

 登場人物の一人、チャンド・ナワーブがジャーナリストということもあり、印パ両国の報道の在り方にも疑問が呈されていた。彼は、インド人スパイが捕まったとの特ダネを追っており、早速大手ニュースチャンネルなどにそのネタを売ろうとするが、「話題性がない」として、相手にされない。チャンド・ナワーブはバジランギーがパーキスターンに来た目的を知り、それを再びニュースチャンネルに伝えるが、「全くニュースの価値なし」として、さらに相手にされない。バジランギーは「愛」を原動力に動いていた。チャンド・ナワーブも、インドからの「愛」をパーキスターンで広めたかった。だが、現実には、売れるニュースは「憎悪」であった。これにはチャンド・ナワーブも失望する。しかしながら、最近は「ヴァイラルメディア」という手段があり、個人でもネットに動画を投稿して、世界に情報を発信することができる。この手段が功を奏し、バジランギーの物語は印パ両国の人々に知れ渡ることになる。

 このように、「Bajrangi Bhaijaan」を通して発信されるメッセージの多くは、印パの文脈を伴っている。よって、印パの問題に明るくないと、感情移入しずらいところがあるかもしれない。それでも、素直な気持ちで観れば、笑いと涙のバランスをよく取りながら作られていることが分かるはずだ。

 さらに、バジランギーの馬鹿正直な性格は、ともすると目的を達成するために違法な手段も厭わないインド人一般の性格と真反対であるが、正攻法で生きる大切さを改めて教えてくれる。サルマーン・カーンが映画で演じるキャラは、バジランギーのようにラーム的なキャラか、「Dabangg」(2010年)のチュルブル・パーンデーイに代表されるようなクリシュナ的なキャラに大別される。2015年は、サルマーンの喉元に刺さった骨である2002年の「ひき逃げ」事件の判決が出る時期だったので、聖人君子の役を意図的に選んだのかもしれない。

 ちなみに、バジランギーはハヌマーンの熱心な信徒という設定であるが、これは、パーキスターンまで乗り込んだバジランギーの行動を、ハヌマーンがランカー島まで渡ったことと重ね合わせている。「ラーマーヤナ」に登場する猿の将軍ハヌマーンは、ランカー島に住む羅刹王ラーヴァナにさらわれたスィーター姫の居所を確かめるため、ランカー島に単身乗り込む。ハヌマーンは、「自分の本当の力に築いていない存在」の象徴でもあり、これもバジランギーの身の上と重なる。物語の半分はパーキスターンが舞台となるため、どうしてもイスラーム色が強くなるが、実はヒンドゥー教神話を下敷きにして物語を展開しており、この点でもバランス感覚が絶妙である。

 2015年最大のヒット作に、弱点が全くない訳ではない。一番気になったのは、スリルとサスペンスがほとんどないことだ。これは、バジランギーの木訥かつ脳天気な性格に依るところが大きい。ラスィカーのお見合いシーン、印パ国境越えのシーン、パーキスターン警察から逃げるシーンなど、本当はハラハラドキドキさせることができるシーンがいくつかあったのだが、かなり穏便に、もしくはコミックタッチで、流してしまっていた。もっと「間一髪」というシーンを入れてもよかったかもしれない。

 「Bajrangi Bhaijaan」はプリータムによる音楽も優れており、サルマーンの登場曲である「Selfie Le Le」、カッワーリー・ナンバー「Bhar Do Jholi Meri」など、要点を押さえたラインナップだ。「セルフィー」という流行語をいち早く歌の中に取り込んだり、アドナーン・サーミーが初めてカッワーリーに挑戦したりと、話題性もあるし、ストーリーとの親和性も高い。

 映画の半分は舞台がパーキスターンだが、もちろん撮影は全てインド国内で行われている。国境を越えた先の砂漠の町のシーンはラージャスターン州マンダーワーでロケが行われている一方、カシュミールのシーンは、インド側のカシュミールで撮影されている。「ハズラト・アミーン・シャーのダルガー」が気になったが、調べてみると、パハルガームにあるアイシュムカーム・ダルガーという場所であることが分かった。

 ところで、「Bajrangi Bhaijaan」公開後、シャーヒダーと似たような境遇にあるインド人女性ギーターがクローズアップされた。聾唖者のギーターは10年以上、パーキスターンで保護されており、インドに帰れずにいた。映画公開の影響でインド大使館が彼女の支援に乗り出し、インドに送還された。映画が社会にインパクトを与えた新たな例である。ただ、まだ本当の家族には会えずにいるようである。

 「Bajrangi Bhaijaan」は、「サルマーン・カーンのイード映画」との説明だけでは全く足りない、いろいろなメッセージを含んだ娯楽映画だった。そのメッセージまで読み取ろうと思ったら、印パ問題の文脈から読み解く必要があるが、筋は思いの外単純なので、前知識なしでも純粋に物語を楽しむことができるだろう。音楽も良い。「社会に影響を与えた映画」としても重要である。2015年最大のヒット作の名は伊達ではない。間違いなく2015年必見の映画の一本である。