汎インド映画

 インドの映画産業は1930年代にトーキー化したことで言語別に発展を始め、独立後の1956年に言語州再編成が実施されたことで、言語別・地域別の分散並立体制が確立した。よって、インドの映画産業はひとつではなく、単一の「インド映画」なるものは存在しないという言説が成立することになる。

 ところが、2010年代以降、インドの映画産業に新たな動きが見られるようになった。「汎インド映画(Pan-Indian Films)」と呼ばれる一連の作品群の登場である。これは、言語や州の境を越え、インド全土の観客をターゲットにして作られ上映される映画を意味する。多くの場合、多額の製作費を投入しトップスターを起用した娯楽大作である。言語別に分散したインドの映画産業が統合の方向へ向かう動きと見なすことが可能だ。

 従来、インド全土で広く楽しまれてきたのはヒンディー語映画であった。ヒンディー語はインドの全人口のおよそ4割が母語とする大言語であり、インド憲法によってインドの連邦公用語にも指定されている。ほとんどの州では義務教育段階で何らかの形でヒンディー語が教えられていることもあって、母語話者でなくてもヒンディー語を一定程度理解するインド人は多い。ヒンディー語以外にリングアフランカ(共通語)を名乗れるだけの話者人口を誇る言語は存在せず、ヒンディー語映画はインド映画のデファクトスタンダードと目されてきた。さらに、そのヒンディー語映画がヒンディー語圏以外でも流通し、「娯楽の王様」として昔から庶民に娯楽を提供してきたことによって、学校教育に依存しなくてもヒンディー語が普及し、国家統合が促進されてきた側面もあった。

 一方、ヒンディー語映画以外の言語で作られた映画は「リージョナル(Regional)」映画と呼ばれ、ヒエラルキーの下位に置かれた。ヒンディー語映画に匹敵する年間製作本数を誇る映画界もあるにはあるのだが、あくまで限られた地域の限られた観客によって楽しまれるローカルな映画という扱いであった。

 そんなこともあって、「汎インド映画」という用語が成立する前のインドにおいて、汎インド的な市場を持つ映画はヒンディー語映画以外にはありえなかった。マニ・ラトナム監督、プリヤダルシャン監督、ラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督など、汎インド的な活躍をする南インド出身の映画監督もいたが、あくまで個人プレイであり、包括的なトレンドを生み出すには至らなかった。ヒンディー語映画界の映画メーカーたちも、ヒンディー語で映画作りをすることで自然にインド全土に届くだろうと考えていた。

 「汎インド映画」という用語が生まれたのは、SSラージャマウリ監督「Baahubali: The Beginning」(2015年/邦題:バーフバリ 伝説誕生)が大ヒットした前後である。「Baahubali: The Begininng」はテルグ語映画だったが、ヒンディー語映画界の重鎮カラン・ジョーハルの全面協力を得て、ヒンディー語吹替版がヒンディー語圏にて大々的に公開された。

 これは画期的なことであった。それまで北インドの市場において南インド映画がそのまま公開されることは稀だった。全く例がなかったわけではないが、ラジニカーント主演の大ヒット作など、本当に限られた南インド映画しか北インドで公開されなかった。ヒンディー語映画界の映画メーカーたちが南インド映画の北インド進出を妨害してきたともいわれている。南インドでヒットした映画があると、ヒンディー語映画界の映画メーカーたちはそれをヒンディー語で公式・非公式にリメイクして手っ取り早く利益を上げてきた。彼らにとって南インド映画はアイデア源であった。もし南インド映画が北インドで公開されてしまったら、観客に内容が知れ渡ってしまい、リメイクがしにくくなってしまう。そういうこともあって南インド映画の北インド市場進出は抑止傾向にあった。また、南インド映画界の映画メーカーたちの間でも、南インドの映画スターたちの主演作では北インドの市場でのヒットは望めないという思い込みもあった。女優ならば比較的容易に越境ができたが、男性スターの場合、ヒンディー語映画進出はほぼ失敗してきたといっていい。

 「Baahubali: The Beginning」はオリジナルのテルグ語の他、タミル語、マラヤーラム語、ヒンディー語の吹替版が作られ、同時公開された。ヒンディー語版上映のスクリーン数はテルグ語版に匹敵するほどで、インド全土で大ヒットを飛ばした中でも、ヒンディー語圏での成功が顕著だった。「Baahubali: The Beginning」には北インドで名の知れたスターはほとんど出演していなかったため、従来の経験則を覆すこの成功は業界関係者を大いに驚かせた。

 元々、南インド映画は多言語展開されていたが、タミル語とテルグ語の二言語展開など、比較的近縁関係にある複数の言語の映画を同時製作するのが一般的だった。だが、「Baahubali: The Beginning」の成功はヒンディー語吹替版で北インド市場をカバーする多言語展開のトレンドを生み出した。また、そのような多言語展開の映画が「汎インド映画」と呼ばれるようになったのである。南インド映画界の視点に立って見れば、多言語展開の中にヒンディー語版が入っていることが「汎インド映画」の指標になる。

 「Baahubali: The Beginning」の続編となる「Baahubali 2: The Conclusion」(2017年/邦題:バーフバリ 王の帰還)は、テルグ語オリジナル版に加えて、ヒンディー語、タミル語、カンナダ語、マラヤーラム語の吹替版が同時公開され、さらなる汎インド的な大ヒットになった。その後もテルグ語映画界からは「Pushpa: The Rise」(2021年/邦題:プシュパ 覚醒)、「RRR」(2022年/邦題:RRR)、「Salaar: Part 1 – Ceasefire」(2023年/邦題:SALAAR サラール)、「Kalki 2898 AD」(2024年/邦題:カルキ 2898-AD)、「Devara Part 1」(2024年/邦題:デーヴァラ)、「Pushpa 2: The Rule」(2024年/邦題:プシュパ 君臨)といった汎インド映画が怒濤の如くリリースされた。

 テルグ語映画のこの成功を見て、他の南インド映画界でも追従の動きが見られるようになった。意外だったのは、今まで地味な印象のあったカンナダ語映画界から汎インド映画が続々と生まれたことだ。「K.G.F: Chapter 1」(2018年/邦題:K.G.F: Chapter 1)がその先陣を切り、その続編「K.G.F: Chapter 2」(2022年/邦題:K.G.F: Chapter 2)や「Kantara」(2022年)などが続いた。マラヤーラム語映画界からも汎インド映画を標榜した「Marakkar: Lion of the Arabian Sea」(2021年)や「King of Kotha」(2023年)が送り出された。タミル語映画界は元々ヒンディー語映画への対抗意識が強かったが、汎インド映画のトレンドに乗り遅れないためには背に腹はかえられず、「Ponniyin Selvan: Part 1」(2022年/邦題:PS-1 黄金の河)、「Ponniyin Selvan: Part 2」(2023年/邦題:PS-2 大いなる船出)などをヒンディー語吹替版含めた多言語展開した。

 南インドからの攻勢を受けたヒンディー語映画界も黙っていなかった。ヒンディー語映画も積極的な多言語展開をするようになったのである。ヒンディー語映画の立場から見たら、南インド諸語のバージョンを製作することが「汎インド映画」の指標になった。「Brahmastra Part One: Shiva」(2022年/邦題:ブラフマーストラ)はヒンディー語オリジナル版に加えて、タミル語、テルグ語、カンナダ語、マラヤーラム語の吹替版が作られ、明らかに汎インド映画を狙った作品であった。「War 2」(2025年/邦題:WAR バトル・オブ・フェイト)はヒンディー語、テルグ語、タミル語の三言語展開が行われた。

 「Baahubali」シリーズがインド全土で大ヒットしていた時代の「汎インド映画」の定義には、南北をカバーする多言語展開という要素が最重要項目として入っていた。だが、時代が下るにつれてもうひとつ重要な項目が入り込むこととなった。それは南北スターの共演である。たとえばテルグ語映画「Baahubali」シリーズにはヒンディー語映画界のスターは存在しなかったが、テルグ語映画「RRR」にはアジャイ・デーヴガンやアーリヤー・バットなどヒンディー語映画界のスターたちが起用された。その一方でヒンディー語映画「Brahmastra Part One: Shiva」には、テルグ語映画スターのナーガルジュナが起用されたし、「War 2」にはテルグ語映画スターのNTRジュニアが起用された。当然これは、言語だけでなくスターでもっても南北の観客にアピールし集客につなげようという戦略的なキャスティングである。また、南北をまたがって人気を誇るスターは「汎インドスター(Pan Indian Star)」と呼ばれるようになった。これは特に南インドで使われる用語である。

 こうして、「Baahubali: The Beginning」公開から10年が経って、「汎インド映画」という用語も10歳を迎えたことになる。多少の変遷はあったが、現時点でこの用語の定義は主に以下の2つになるだろう。

  • 少なくともヒンディー語と南インド諸語を含む多言語展開された映画
  • 南北インドのスターを起用した映画

 汎インド映画は大予算型映画になる傾向が強く、数部構成になる傾向も強いが、この辺りの要素は「汎インド映画」の要件としては必須とはいえないだろう。小規模の単発映画でも多言語展開することで成功した例はある。舞台もインド各地を移動すると汎インド映画性が高まるが、これも必須とはいえない。

 では、汎インド映画の流行は今後、言語ごとに分散して発展してきたインドの映画産業を統合する力を持つだろうか。スターの往来については、以前に比べてだいぶハードルが下がり、ヒンディー語映画とリージョナル映画の間にあったヒエラルキー関係も緩和されたように見える。ヒンディー語映画スターが南インド映画に出演したり、南インド映画スターがヒンディー語映画に出演したりする人材交流はさらに加速しそうだ。コロナ禍の時期に一気に普及したOTTも各映画界の統合の追い風になっている。従来、自分の母語の映画しか観なかったインド人観客が、OTTを介して他言語の映画を楽しむようになっている。劇場公開時には多言語展開されなかった作品がOTTで配信される時に吹替版が追加されるケースも増えた。また、日進月歩のAIは、多言語展開をより容易にしそうである。自動翻訳は元より、音声生成やリップシンクにもAIは活用され始めている。着実に南北映画産業の攪拌が起こっている。

 ただ、各地域で映画製作の拠点が確立してしまっており、それらが統合されていくような動きは全く見えない。ヒンディー語映画産業はヒンディー語映画産業としてムンバイーに残り続け、テルグ語映画産業はテルグ語映画産業としてハイダラーバードに残り続け、タミル語映画産業はタミル語映画産業としてチェンナイに残り続けるというのが容易に予想される未来図である。各映画産業が特色を守りながら切磋琢磨するダイナミズムはインド映画のエネルギー源であり、いつまでも失われないでほしい。