Kantara (Kannada)

4.0
Kantara
「Kantara」

 インドは広く多様で、分からないことだらけだ。北インドに住んでいた者からすると、南インドは異国の地に思える。2022年9月30日に公開され話題を呼んでいるカンナダ語映画「Kantara」を観て、インドの広大さや多様さを改めて痛感した。それほど衝撃的な映画だった。

 まず、近年のカンナダ語映画の隆盛について触れておきたい。インド映画研究の一環で、毎年どの言語の映画がどれだけ作られているのかをチェックしているが、2010年代半ばからカンナダ語映画の製作本数が急増していることが気になっていた。インド映画の御三家といえば、ヒンディー語映画、タミル語映画、テルグ語映画と相場が決まっており、毎年この3つの言語の製作本数がトップ3を占めてきた。ところが2017年からカンナダ語映画が上位に食い込むようになり、注目していた。

 とは言え、タミル語映画やテルグ語映画に比べたらカンナダ語映画は圧倒的に地味で、しかも地味ながら良質な映画という観点で勝負をしたら今度はマラヤーラム語映画に負けるという、帯に短したすきに長しな存在だったことは否めない。南インド映画をビートルズにたとえたら、カンナダ語映画はジョージ・ハリスンといったところだ。

 だが、近年、全国的なヒットを飛ばすカンナダ語映画がちらほら現れており、もはやこれは突然変異的な現象ではないと確信している。「K.G.F: Chapter 1」(2018年/邦題:K.G.F: Chapter 1)、「K.G.F: Chapter 2」(2022年/邦題:K.G.F: Chapter 2)、「Vikrant Rona」(2022年)など、カンナダ語映画が本拠地カルナータカ州以外でも話題になることが増えた。そして、続けてこの「Kantara」がインド全土で異様なヒットとなり、カンナダ語映画がひとつのムーブメントになっていることが再び証明されたのである。

 「Kantara」でユニークなのは、カルナータカ州の土着文化にどっぷり浸かっていることである。まず、主人公は「カンバラー」と呼ばれる牛レースの選手だ。一般的には水田を会場にして行われ、2頭の牛につないだすきの上に選手が立ち、牛を走らせる。基本的には単独走行を繰り返して時間を競うタイムレース形式であり、同時に複数の選手が走ることはない。いかにも農民の娯楽といった感じである。ただ、映画にカンバラーが登場するのは冒頭のみだ。

 この映画が中心的なモチーフとして利用しているのは、「ブータ・コーラー」と呼ばれる神下ろしの祭礼である。この祭礼はカルナータカ州沿岸部に特有のもので、極彩色のメイクをし、派手に着飾った演者が、神を自身の中に宿し、踊りを踊ったりお告げを下したりする。ブータ・コーラーで神になるのは低カーストの者が多いのだが、神が下りている間は、地主などの上位カーストもひれ伏す。ケーララ州のテイヤムと類似している他、カルナータカ州で上演されるヤクシャガーナの原始的な姿とも考えられる。

 「Kantara」の物語には、このようなカルナータカ州特有の土着文化が織り込まれており、北インドの観客にとっては特にエキゾチックに感じるのではなかろうか。もしかしたらこの映画を観るまでカンバラーやブータ・コーラーの存在を全く知らなかった人も多いかもしれない。それほどインドの文化は多様なのである。

 「Kantara」では、リシャブ・シェッティーが監督・脚本・主演を務めている。彼はほとんどカンナダ語映画界でしか仕事をしたことがなく、「Kantara」以前にはインド全国でほとんど無名の人物だったに違いない。それが「Kantara」の全国的なヒットにより、一気に知名度を獲得することになった。

 他には、サプタミー・ゴウダー、キショール、アチユト・クマール、そしてリシャブ・シェッティー監督の妻プラガティ・シェッティーなどが出演している。

 ヒンディー語吹替版とテルグ語吹替版も作られているが、鑑賞したのはオリジナルのカンナダ語版である。

 時は1847年、平穏を求めて放浪の旅に出た王は、パンジュルリ神の化身である石を迎え入れる代わりに森林に住む先住民に広大な森林の土地を与える。パンジュルリ神を宿したシャーマンは、もしその約束が破られるならば、グリガ女神の祟りがあると警告する。

 1970年、カードゥベットゥ村ではブータ・コーラーが行われており、王の末裔である地主も参列していた。地主の息子は、先祖が先住民に与えた土地を取り戻したいと考えており、ブータ・コーラーの演者(リシャブ・シェッティー)に土地を返すように言う。演者は、土地を返す代わりに平穏を返せと返答し、彼の変死を予言して森の中で姿を消す。

 1990年、カードゥベットゥ村のカンバラー名人だったシヴァー(リシャブ・シェッティー)は、地主デーヴェーンドラ・スットゥール(アチユト・クマール)に可愛がられていた。シヴァーの父親は20年前に森の中で姿を消したブータ・コーラーの演者であったが、彼自身はそれを受け継いでいなかった。シヴァーの従兄弟であるグルヴァがブータ・コーラーを行っていた。

 ある日、新しく森林局の支部長として赴任したムラリーダル(キショール)は、先住民が占有する森林地帯を保護林に組み入れようとしており、度々シヴァーや村人たちと対立する。シヴァーの恋人リーラー(サプタミー・ゴウダー)は森林局に就職するが、ムラリーダルからいじめられ、自分の出身村から村人たちを追い出す任務を与えられる。

 ムラリーダルに追われたシヴァーは仲間たちと共に森林に身を隠す。だが、彼らが切った木が偶然、ムラリーダルの乗るジープを直撃し、彼は負傷する。ムラリーダルはシヴァーを捕まえ牢屋に入れる。一方、地主のデーヴェーンドラはグルヴァを買収し、次のブータ・コーラーで神の姿になって土地を地主に返すよう要求する。断られたデーヴェーンドラはグルヴァを殺害し、カードゥベットゥ村に遺棄する。

 釈放されたシヴァーは、グルヴァを殺したのはムラリーダルだと考え、復讐しようとする。ところが、シヴァーは仲間からヒントをもらい、グルヴァを殺した真犯人はデーヴェーンドラであることに気付く。また、デーヴェーンドラはいつの間にか森林の土地を我が物にしていた。それを知ったムラリーダルは村人側に立つ。シヴァーはデーヴェーンドラの手下たちと戦うが、屈強な護衛クマールによって殺されてしまう。ところがそのときシヴァーにグリガ女神が乗り移り、神がかった力で悪漢たちを一網打尽にする。そして最後にデーヴェーンドラも殺す。

 次のブータ・コーラーではシヴァーが演者として神下ろしを行っていた。それが終わると彼は森林の中に走り去り、そのまま姿を消した。

 ひとつひとつのシーンに溜めがなく、短いカットのつなぎ合わせが続き、おかげでものすごいスピードでストーリーが進んでいく。その辺りにはまだ技術が荒削りであると感じた。だが、カンバラーやブータ・コーラーなど、それを補って余りある迫力あるシーンがいくつもあり、思わず釘付けになってしまう。特に最後の10分、グリガ女神が乗り移ったシヴァーの演技はすさまじかった。荒削りながら爆発的な荒々しさがほとばしる異色作であり、カンナダ語映画の湧き上がるエネルギーをひしひしと感じさせられる作品になっていた。

 森林を舞台にしたこの映画には、主に3つの勢力が登場する。まずは先祖代々森林に住み続けてきた村人たちである。彼らは低カースト者、もしくは不可触民の一種であるアーディワースィー(先住民)に分類される。彼らをまとめるのが主人公シヴァーである。次は地主デーヴェーンドラだ。彼は、100年以上前に村人たちと交渉し、パンジュルリ神の化身である石と引き換えに彼らに広大な土地を与えた王の末裔だ。言い換えれば、このカードゥベットゥ村では時代が移り変わっても地主による支配が100年以上続いてきたことになる。そして第三の勢力は政府、具体的には森林や野生動物の保護を任務とする森林局である。カードゥベットゥ村の敷地を管轄する支部の長官として赴任してきたのがムラリーダルであった。

 当初は、森林局のムラリーダルが悪役として描かれていた。ただ、彼は法律に則って任務を遂行しようとしていただけであり、村人に個人的な恨みなどを抱いていたわけではなかった。政府の論理やムラリーダル自身の正義感が村人たちの不利益となり、対立を生んでいた。しかしながら、途中で悪役はデーヴェーンドラに入れ替わる。序盤ではデーヴェーンドラは下々の者にも優しく接する寛大な地主として描かれている。シヴァーのことも可愛がっていた。地主と村人のこのような親密な関係を描く娯楽映画もあるのかと感心して観ていたのだが、終盤でやっぱりデーヴェーンドラは先祖が村人たちに与えてしまった土地を奪い返そうとしていることが分かり、しかもシヴァーの従兄弟グルヴァを殺害するという暴挙にも出て、完全に悪役と化す。

 当初は村人たちに優しかった地主がやがて本性を明らかにし、先祖が村人たちに与えてしまった土地を取り返そうと牙をむく。結局、「Kantara」は抑圧された人々が地主などの権力者に立ち向かうストーリーに帰着する。それだけなら何の変哲もない映画で終わっていたことだろうが、それにカルナータカ州特有の生々しい土着文化を迫力たっぷりにねじ込み、唯一無二の映画に仕上げていた。

 ただ、インド全国で大ヒットする南インド映画に共通する欠点なのだが、「Kantara」でも男尊女卑が強烈だった。主人公のシヴァーがヒロインのリーラーに言い寄る手法は完全にセクハラである。この映画には3つの時間軸――1847年、1970年、1990年――が存在し、「現在」扱いされているのは1990年になるが、それももはや最近のことではない。その時代性を表現するため、敢えて女性を抑圧して描写したのかもしれない。そうであっても、「Kantara」の女性たちは男性キャラに圧倒され、自我に乏しかった。

 一人で監督・脚本・主演を務め、しかも一人二役まで演じるリシャブ・シェッティーは、カンナダ語映画界の成長株の一人のようだ。生まれがいわゆるトゥルナードゥを呼ばれるカルナータカ州沿岸部であり、彼自身が幼少時からブータ・コーラーを目撃してきた可能性が強い。それ故にこのような土着文化盛りだくさんの映画を作ることができたのだろう。

 「Kantara」は、「K.G.F」シリーズに並んでインド全土で話題となったカンナダ語映画だ。編集が荒削りだが、映像には異様なまでの迫力がある。特に最後の10分は見逃せない。地味な印象のあるカルナータカ州の土着文化をここまで魅力的に提示した映画は過去に例がなく、カンナダ語映画の歴史を塗り替える一本である。