
2025年11月28日公開の「Tere Ishk Mein(君の愛に)」は、「Raanjhanaa」(2013年/邦題:ラーンジャナー)の「精神的な続編」を標榜するロマンス映画である。「Raanjhanaa」は、古都ヴァーラーナスィーと首都デリーを主な舞台とした狂恋物語であり、監督はアーナンド・L・ラーイ、音楽はARレヘマーン、主演はダヌシュという布陣であった。「Tere Ishk Mein」ではこの三人が再びタッグを組み、「Raanjhanaa」が歌い上げた究極の愛の姿をさらに突き詰めている。
「Raanjhanaa」のヒロインはソーナム・カプールであったが、「Tere Ishk Mein」ではクリティ・サノンに交代している。だが、似た系統の女優である。タミル語映画界を本拠地とするダヌシュの主演映画ということもあり、ヒンディー語版に加えてタミル語版も同時製作・公開されたが、ヒンディー語版の歌詞はイルシャード・カーミルが担当している。これも「Raanjhaana」と共通している。
その他のキャストは、プラカーシュ・ラージ、プリヤーンシュ・ペーンユリー、トーター・ロイ・チャウダリー、パラムヴィール・スィン・チーマー、チッタランジャン・トリパーティー、ジャヤー・バッターチャーリヤ、ヴィニート・クマール・スィンなどが出演している。また、「Raanjhaana」で名脇役を演じたムハンマド・ズィーシャーン・アイユーブがカメオ出演し、前作と同じムラーリー役を再演している。彼の存在が「Raanjhaana」と「Tere Ishk Mein」をつなげている。
「Tere Ishk Mein」は現在と過去を往き来する構成になっているが、現在のシーンの時間軸は2025年5月のスィンドゥール作戦前後をイメージしているようだ。ダヌシュが演じる主人公シャンカルはインド空軍のパイロットである。ただ、彼が駐屯しているのはラダック準州であり、主な仮想敵は中国になる。
2025-26年の年末年始、インド滞在時の2025年12月29日にまだ「Tere Ishk Mein」の上映が続いており、PVRロジックス・ノイダで鑑賞できた。
シャンカル・グルッカル(ダヌシュ)はデリー大学の学生自治会会長で、暴力的な学生運動を主導していた。ムクティ・ベーニーワール(クリティ・サノン)は同大学で心理学の博士課程におり、人間の暴力性とその抑制について博士論文を書いていた。ムクティはシャンカルの暴力性に目を付け、彼を実験台にして理論を組み立てようとする。シャンカルはムクティと一緒に過ごすうちに徐々に自制ができるようになっていくが、同時にムクティに恋もしてしまう。
シャンカルから暴力性が消えたことで指導教官からもムクティの博士論文が認められ、彼女は博士号を取得できた。シャンカルはムクティに愛の告白をしようとするが、そのとき彼は、彼女にアビールという幼馴染みがいることを知る。シャンカルはアビールをムクティの許嫁だと勘違いし激昂するが、アビールは単なる友達で、ムクティには彼と結婚する気がなかった。ただ、ムクティはシャンカルに対しても恋愛感情は抱いていなかった。
シャンカルが自分に恋していることを知ったムクティは、彼を自宅に招待し、父親と会わせる。ムクティの父親ヤシュワント(トーター・ロイ・チャウダリー)はインド行政官(IAS)のエリートだった。一方、シャンカルの父親ラーガヴ(プラカーシュ・ラージ)は貧しい公証人であり、社会階層が全く異なっていた。ヤシュワントはシャンカルに対し、国家公務員試験であるUPSCの一次試験に通ったら話を聞くと条件を出す。それを鵜呑みにしたシャンカルはUPSCに合格するために猛勉強を始める。
シャンカルは3年目にUPSCの一次試験に合格した。喜び勇んでムクティに会いに行くが、そのときちょうどムクティはジャスジート・スィン・シェールギル(パラムヴィール・スィン・チーマー)と結婚しようとしていた。ジャスジートは元々デリー大学で非常勤講師をしており、ムクティと知己の仲だった。ムクティはデリー大学で博士号を取得した後、米国に留学していたが、そこでジャスジートと再会し、恋仲になったのだった。それを知ったシャンカルはムクティの自宅に火を放ち、警察に逮捕される。ラーガヴに陳謝されたヤシュワントは、被害届を出さない代わりにグルッカル親子にデリーから去るように条件を出した。ラーガヴはそれを呑む。ところがその夜、ラーガヴは交通事故で命を落としてしまう。
父親の葬儀を終えたシャンカルは自殺を考えるが、父親が飛行機に乗りたがっていたことを思い出し、インド空軍の入隊試験を受ける。一方、ムクティはシャンカルを拒絶したものの、酒と煙草に溺れるようになり、ジャスジートとの結婚もすぐには行われなかった。シャンカルの行方も分からなくなっていた。
それから年月が過ぎ去り、ムクティは軍のカウンセラーに就職していた。ジャスジートとの間にできた子供を身ごもっていた彼女は、カウンセリング対象の軍人リストの中にシャンカルを見つけ、彼の駐屯するラダック準州に飛び、彼と再会する。シャンカルは優秀な戦闘機パイロットとして認められていたが、身勝手な行動が多く、このときも飛行許可を取り消されていて、カウンセリングを義務づけられていた。シャンカルが再び戦闘機に乗るためにはカウンセラーの署名が必要だった。そのとき基地が敵の攻撃を受け、空軍は出動するが、シャンカルは飛び立てなかった。もしシャンカルの書類に署名をしたら生きて帰って来ないことを知っていたムクティは、彼を死なせないために、署名を拒否する。そのとき彼女は破水し、治療室に送られる。ジャスジートは海軍に所属しており、敵の攻撃を受けていた。シャンカルは、ムクティが産む子供の面倒を、自分かジャスジートのどちらかが育てると約束し、分娩直前のムクティから署名をもらって、戦闘機に乗って飛び立つ。彼はジャスジートの乗る空母を攻撃する敵国の戦艦を何度も攻撃し、最後に戦闘機ごと戦艦に突っ込んで大破させる。同じ頃、ムクティは出産し、そのまま息を引き取った。
「武士道というは死ぬことと見つけたり」とは、武士の心得をまとめた江戸時代の書物「葉隠」の有名な一節だが、アーナンド・L・ラーイ監督が「Raanjhanaa」から一貫して主張しているのは、「愛というは死ぬことと見つけたり」である。愛の究極の姿は死であり、決して「Happily Ever After(その後ずっと幸せに暮らしましたとさ)」ではない(参照)。真の愛に身を投じた者がどのように死に向かっていくかを描出したのが「Raanjhanaa」であり、それをさらに突き詰めたのがこの「Tere Ishk Mein」だといえる。
「Raanjhanaa」では、主人公クンダンが一方的にゾーヤーに対して究極の愛を実践し、最後には彼女への愛のために進んで命まで捧げる。ゾーヤーは終始クンダンに対して冷淡であり、彼が死ぬ直前にようやくクンダンの愛の深さに気付き涙する。「Tere Ishk Mein」でも、主人公シャンカルがムクティに対して極度の愛を貫く。その点は共通している。だが、ヒロインの立ち位置が微妙に異なる。ゾーヤーとムクティは、自己の利益のために、自分に対して好意を抱く男性をいいように利用しており、その点ではよく似たキャラクターだ。だが、ゾーヤーよりもムクティの方がその愛からより強い影響を受けており、別の男性と結婚した後もシャンカルのインパクトが忘れられず、酒と煙草に逃げるようになって、身体を壊していく。シャンカルは最後、ムクティの夫を助けるために神風アタックをして死ぬが、それと同時に、出産を終えたムクティも力尽きて息を引き取る。「Raanjhanaa」でゾーヤーの死は描かれなかったが、「Tere Ishk Mein」ではムクティの死が描かれた。シャンカルの死は定めであったが、ムクティの死は、「Raanjhanaa」より一歩先に進んだ描写だ。死を究極の目的とする愛は、その発信者に死をもたらすだけでなく、その受信者にも死をもたらす。そんなラーイ監督の恋愛哲学が土台になったロマンス映画であった。
もうひとつ軸になっていた要素が「暴力」と「非暴力」であった。ムクティは、「盲腸を切除しても人体に何の害もないのと同様に、人間にとっても暴力性は百害あって一利なく、その切除もすることができる」というのが持論で、この理論を博士論文にまとめていた。そして、その実験台として、暴力的な学生運動を主導していたシャンカルに目を付ける。そして、彼と共に時間を過ごす中で、彼に暴力性の制御を教える。また、ムクティは、彼の暴力性の根幹に、幼少時のトラウマがあるのを発見する。シャンカルは10歳の頃に母親を火事で亡くしており、それが彼を今でも苦しませ続け、その苦しみが暴力を引き起こしていた。ムクティは、トラウマが人間の精神にどれだけ大きな影響を与えうるのかを目の当たりにし、研究者として強い関心を抱く。つまり、彼女はシャンカルの行動を見て彼を暴力的な人間と決め付けておらず、彼の暴力性を彼の人間性から切り離して観察することができていた。どんな暴力性にも原因があり、原因があるならばその治療は可能なはずであった。
これだけなら暴力の本質を批判的に探究することで非暴力主義を啓蒙する内容の映画になっただろうが、この主題はストーリーが進むごとに脇に追いやられていく。そして、むしろ、暴力性を研究していたムクティがシャンカルとの出会いによってトラウマを抱えることになり、彼女を自滅に追い込んでいく。非暴力主義の原動力は愛のはずだが、暴力主義の原動力も愛であった。愛は人を非暴力的にもすれば、暴力的にもする。つまり、「Tere Ishk Mein」は、暴力を批判し非暴力を推奨するような教条的な映画でとどまっておらず、愛の二面的な姿をとことん突き詰めようとする探究的かつ哲学的なロマンス映画になっていたといえる。少し前までは、この種の映画を作らせたらイムティヤーズ・アリー監督の右に出る者はいなかったのだが、「Raanjhanaa」と「Tere Ishk Mein」のセットにより、ラーイ監督が一歩抜きん出た感がある。
シャンカルの父親ラーガヴが交通事故で死んだ後、シャンカルは遺体をヴァーラーナスィーまで運び、そこで火葬する。そのとき彼が出会ったのが「Raanjhanaa」にも登場したムラーリーであった。ただ、ムラーリーはだいぶ年を取っているように見えた。そうすると、「Tere Ishk Mein」は、「Raanjhanaa」から30~40年後の物語ということになるだろう。シャンカルは、「Raanjhanaa」の主人公クンダンの生まれ変わりという設定だとも考えられる。だが、明確に提示されていたわけでもないので、観客が勝手に解釈するしかない。
「Tere Ishk Mein」の主人公シャンカルはインド空軍のパイロットだ。近年のインド映画界では、「トップガン マーヴェリック」(2022年)の影響からか、「Tejas」(2023年)、「Fighter」(2024年)、「Sky Force」(2025年)など、戦闘機関連の映画がたくさん作られており、本作もそのひとつに数えられる。ただ、本質を見失ってはおらず、ロマンス映画としてしっかりロマンスの方に重点が置かれていたのは好感が持てた。
シャンカルがUPSCを受験する下りがある。「世界でもっとも合格率の低い試験」とされるインドの国家公務員試験UPSCは、「12th Fail」(2023年)を観ると、いかに多くのインド人若者が国家公務員を志望しているのかがよく分かるが、「Tere Ishk Mein」ではその困難さが矮小化して描かれていたと感じた。シャンカルはムクティとの結婚を彼女の父親に認めてもらうためにUPSCの勉強を始め、3年目で一次試験に合格する。当初、シャンカルはUPSCが何なのかも知らないほど不勉強だった。そのような状態から3年で一次試験合格までこぎ着けるのは、UPSCに合格するために必死に勉強をしている多くのインドの若者たちにとっては、ご都合主義以外の何物でもない。
ちなみに、「Raanjhanaa」ではクンダンとゾーヤーの間に壁として設けられていたのが宗教の違いだった。クンダンはヒンドゥー教徒であり、ゾーヤーはイスラーム教徒であった。「Tere Ishk Mein」で壁になっていたのは社会階層であった。シャンカルは貧しい公証人の息子である一方、ムクティはエリート官僚の娘であり、全く釣り合っていなかった。一応、シャンカルはタミル人、ムクティはパンジャーブ人であったが、この地域差は全く問題になっていなかった。ただ、注意しなければならないのは、これらの壁がそれぞれのカップルの結婚を疎外していた唯一の原因ではなかったことだ。結局、ゾーヤーもムクティも、クンダンとシャンカルを生理的に恋愛の対象とはしていなかったのである。
「Raanjhanaa」は音楽も素晴らしい映画であったが、素晴らしすぎて、それを超えるのは同じ監督と音楽監督が再び手を結んでも困難に思える。「Tere Ishk Mein」の音楽は決して見劣りするものではなかった。ストーリーとの親和性も高かった。だが、「Raanjhanaa」にあったようなキャッチーさが今回もあったとは思えず、音楽面では前作に軍配が上がる。
ダヌシュはラーイ監督のお気に入りで、彼がダヌシュを起用するのは、「Raanjhanaa」、「Atrangi Re」(2021年)に続き3作目となる。怒りや悲しみの表現がとてもうまく、キャリアベストに数えてもいい演技であった。クリティ・サノンにとっても大きな飛躍といえる演技であり、現在最前線で活躍する女優にふさわしい風格を備えていた。プラカーシュ・ラージも非常に重要な脇役を真摯に演じていた。
「Tere Ishk Mein」は、愛の本質を探り、ロマンス映画を哲学的に掘り下げようとする意欲作であり、「Raanjhanaa」の到達点からさらに先に踏み込んでいる。2025年は「Saiyaara」(2025年)の大ヒットがロマンス映画の復権を示唆したが、「Tere Ishk Mein」は「Saiyaara」ほどではないにしても興行的に成功しており、しかも内容的に深く、やはり時代の転換点にあるのではないかと感じさせる。戦闘機やUPSCなど、構成要素が多すぎて雑多な印象は受けるものの、ロマンス映画としての本質は見失っていない。必見の映画である。
