1993年のボンベイ同時爆破事件の首謀者とされるダーウード・イブラーヒーム。ボンベイのアンダーワールドのドンで、ヒンディー語映画界にも多大な影響力を持っていたとされる。そして、ヒンディー語映画が最も好んで映画の題材とする実在の人物でもある。ダーウードをモデルとしたキャラクターが何らかの形で登場する映画の数は、おそらくマハートマー・ガーンディーが登場する映画の数よりも多いだろう。「Company」(2002年)、「Black Friday」(2004年)、「D」(2005年)、「Once Upon a Time in Mumbaai」(2010年)、「Once Upon Ay Time in Mumbai Dobaara!」(2013年)など、枚挙に暇がない。ムンバイーで最も恐れられ、そして最も愛されるキャラクターだと言える。現在ダーウードはパーキスターンの商都カラーチーに潜伏しているとされるが、パーキスターン政府は否定している。2011年にはカラーチーでダーウードの息子モイーン・イブラーヒームの結婚式が行われ、ダーウードも出席したと伝えられている。
ところで、2011年5月2日、米軍がパーキスターンのアボッターバードに潜伏していたウサーマ・ビン・ラーディンを急襲、殺害した事件は未だに記憶に新しい。この事件から着想を得て、インドの対外諜報機関RAWのエージェントがカラーチーに潜伏するダーウードを急襲するというフィクション映画が作られた。2013年7月19日公開の「D-Day」である。RAWは長らく映画界から忘れられた存在だったが、「Mission Istaanbul」(2008年)などから急に注目を浴び、「Agent Vinod」(2012年)や「Ek Tha Tiger」(2012年)など、ハリウッドの007シリーズを意識したスパイ・アクション映画が作られるようになった。「D-Day」でも4人のRAWエージェントがカラーチーに潜入して活躍するが、上記の映画とは一線を画した、硬派なスパイ映画である。
「D-Day」の監督はニキル・アードヴァーニー。「Kal Ho Naa Ho」(2003年)で大々的に監督デビューしたが、「Salaam-e-Ishq」(2007年)や「Chandni Chowk to China」(2008年)など、その後フロップを連発している。キャストはリシ・カプール、イルファーン・カーン、アルジュン・ラームパール、フマー・クライシー、シュルティ・ハーサン、ナーサル、サンディープ・クルカルニー、KKラーイナー、チャンダン・ロイ・サーンニャール、アーカーシュ・ダヒヤー、シュリースワラーなど。ラージパール・ヤーダヴが特別出演。音楽はシャンカル=エヘサーン=ロイ、作詞はニランジャン・アイヤンガル。題名となっている「D-Day」は軍事用語で、戦略上重要な攻撃もしくは作戦開始日時を表す際に使われる。だが、それに加えて「D」にはダーウード・イブラーヒームと彼の組織である「Dカンパニー」の意味も含まれていると考えていいだろう。
インドの対外諜報機関RAWの局長アシュヴィニー・ラーオ(ナーサル)によってカラーチーに派遣されたワリー・カーン(イルファーン・カーン)は、現地で床屋として生活し、ナフィーサー(シュリースワラー)と結婚して、カビールという男の子をもうけていた。ワリーの潜伏期間は9年間に及び、いつしかこの幸せな期間がこのまま永遠に続けばと思うようになっていた。ところがある日ワリーはインドが国際指名手配しているテロリスト、イクバール・セート、通称ゴールドマン(リシ・カプール)を目撃する。また、ゴールドマンの息子の結婚式がもうすぐ行われるとの情報もキャッチする。ワリーはアシュヴィニーに連絡する。こうして、ゴールドマンを結婚式の場で生け捕りにしてインドに連行する「ミッション・ゴールドマン」が始動した。インドからは3人のエージェントが派遣されて来た。元軍人のルドラ・プラタープ・スィン(アルジュン・ラームパール)、爆弾専門家ゾーヤー・レヘマーン(フマー・クライシー)、そして元泥棒のアスラム(アーカーシュ・ダヒヤー)である。 ゾーヤーは結婚式が行われるホテルに宿泊し、密かに武器をホテルに持ち込んだ。ルドラは身を隠すため売春宿に行き、顔に大きな傷跡を残す売春婦スライヤー(シュルティ・ハサン)の部屋に泊まり込むようになる。アスラムはゴールドマンの甥(チャンダン・ロイ・サーンニャール)の運転手となる。ワリーは妻子をロンドンに送る準備を進めていた。一方、パーキスターンの諜報機関ISIのラザーク将軍(KKラーイナー)はゴールドマンに、結婚式には参加しないように忠告するが、ゴールドマンは聞かなかった。 遂に結婚式の日が来た。ワリーはナフィーサーとカビールを空港まで送り、自宅に3体の遺体を置いたまま放火してホテルに向かった。全ては計画通り進んでいた。しかし、その頃アイスランドで火山が噴火し、欧州行きの航空便が全てキャンセルになったことから計画が狂い出す。空港に足止めされたナフィーサーとカビールは自宅の炎上などもあってISIから目を付けられ、連行される。尋問の中でワリーがRAWエージェントである可能性が強まり、ゴールドマンの命が狙われていることが察知される。ワリーとルドラは混乱の中でも何とかゴールドマンを捕まえるが、殺すことはできず、逃げ出すことになった。このときワリーは銃弾を受け負傷する。 すぐにゴールドマン暗殺未遂は報道されたが、インド政府は関与を否定した。もし彼らが捕まったら、インド政府にとって大きな恥辱となる。RAWのアシュヴィニー局長は解任され、後継のアトゥル・ミシュラー(サンディープ・クルカルニー)は4人の暗殺に乗り出す。だが、彼らは何とか暗殺者から逃れる。しかしながら、スライヤーは殺され、ナフィーサーも死んだと報道された。 一方、ゴールドマンは暗殺未遂があった後でも結婚式を強行した。ラザーク将軍は、ゴールドマンの存在が重荷になっていることを感じ、彼を密かに抹殺する計画を立てる。結婚式が終わった後、ラッザーク将軍はゴールドマンを連れ出す。そのとき、破れかぶれの自爆によるゴールドマン暗殺を計画していた四人は、ゴールドマンが会場を後にするのを見て計画を中断し、ゴールドマンの後を追う。ゴールドマンはラッザーク将軍に殺されそうになるが、そこへ四人が急襲し、ゴールドマンを生け捕りにする。ただ、このときアスラムは自爆して死んでしまう。 ワリー、ルドラ、ゾーヤーの三人は、今度はゴールドマンをインドまで移送する計画を立てる。アシュヴィニーと連絡が取れ、パーキスターン側のスィンド州とインド側のグジャラート州の国境ポスト35で越境の手はずが整う。三人はゴールドマンを連れて国境へ向かうが、ゴールドマンはワリーに家族のことを思い出させ、誘惑する。ナフィーサーがまだ生きていると聞いたワリーは家族を捨て切れず、ルドラやゾーヤーと衝突し、ルドラを撃ち負傷させる。そしてISIと連絡を取り、ナフィーサーとカビールと引き替えにゴールドマンを引き渡す取引を交わす。場所は国境ポスト40に設定した。ワリーはゴールドマンを連れて国境ポストへ向かった…はずだった。実はワリーには最初からゴールドマンを引き渡すつもりはなかった。彼は単身国境ポスト40へ向かい、銃撃を受けながら基地に突進し爆発炎上する。ISI側にも元々ナフィーサーとカビールを引き渡す意図はなく、二人は同じ頃毒殺されていた。 ルドラもワリーの意志を汲み取っていた。ルドラとゾーヤーは後に残されたゴールドマンを連れて国境ポスト35に向かう。パーキスターン側のポストからは銃撃を受けるが、二人は警備兵を殺す。国境の向こう側ではアシュヴィニーが待っていた。2人はゴールドマンを連れてインド側に向かう。そこへラザーク将軍も駆け付け、最後の抵抗をするが、ゴールドマンはインド領に連れて行かれてしまった。ゴールドマンを生け捕りにしたものの、このままインドの司法に引き渡しても、結局数年間刑務所に収容された後に処刑されるだけで、何も成果がないことが予想された。そう考えたルドラはその場でゴールドマンを殺す。
完全なフィクションであるが、実際に起こった事件がストーリーに組み込まれており、リアリティが加えられている。ただ、それらを時系列に並べると齟齬が生じるため、やはりフィクションと捉えるべきであろう。例えばダーウード・イブラーヒームの息子の結婚式は2011年9月25日にカラーチーで行われたが、劇中ではその前後に、2013年2月21日に起こったはずのハイダラーバード爆破事件や、2010年4月に発生したはずのアイスランドにおけるエイヤフィヤトラヨークトル噴火が起こり、2012年11月21日に行われたはずのアジュマル・カサーブ処刑が言及される。
前述の通り、近年急にヒンディー語映画はスパイ映画を大量に生産するようになった。この「D-Day」もそのひとつだが、今まで見たヒンディー語スパイ映画の中では最もよくできていた。通常、スパイ映画は1人の有能なスパイが大活躍するが、「D-Day」では4人のエージェントが登場する。その分、1人1人のキャラの密度が薄くなる可能性もあったのだが、全くそんなことがなかった。各登場人物にリアリティーがあるのだ。特にイルファーン・カーン演じるワリーの、任務と家族の間で揺れる心情は素晴らしかったし、アルジュン・ラームパール演じる元軍人ルドラとシュルティ・ハーサン演じる売春婦スライヤー(劇中では名前は出て来ない)の関係も秀逸だった。多くは語られないが、それぞれのキャラにバックストーリーがあり、それがチラリと見せられることで、物語に奥行きができていた。
4人のエージェントの中でもワリーを主人公と見るべきであるし、彼の家族関係はストーリーの肝だった。だが、僕の心に一番強く印象に残ったのはルドラとスライヤーの関係だった。お互いに名前も知らない関係。スライヤーはルドラがインドから来たことに勘付いていたが、それを追及する訳でもない。ルドラは身を潜めるために売春宿に通い、スライヤーは仕事をしていただけだった。しかし、この二人の間には強い結び付きが生まれる。一番好きなシーンは、スライヤーの頬に傷を作った男をルドラが殺しに行く場面だ。近年で最も優れたカッワーリー曲である「Murshid Khele Holi」をBGMに、ルドラはその男を殺す。彼には別に大きな任務があり、そんなことに関わっている余裕は本当はなかったのだが、彼はスライヤーの頼みを聞く。そしてルドラが浴びた返り血をスライヤーが愛おしそうに洗い流す。言葉ではなく映像で力強く二人の関係を描き出していた。素晴らしいシーンだった。
アクションも、通常の娯楽映画の手法ではなく、大部分では徹底的にリアリティーが追求されていた。ミッション・ゴールドマンが失敗してからの展開が特に緊迫感があったのだが、ゴールドマンを生け捕りにしてからは多少緊張が緩んでしまったところがある。最後にゴールドマンを殺してしまうのも乱暴な終わり方だと感じた。それらのマイナス要因はあるが、全体としてはよくできた作品だった。2013年のヒンディー語映画の中でベストに含まれるべき作品だ。
エンディングについてはもう少し詳しく分析した方がいいだろう。ミッション・ゴールドマンにおいて第一目標はゴールドマンの生け捕りであった。殺すだけだったら、最初の結婚式襲撃のときに完遂できただろう。実際、ルドラはゴールドマンを殺すことでミッションを終えようとしていた。しかし、ワリーは生け捕りにこだわった。一度は失敗するものの、二度目の挑戦で生け捕りに成功し、今度はインドまで移送することになった。このときワリーは家族を人質に取られていた。彼はISIと取引する振りをしてゴールドマンをルドラに託し、単身基地に突進する。ルドラはワリーの遺志を継いでゴールドマンをインドまで移送するが、インド領に入ったところで彼を殺してしまう。ゴールドマンが言うには、誰でも金で買うことができ、もしインドの警察にゴールドマンを引き渡しても、彼はこの先何年も生き続け、刑務所からテロ事件を起こすこともできる可能性があった。そもそも、ミッション・ゴールドマンが失敗した時点で、4人のエージェントとアシュヴィニーは政府から見捨てられていたのである。よってルドラは最終的にゴールドマンを殺すことにしたのだった。彼は最後に「今まで何人も殺して来たが、初めていいことをしたと感じた」と呟く。終わり方としてはひとつの選択肢だったかもしれないが、ワリーの気持ちを尊重していないし、スパイ映画としても平凡なフィニッシュになってしまっていた。続編に続いても良かったので、警察に引き渡し、司法の裁きを受けさせる終わり方でまとめて欲しかったと思う。
イルファーン・カーンは既に演技派男優として確立しており、彼の演技は今回も最高だった。特にナフィーサーとの会話には彼の味が存分に発揮されていた。それに加えて、アルジュン・ラームパール、フマー・クライシー、シュルティ・ハーサンの演技も素晴らしかった。この3人にとって「D-Day」は本当にいい成長の場となったことだろう。ピンクの大サングラスを掛け、ダーウード・イブラーヒームのスタイルを真似たリシ・カプールもはまり役だった。
この種の硬派な映画では概して音楽まで手が回らないものだが、なかなかどうして、シャンカル=エヘサーン=ロイによる「D-Day」の曲は名曲ばかりだった。ミカ・スィンが歌う「Duma Dum」、印象的な別れのバラード「Alvida」、ギンギラ系カッワーリー曲「Murshid Khele Holi」、権力に対する怒りが発散されている「Dhuaan」など、全て耳に残ったし、とても気に入った。ちなみに「Alvida」の女声パートはシュルティ・ハーサン自身が歌っている。
映画の大部分はカラーチーを舞台にしているが、ロケはグジャラート州アハマダーバードで行われたと言う。しかし、とてもうまく撮ってあって、まるでカラーチーで本当にロケが行われたかのように感じた。カラーチーのランドマークのひとつであるティーン・タルワール(3本の剣)が映っていたように思えたのだが、もしかしたらカラーチーの実際の映像が少し挿入されているのかもしれない。
「D-Day」は、「Kal Ho Naa Ho」以降、低迷していたニキル・アードヴァーニー監督が今一度才能を発揮した秀作スパイ映画だ。作風はかなり変わったが、「Chandni Chowk to China」の方向に傾くよりはずっといい。