Gangs of Wasseypur Part 2

5.0
Gangs of Wasseypur Part 2
「Gangs of Wasseypur Part 2」

 今回のオシアンス・シネファン映画祭の目玉のひとつは、アヌラーグ・カシヤプ監督の「Gangs of Wasseypur」であった。5時間以上に及ぶこの映画は、カンヌ映画祭の監督週間ではぶっ続けで上映されたのだが、インドでの一般公開では2部に分割されての上映となっている。パート1は既に2012年6月22日に公開されている。。パート2は2012年8月8日に公開予定である。だが、オシアンス・シネファン映画祭では、パート1とパート2を通して上映が行われることになっていた。パート2は今までカンヌ映画祭でしか上映されておらず、これがインドプレミアとなる。アヌラーグ・カシヤプ監督は、自身のデビュー作「Paanch」がオシアンス・シネファン映画祭でのみ上映してもらえた恩もあり、「Gangs of Wasseypur Part 2」のインドプレミアをこの映画祭に捧げた。チケットを手に入れるために多少苦労したが、無事にチケットを入手できた。会場にはアヌラーグ・カシヤプ監督、脚本家ズィーシャーン・カードリー、女優リチャー・チャッダー、リーマー・セーン、フマー・クライシーなどが来場しており、客席にはラジャト・カプール、ヴィナイ・パータク、ランヴィール・シャウリーなど、演技派として知られる俳優たちの姿が見えた。非常にいい雰囲気の中で鑑賞することができた。

監督:アヌラーグ・カシヤプ
制作:アヌラーグ・カシヤプ、スニール・ボーラー
音楽:スネーハー・カンワルカル
歌詞:ヴァルン・グローヴァー
出演:ナワーズッディーン・スィッディーキー、リチャー・チャッダー、リーマー・セーン、ピーユーシュ・ミシュラー、ジャミール・カーン、ティグマーンシュ・ドゥーリヤー、フマー・クライシー、サティヤ・アーナンド、パンカジ・トリパーティー、ヴィピン・シャルマー、ヴィニート・クマール、ラージクマール・ラーオ、ズィーシャーン・カードリー、アヌリター・ジャー
備考:スィーリー・フォート・オーディトリアム1で鑑賞。オシアンス映画祭。

 サルダール・カーンの死後、長男のダーニシュ・カーン(ヴィニート・クマール)は復讐に乗り出した。サルダールを殺した何人かの暗殺者は殺したのだが、ダーニシュはスルターン・クライシー(パンカジ・トリパーティー)に殺されてしまう。次男のファイザル・カーン(ナワーズッディーン・スィッディーキー)はますます大麻中毒になっていたが、母親から一喝され、祖父と父と兄の仇を討つことを誓う。ファイザルはスルターンの部下ファズルーを惨殺し、以後ワーセープルで恐れられるようになる。ファイザルは製鉄工場を建て、鉄の商売を始める。また、インド鉄道から払い下げの車両を買い取り、分解して売却する商売にも進出し、莫大な利益を手にするようになる。しかしファイザルは力尽くで稼ぐしか能がなく、基本的にビジネスの才能がなかった。それを見てファイザルに取り入ったのがシャムシャード(ラージクマール・ラーオ)であった。シャムシャードはファイザルを騙してマージンを稼ぐようになる。しかしそれもすぐにファイザルにばれてしまう。すると一転してシャムシャードはファイザルに反旗を翻し、ファイザルの不正を警察に密告する。ファイザルは逮捕され、刑務所に入れられる。ちょうどダンバードが新しいジャールカンド州の一部になった頃の話である。

 一方、サルダールの三男パーペンディキュラー(アーディティヤ・クマール)はまだ14歳だったが、あまりに好き勝手に振る舞うため、ワーセープルの住民から恐れられていた。四男のタンジェントと共に店を荒らし回っていた。また、サルダールの二番目の妻ドゥルガー(リーマー・セーン)の息子デフィニット(ズィーシャーン・カードリー)も人々から恐れられていた。スルターンはワーセープルの住民たちからパーペンディキュラーの暗殺を頼まれ、実行する。ちょうどパーペンディキュラーが殺された日、ファイザルは逮捕された。このときまでにファイザルはモホスィナー(フマー・クライシー)と結婚しており、刑務所の中から携帯電話でモホスィナーと話し、寂しさを紛らわせていた。

 デフィニットは拳銃を持って、ファイザルを裏切ったシャムシャードの家に復讐に押し入るが、拳銃が弾詰まりを起こし、逃げ出す。逃亡する中でデフィニットは軍人が乗車する列車の車両に迷い込んでしまい、逮捕されてしまう。デフィニットもファイザルが入所する刑務所に入れられる。出所したデフィニットは早速シャムシャードに会いに行き、彼に手榴弾を投げつける。シャムシャードは片足を失う大怪我を負い、病院に入院する。デフィニットがシャムシャードの家を爆破するところを目撃したスルターンは、ファイザルの家に殴り込む。そこで故ダーニシュと結婚した妹シャマー・パルヴィーン(アヌリター・ジャー)と再会する。スルターンは妹が自分の忠告を聞かずにダーニシュと結婚したことに今でも怒っており、彼女を容赦なく殺す。ギャング同士の抗争が続くワーセープルで女性が殺されたのはこれが初めてのことだった。

 時は2004年になっていた。ファイザルが出所することになった。カーン家の宿敵ラーマーディール・スィン(ティグマーンシュ・ドゥーリヤー)にファイザル暗殺を命じられたスルターンは先手を打つために、ファイザルが出所した日の夜に彼の屋敷を襲撃する。この襲撃でファイザルとその家族に被害はなかった。だが、スルターンの手下はナースィル・アハマド(ピーユーシュ・ミシュラー)の息子アスガル(ジャミール・カーン)とファイザルの母親ナグマー(リチャー・チャッダー)を白昼市場の真ん中で殺す。デフィニットと、ファイザルの忠実な部下グッドゥーは、スルターンが隠れ住むバーガルプルまで行ってスルターンを殺す。だが、デフィニットは警察に逮捕され、パトナーの刑務所に送られる。

 州議会選挙が近付いていた。この頃ファイザルの下ではイクラークという男が参謀となっていた。イクラークは過去の因縁からサルダールに恨みを持っており、ラーマ-ディールと密通していた。イクラークはファイザルに、ワーセープルから立候補することを勧めたが、ファイザルはラーマーディールの対抗馬としてダンバードから立候補することを決断した。ラーマーディールはパトナー刑務所に服役中のデフィニットを釈放することを決める。ラーマーディールは以前からファイザルとデフィニットの間に亀裂を生じさせようと画策しており、それを利用する機会がやって来たのだった。ラーマーディールは息子のJPスィン(サティヤ・アーナンド)をデフィニットのところへ送る。ところがJPスィンは父親暗殺をデフィニットと共謀する。

 釈放されファイザルのところへ戻って来たデフィニットは、イクラークがラーマーディールと密通しており、選挙当日にファイザルを殺そうとしていることを明かす。ファイザルはイクラークの誘いにわざと乗り、デフィニットに彼を殺させる。だが、このときグッドゥーが怪我を負ってしまう。

 ファイザルは最後の戦いに出掛ける。その前に妻のモホスィナーから妊娠していることを告げられるが、ファイザルの決意は変わらなかった。デフィニットはラーマーディールに電話をし、ファイザルを殺したと嘘の情報を流す。そのときラーマーディールはシャムシャードを見舞いに病院に来ていた。ファイザル、デフィニット、タンジェント、そして手負いのグッドゥーは大量の銃器を持ち、救急車に乗って病院へ向かう。ラーマーディールは手下に応戦させるが、全員ファイザルらに殺されてしまう。観念したラーマーディールは銃を捨て便器に座り込む。ファイザルは容赦なくラーマーディールに銃弾を浴びせ掛け、3代に渡る復讐を果たす。

 ファイザルがラーマーディールを殺すまでに病院は警察に包囲されていた。タンジェントとグッドゥーは警察との銃撃戦の中で命を落とし、ファイザルとデフィニットは逮捕される。途中、チャーイ休憩があった。デフィニットはチャーイを飲みに車を降りる。だが、デフィニットはすぐに戻って来てファイザルを殺す。デフィニットを待っていたのはJPスィンと母親ドゥルガーであった。ドゥルガーはサルダールに捨てられたことに根強い恨みを抱いており、サルダールの一家を根絶やしにすることを人生の目標としていた。その夢をデフィニットが果たしたのだった。

 だが、ひとつだけ誤算があった。時は2008年。ワーセープルから流れて来たナースィルとモホスィナーは、ムンバイーのスラムで一緒に暮らしていた。モホスィナーはファイザルの子供を産んでいた。サルダールの血はまだ残っていた。

 「酔い」――「Gangs of Wasseypur」を通して観て感じたのはこの一言だ。この映画には「酔い」がある。観客は誰しもが、地方で繰り広げられる血で血を洗う凄惨な復讐劇に呑み込まれ、あたかも自分が映画の中の登場人物に、もしくは歴史の生き証人になったかのような錯覚に陥る。誰もが映画館を出るときはサルダール・カーンとなり、ファイザル・カーンとなり、デフィニット・カーンとなり、肩で風を切って歩き出す。1941年に始まって2008年に終わるこの物語は、見た者の脳裏にこのおよそ70年の時間の流れを「記憶」として擦り込む。フィクションでありながら、まるで本当の歴史を垣間見た気分にさせられる。強力な文学作品のみが持つそのような魔力を、「Gangs of Wasseypur」も明らかに持っていた。ストーリーの力、映像の力、台詞の力、音楽の力、映画を構成するありとあらゆる要素が力を持っており、観客を掴んで離さない。この「酔い」を映画に加えることに成功した若きアヌラーグ・カシヤプ監督は、今やインド映画最高の映画監督の一人に数えられてもおかしくはない。「Gangs of Wasseypur」によってインド映画はまたひとつの転機を迎えたと言える。

 インドにおいてギャングがどのように生まれ発展して行ったのか、「Gangs of Wasseypur」ほど深く分かりやすく描いた作品はないだろう。一方で、炭坑の請負人が労働者組合のまとめ役となり、労働者を搾取し政府を欺きながら暴利を貪って政治家に転身し、大臣となって表と裏の世界に絶大な影響力を持つようになる姿が描かれ、他方で一介の流れ者の家系が、炭坑労働者、ジープ運転手、スクラップ工場、漁業の総元締め、製鉄工場、競売支配などを経て、絶大な権力を持つギャングとなって行く。

 ギャングが持つ武器も時代の変遷と共に発展して行く。当初武器は刃物のみであった。だが、火薬を使った爆弾が導入され、やがて拳銃が一般的になって行く。カッター(国産拳銃)は信頼性が低く、外国から密輸された拳銃が徐々にギャングの手に渡って行く。最終的には自動小銃AK-47が主流となり、ギャングたちは絶大な火力を手にして全面戦争に突入して行く。

 さらに面白いことに、ストーリーの進展と共に登場人物の家に家電製品などが揃って行く。冷蔵庫、掃除機、圧力釜、ポケベル、携帯電話、衛星受信のテレビなど、さりげなく時代を象徴する品物が小道具として登場する。最終的にはインターネットが登場し、ギャングがそれを活用するところが描写される。各時代を象徴する映画もさりげなく登場し、オマージュが捧げられている。

 それでいて、最も重要な人間ドラマは決してお座なりになっていなかった。むしろ人間ドラマが中心の映画であった。ここまで各登場人物を力強く描写した映画は他にそうないだろう。パート1のサルダール・カーンとナグマー・カートゥーン、パート2のファイザル・カーンとデフィニット・カーンは非常に強力なキャラクターであるし、全編を通してラーマ―ディールの存在感は圧倒的だし、語り手となっているナースィルの立場――特にナグマーとの関係――も非常に興味深い。そして単なる復讐劇に留まっていない点がいい。サルダール・カーンは、ラーマ―ディールが父親の仇だと知った後、頭髪をそり落とし、仇を取るまで髪は伸ばさないと誓う。しかしながら彼は銃で撃ってラーマ―ディールを手っ取り早く殺す方法は採らない。ラーマ―ディールの権力と名誉をひとつひとつそぎ落とし、彼が自らもんどり打って命を絶つような方法を模索する。サルダールが殺された後は、次男のファイザルが復讐の後を継ぐ。ファイザルも当初はラーマ―ディールをすぐには殺さない。権力闘争と言う一種のゲームの中でラーマ―ディールを苦しめようとする。この絶妙な勢力均衡は、シャムシャードという部外者の乱入によって崩れ、ラーマ―ディールとファイザルは全面戦争に突入する。パート1では牧歌的に見えたこの闘争も、パート2では激化するのだが、どこか敵同士でありながら男と男の間の無言のルールを守って殺し合いを繰り広げるところが、他のインド製ギャング映画と異なるところであった。そしてより現実味を感じた。

 サルダールとファイザルの復讐劇を「表」とするならば、ドゥルガーとデフィニットの復讐劇は「裏」であり、結末を見るとこの映画全体の核心でもあった。ドゥルガーはサルダールの二番目の妻で、事実上は妾である。サルダールは非常に性欲の強い男で、しかも繁殖能力に優れていた。妻を次から次へと身ごもらせてしまうのだが、妊娠中は性交を断られるため、売春宿に通ったりして性欲を発散させていた。そんな彼が、妻の妊娠中かつ逃亡生活中に見初めたのがドゥルガーであった。サルダールは妻ナグマーや子供をほったらかしにしてドゥルガーとの情事に没頭する。ところがドゥルガーが妊娠すると、サルダールは途端に彼女から離れてしまう。ドゥルガーはサルダールに深い恨みを抱くようになり、自分の子供を「デフィニット(definite)」と名付けた。これは、サルダールを殺すという「明確な(=デフィニット)ミッション」を持って生まれたことを意味している。サルダールの死後は、サルダールの遺産であるワーセープルの支配権を手にすることがドゥルガーとデフィニットの目的となる。そもそもラーマ―ディールがサルダール亡き後ドゥルガーとデフィニットの生活を助けていたのである。成長したデフィニットは、異母兄となるファイザルに協力しながらチャンスをうかがう。結果的に彼はラーマ―ディールの息子JPスィンと結託し、ラーマ―ディールとファイザルの両者を同時に消し去ることに成功する。復讐の応酬が続くこの映画の中で、最終的に復讐に成功したのはデフィニットであった。デフィニットのキャラクターは、「マハーバーラタ」の影のヒーロー、カルナと比較することも可能であろう。

 「Gangs of Wasseypur」は、一見すると暴力映画でありながら、映画の底辺で一貫して投影されているのは因果応報という哲学である。登場人物の誰しもが因果応報から逃れられていない。サルダールがもしドゥルガーという妾を作っていなければ、デフィニットも生まれず、彼の王国が崩れることもなかっただろう。ラーマ―ディールは生き残るためにシャーヒド・カーンやサルダール・カーンなどを殺した。殺さなければ殺されるという状況に身を置かれていたからだ。だが、それもそもそもは労働者を搾取して金を儲けようとした彼自身の身から出た錆びであった。パルヴィーンは兄スルターンを裏切ったためにスルターン自身の手で殺される。パーペンディキュラーはあまりの横暴さに近隣住民から嫌がられ、殺されてしまう。全ての行動が何らかの結果を伴う姿が全編を通して描かれていた。そして最後のムンバイーのシーン、ファイザルの息子が育っていることが示されるシーンで、まだその因果応報の連鎖が終わっていないことが暗示されていた。

 前述の通り、あらゆる要素にパワーがあるのだが、何より強力なのは台詞であった。「サルダール・カーンだ、オレの名前は!皆に伝えておけ!」、「ここはワーセープルだ。鳩も片方の羽根で飛び、もう片方の羽根で自分の尊厳を守っている」、「インド人は映画を見続ける限り、アホのままだ」などなど、この映画からは数々の名言が出て来ている。中でも流行語となっているのが「Kehke Lunga」である。文字通りの意味では「言ってから取る」であるが、意訳するならば「予め忠告してからお前の尊厳を奪ってやる」みたいな意味になる。

 技術的な面でも光るものがある。緊迫感溢れるシーンでカシヤプ監督は長回しを多用していた。その中でも、2004年、スルターンがファイザルの屋敷を襲撃するシーンとファイザルがスルターンの襲撃から逃げるシーンは非常に印象的だ。その一方で、クロスカッティングのテクニックを使って緊迫感を出しているシーンもあった。デフィニットとグッドゥーがスルターンを殺すシーンはその代表例である。ラーム・ゴーパール・ヴァルマー監督は奇をてらったカメラワークが行き過ぎて映画鑑賞の支障となっているが、アヌラーグ・カシヤプ監督は正に適材適所のカメラワークで、各シーンを盛り上げていた。

 5時間以上の映画の中で数百人の登場人物が登場する。その誰もがリアルであり、まるでこの役を演じるために生まれて来たようである。パート1とパート2を通し、演技の面で特に高く評価できるのはマノージ・パージペーイー、ティグマーンシュ・ドゥーリヤー、ナワーズッディーン・スィッディーキー、リチャー・チャッダーなどで、それ以外の俳優も素晴らしい演技をしていた。ここまで各キャラに命を吹き込めたのは、俳優たちの演技力と集中力もあるが、それ以上に監督の指導と情熱によるものだと言える。ちなみにデフィニットを演じたズィーシャーン・カードリーはこの映画の脚本家でもあり、実際にワーセープルの出身である。

 新進気鋭の女性音楽監督スネーハー・カンワルカルの音楽も素晴らしい。「Gangs of Wasseypur」の音楽の特徴は「ギャップ」だと言っていいだろう。悲しいシーンに明るい音楽が流れたり、緊迫感溢れるシーンに間抜けな歌声が重ねられたりする。実際の人生において、楽しいときに楽しい音楽が、悲しいときに悲しい音楽が聞こえて来るとは限らない。むしろ、自分の感情とは全く逆の雰囲気の音楽が聞こえて来る方が多いのではないだろうか。そしてそれがまた複雑な感情を呼び起こす。例えばダーニシュが殺されたシーンでの脳天気な音楽は、家族の悲しい気持ちをより明確に浮き彫りにしていた。音楽の使い方においてもアヌラーグ・カシヤプ監督は非常にユニークかつ明確なビジョンを持った監督だと言える。

 サントラCDはパート1とパート2に分けて販売されている。個人的にはパート1の方に傑作が多いと感じた。サルダールが殺されるシーンで使われる「Jiya Tu」、ファイザルが拳銃の密輸に成功するシーンで流れる「Hunter」、サルダールがドゥルガーを口説くシーンで流れる「O Womaniya」、シャーヒドがワーセープルを追い出されるシーンで流れる「Ik Bagal」、サルダールがラーマ―ディールへの復讐を開始するシーンで流れる「Keh Ke Lunga」など、名曲が揃っている。パート2では民謡的な雰囲気の「Taar Bijli」がとてもいい。テクノ風の「Chhi-Chha Ledar」は、列車で歌を歌って日銭を稼いでいたドゥルガーという12歳の女の子を起用したユニークな作品。「Moora」では英単語をヒンディー語動詞化するという並外れた実験がなされている。

 パート1の批評でも書いたが、「Gangs of Wasseypur」の言語はビハール州の言語ではあるが、映画の舞台となっているジャールカンド州ダンバードの言語ではない。旧ビハール州の西部から中央部で話されるボージプリー方言やマガヒー方言に近い言語である。台詞もナレーションもかなり写実的なしゃべり方をするので、聴き取りは非常に困難だ。今回の上映では英語字幕付きだったので理解の手助けとなった。

 「Gangs of Wasseypur」は間違いなく2010年代のヒンディー語映画の金字塔として記憶されることになる傑作。インドにおいて、「ラーマーヤナ」、「マハーバーラタ」に続く叙事詩が完成したと表現しても過言ではないだろう。これぞインド映画の最先端・最高峰だ。アヌラーグ・カシヤプ監督に最大限の賛辞を送りたい。