Shaitan

3.5
Shaitan
「Shaitan」

 ネパール旅行中に公開された新作ヒンディー語映画で気になっていたのはアヌラーグ・カシヤプ制作、2011年6月10日公開の「Shaitan」であった。サイケデリックな予告編がかなり前から映画館で流されており、旅行から帰った後早速見に行った。「Shaitan」の監督は、マニ・ラトナム監督の「Guru」(2007年)で助監督を務め、今回監督デビューとなるビジョイ・ナーンビヤール。複数の若手俳優出演による作品だが、名前が知られているのはラージーヴ・カンデールワールとカルキ・ケクランであろう。ちなみに「Dev. D」(2009年)で一躍名を知られることになったフランス系インド人カルキはアヌラーグ・カシヤプと今年結婚したばかりである。

監督:ビジョイ・ナーンビヤール
制作:アヌラーグ・カシヤプ、スニール・ボーラー、グニート・モーンガー、ミラージ・シェーク
音楽:プラシャーント・ピッライ、ランジート・バーロート、アマル・モーヒレー、バヤーナク・マウト、ミッキー・マックリー、アヌパム・ロイ
歌詞:サンジーヴ・シャルマー
出演:ラージーヴ・カンデールワール、カルキ・ケクラン、シヴ・パンディト、ニール・ボーパーラン、グルシャン・デーヴァイヤー、キールティ・クルカルニー、ラジト・カプール、パワン・マロートラー、ルクサール、ラージクマール・ラーオなど
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサントクンジで鑑賞。

 ロサンゼルスからムンバイーへ移住して来た大学生アムリター・ジャイシャンカル、通称エミー(カルキ・ケクラン)は、幼い頃に母親を失ったトラウマから精神に異常を抱えていた。父親(ラジト・カプール)と継母はそんな彼女を精一杯支えたが、エミーは亡き母親を常に追いかけていた。

 あるときエミーは酒とドラッグに溺れる刹那的な毎日を送る若者グループと知り合い、仲間になる。カラン・チャウダリー、通称KC(グルシャン・デーヴァイヤー)、ドゥシュヤント・サーフー、通称ダッシュ(シヴ・パンディト)、ズビーン・シュロフ(ニール・ボーパーラン)、そしてターニヤー・シャルマー(キールティ・クルカルニー)であった。あるとき深夜に五人がハマーに乗ってムンバイーの市街地を暴走していたところ、不注意からスクーターをはねてしまい、乗っていた二人を轢いてしまう。目撃者がいないことをいいことに語人は逃亡する。ところが、この轢き逃げ事件を捜査していた警官マールワンカル(ラージクマール・ラーオ)は聞き込み調査によって轢き逃げした車を割り出し、五人に目を付ける。そして事件のもみ消しのために250万ルピーの賄賂を要求する。

 急いで250万ルピーもの大金を用意しなくてはならなくなった五人は、ダッシュのアイデアの下、エミーを使って狂言誘拐をし、エミーの父親から250万ルピーの身代金を手に入れる計画を立てる。エミーは平常通りに大学に登校し、そこから遠く離れてタクシーを拾って四人と合流。その後エミーの父親に電話をし、身代金を要求した。NRI(在外インド人)の娘の誘拐事件とあって警視総監(パワン・マロートラー)も本気で捜査に乗り出した。

 この誘拐事件の捜査を任せられたのが、停職中の警察官アルヴィンド・マートゥル(ラージーヴ・カンデールワール)であった。血気盛んなアルヴィンドは浮気をした大物政治家を上階から突き落とし、停職処分となっていた。また、アルヴィンドは妻と離婚の危機にありプライベートが安定していなかった。アルヴィンドはエミー誘拐事件の捜査を始める。当初は水面下での捜査であったが、警察内の密告者がマスコミにタレコミし、大々的に報道され、しかもSNSによってこのニュースが人々の間に広まって、エミー誘拐事件は一大事件となってしまった。そしていつの間にかエミーだけでなく、KC、ダッシュ、ズビーン、ターニヤーも誘拐されたことになってしまった。

 五人はブルカーをかぶってイスラーム教徒居住区の小さな部屋に身を隠した。ところが、近所の男からターニヤーがレイプされそうになり、KCはその男を殺してしまう。五人はその場から逃走し、とりえあず映画館に逃げ込む。しかしターニヤーを巡る恋愛感情のもつれからズビーンがターニヤーと共に脱走しようとする。しかしターニヤーは警察に密告しようとしたと疑われ、KCに瀕死の重傷を負わせられる。KC、ダッシュ、エミーは今度は教会に逃げ込む。一方、ズビーンは単独で逃げ出し、警察の保護下に置かれる。ターニヤーも病院に搬送され一命を取り留める。ズビーンの証言からマールワンカルが賄賂を要求しようとしたことが発覚する。それを知ったマールワンカルは逃亡するが、アルヴィンドに追跡され、逃走の末にトラックに轢かれて重傷を負ってしまう。

 ダッシュはエミーの父親から250万ルピーを回収しようとするが、警察が見張っていることを感知して受け取れずにいた。また、エミーはドラッグの禁断症状が出ており、次第に精神に異常をきたし始めていた。三人の間で口論が起き、ダッシュはKCを殺してしまう。そしてダッシュはエミーをも窒息させて殺そうとするが、エミーはガラスの破片でダッシュに反撃し殺してしまう。その瞬間、エミーは実の母親が自分と心中しようとした記憶を思い出す。

 そのときアルヴィンドが教会に駆けつけ、エミーを救い出す。警視総監は警察の威信を守るため、今回の事件を以下のようにまとめることにした――誘拐犯は死んだKCとダッシュで、ズビーン、ターニヤー、エミーは誘拐された。警察の急襲によってKCとダッシュは射殺されたが、急襲チームの1人マールワンカルが負傷した――アルヴィンドもそれを受け容れざるを得なかった。また、アルヴィンドは妻とよりを戻し、エミーは精神病院に入院して実の母親の名前を名乗り始める。

 まるで1960年代~70年代の米国ドラッグカルチャーを後追いするように、最近のヒンディー語映画界では、ドラッグに溺れる若者を主人公にした映画が続いている。「Shaitan」は、「Dev. D」、「Dum Maaro Dum」(2011年)などに続くドラッグ映画だと言える。サイケデリックな映像効果を多用し、陶酔感を表現していた。それに加えて、亡き母親への憧憬から精神に異常をきたしているエミーがいて、時々そのトラウマが映像化されるため、さらに理性が不安定化になって行く。序盤では、そんな自堕落な若者たちの刹那的かつ破壊的な毎日が簡単に紹介される。ここまではダーティーな青春映画のノリだが、最後までそういうドンチャン騒ぎを見せる作品ではない。

 作品は、深夜に轢き逃げしてしまい、そのもみ消しのために警察から250万ルピーの賄賂を要求されたことで、映画は急にスリラーの方向へと急転換する。解決策として主人公五人が選んだのは狂言誘拐。しかし軽い気持ちで実行に移したこの計画は、身代金が得られなかったばかりか、世間を騒がす大ニュースにまで発展してしまう。にっちもさっちも行かなくなったことで鉄の結束を誇っていた5人の人間関係にも亀裂が入り、最終的には空中分解してしまう。ところが、「Shaitan」は狂言誘拐の始終をなぞる映画でもない。

 「Shaitan」はプロデューサーのアヌラーグ・カシヤプがいくつかの自作品で行って来たのと同様に、ヒンディー語映画の常識に挑戦した映画である。歌と踊りがない、ハッピーエンディングではない、などと言った表層的な既存概念破壊ではなく、もっと深いところにある、インド映画の精神性みたいな部分を覆す冒険である。例えばエミーと両親(実母と継母を含む)との関係。インドやインド映画の常識では、継母が夫の連れ子に優しいことはなく、再婚後の父親も娘に以前のような愛情を注がなくなる。だが、「Shaitan」ではそのようなことはなかった。エミー自身が継母を受け容れず、父親の自分に対する愛情も疑い出しただけで、実際には精神異常者だった母親が娘と心中しようとし、彼女を救ったのが父親であった。エミーは亡き実母をあまりに美化しすぎており、その死に対して深い心の傷を負っていたのだが、終盤、実母にされたのと同じような方法で殺されそうになったとき、初めてその記憶が呼び起こされる。そしてエミーの身の上に起こったこの事実は観客に大きなショックを与えることになる。また、父親はエミーを愛するあまり、その事実を彼女に伝えることが出来なかったのであろうことも劇中では特に触れられていないが、容易に予想されることである。インド映画が伝統的に主張し続けて来ているのが家族の大切さであるが、「Shaitan」のような歪んだ形で家族愛を示したのは過去にあまり例がない。

 友情もインド映画の重要な要素だ。家族の次には必ず友情の大切が来る。しかし「Shaitan」では友情の崩壊が描かれる。相互信頼を唯一のルールにして結束して来たKC、ダッシュ、ズビーン、ターニヤー、エミーは、一連の事件を経てお互いへの信頼を失って行き、最終的には脱走、暴行、そして殺傷に至る。こうなっては友情の回復は不可能で、どう贔屓目に見ても「Shaitan」は友情をテーマにした映画にはならない。「Dil Chahta Hai」(2001年)や「Rang De Basanti」(2006年)のような過去の青春グラフィティー映画とは全く異なった作品である。

 この映画には善と悪の葛藤もない。「勧善懲悪のストーリー」はインド映画を形容する際に必ず使われる言葉だが、この映画では少なくとも善の勝利はない。もっとも正義感の強いキャラクターは熱血警察官アルヴィンドだが、彼も警察というシステムの論理に屈し、一連の狂言誘拐事件を警察の都合のいいように作り替えて世間に発表する警視総監の処世術的な方法論に従うことになる。

 何より「Shaitan」には感情がない。誰がどんな感情を抱いているか、全く不透明なのである。感情の描写こそがインド映画の真髄であるが、「Shaitan」からは全くその要素が抜け落ちており、ただ単にそこには友情の崩壊、善の崩壊、人格の崩壊があるのみだ。題名を「Shaitan(悪魔)」にしたのはとても正しい選択で、正に人間が悪魔になって行く過程を追った作品だと言える。

 ビジョイ・ナーンビヤール監督は本作がデビュー作になるが、カメラワークや編集など、現代の若者にアピールする斬新さがあり、玄人レベルであった。もしかしたらアヌラーグ・カシヤプの助力がかなりあったのかもしれないが、今後にも期待したい。俳優たちの演技も概して素晴らしかった。カルキ・ケクランは最高の演技であったし、ラージーヴ・カンデールワールも迫力があった。2人に比べるとほぼ無名ながら、主人公格のグルシャン・デーヴァイヤー、シヴ・パンディト、ニール・ボーパーラン、キールティ・クルカルニーらの演技も良かった。

 歌と踊りが入った典型的なインド映画ではなかったが、音楽も映画の雰囲気によく合っていた。特にテーマソングの「Bali – Sound of Shaitan」は素晴らしい。

 「Shaitan」はドラッグ、暴力、狂気に満ちた映画で、一般向けではないが、プロデューサーのアヌラーグ・カシヤプらしさがよく出た斬新な作品である。インド映画と言うよりヨーロッパかどこかの映画を観ているかのようだ。予想とは裏腹に、意外にも目を背けたくなるような不快なシーンは少ないが、精神には重く響くものがある。ヒンディー語映画の最先端を確かめたかったら是非という映画だ。