Satluj

4.0
Satluj
「Satluj」

 「Satluj」は、2023年9月11日にトロント国際映画祭でプレミア上映される予定だったが土壇場でキャンセルされた「Punjab ’95」が改題された作品だ。その前にはカンヌ映画祭でもプライベート上映されたようだが、非公式扱いになっている。インドで劇場一般公開されることはなく、2026年7月3日からZee5にてOTTリリースされた。「Satluj」とはパンジャーブ地方を流れる5本の大河の内のひとつサトルジ河のことである。映画の主な舞台のひとつは、アムリトサルとサトルジ河に挟まれたタルン・ターラン県であるため、このような題名になったものと思われる。

 「Satluj」が主題にしているのは、1995年のジャスワント・スィン・カールラー誘拐事件である。ジャスワントは銀行員から人権活動家に転向した人物で、パンジャーブ州で多くの人々が行方不明になっている事実を知って問題意識を持ち、州政府に対して声を上げた。

 パンジャーブ州では1980年以来、カーリスターン運動という分離独立運動が武力闘争化し、治安が極度に悪化していた。カーリスターン運動の指導者ジャルナイル・スィン・ビンドラーンワーレーは武装蜂起してアムリトサルの黄金寺院に立て籠もったが、1984年のブルースター作戦によって軍事的に鎮圧された。その後、残党の一掃による治安の回復を目的としてパンジャーブ州警察には強権が与えられ、今度は警察が横暴を働くようになった。射殺したテロリストの数で昇進が決まったため、やがて警察は大した証拠もないのに一般市民をテロリスト扱いして射殺し、行方不明者扱いして放置するようになっていた。そんな状況が約10年続いていたのである。ジャスワントは、警察による偽のエンカウンターによって殺された人々の数は州全体で25,000人に上ると推算し、正義を求めて訴訟を起こしたのである。

 ジャスワントはカナダまで行ってパンジャーブ州政府による人権侵害を訴え、国際的な人権問題にまで発展したが、彼は1995年9月6日にアムリトサルの自宅から警察によって拉致され、その後行方不明になった。その後の調べで、彼は数ヶ月間、タルン・ターラン県の各所を転々と移動させられ拷問を受けた後、どこかの時点で殺されたという。彼の遺体は見つかっていない。

 ちなみに、ジャスワント・スィン・カールラー誘拐事件が起こった時代のパンジャーブ州政府はインド国民会議派(INC)の政権だった。よって、「Satluj」はモーディー政権時代に急増したアンチINC映画のひとつだといえるかもしれない。だが、インド人民党(BJP)の影響下にあるはずの中央映画認証局(CBFC)はこの映画を問題視し、認可の条件として、具体的な人名や地名の削除など、127件ものカットを要求したという。これには、INCへの攻撃よりも、カーリスターン運動の再燃や国家体制に立ち向かった人物の英雄視を恐れるBJPの思惑を読み取るべきだろう。また、この映画で批判の的になっている警視総監のモデル、カンワルパール・スィン・ギルは、ナレーンドラ・モーディー首相がグジャラート州首相だった時代に顧問に採用されている他、映画中に登場するベーアント・スィン州首相の孫ラヴニート・スィン・ビットゥーはBJPの政治家である。このようなつながりも無視できない。結局、プロデューサーのロニー・スクリューワーラーはオリジナルの形で国民に届けるため、劇場一般公開を諦めOTTリリースすることを決めた。

 監督はハニー・トレーハーン。キャスティング・ディレクターとしてヒンディー語映画業界で活躍してきた人物であり、これまで「Hindi Medium」(2017年/邦題:ヒンディー・ミディアム)や「Manikarnika: The Queen of Jhansi」(2019年/邦題:マニカルニカ ジャンシーの女王)などのキャスティングを担当してきた。過去には助監督などもしたことがあったが、監督作は本作が初だ。彼は、ロニー・スクリューワーラーとアビシェーク・チャウベーと共にプロデューサーも務めている。トレーハーン監督の祖地は、ジャスワントと同じタルン・ターラン県であり、若いときからジャスワントを英雄視していたのが、彼の伝記映画を作る動機になったという。

 キャストは、ディルジート・ドーサーンジ、アルジュン・ラームパール、ギーティカー・ヴィディヤー・オホリヤーン、カンワルジート・スィン、スヴィンダル・ヴィッキー、サウラブ・サチデーヴァ、ナーサルなどである。

 1995年、パンジャーブ州。タルン・ターラン県出身、アムリトサル在住の銀行員ジャスワント・スィン(ディルジート・ドーサーンジ)は、親友キルパーン・スィン・バンノーワールがテロリスト扱いされて射殺され、その母親グルページ・カウルが行方不明になったことを受けて、グルページの行方を探していた。結局、グルページの名前が火葬場の帳簿に掲載されていたことで彼女が既に死んでいることが分かるが、その過程で、パンジャーブ州では多くの人々が同じように行方不明扱いのまま殺されていることを知り、その遺族を組織して州政府に対して訴訟を起こす。この問題はデリーにまで届く。

 中央から指令を受けたアナント・スィン州首相はインダルパール・スィン・ビッター警視総監(カンワルジート・スィン)に対し問題の沈静化を命令する。ビッター警視総監は、数多くのエンカウンターを実施し現在は服役中だったスルジート・スィン・スッガー(スヴィンダル・ヴィッキー)を釈放してタルン・ターラン県の警視に任命する。ジャスワントは脅しに屈せず訴訟を継続する。

 スッガー警視は警察内にジャスワントの内通者がいると直感し、ジャスワントの友人サトナーム・スィン(サウラブ・サチデーヴァ)とその家族を殺害する。サトナームの兄弟ディルバーグ・スィンは警察官だったが家族を皆殺しにされたことを恨み、自爆してアナント・スィン州首相を暗殺する。グルチャラン・スィン・ボーラーが後任の州首相になる。

 1995年9月6日、ジャスワントが自宅から誘拐される。妻のパラムジート・カウル(ギーティカー・ヴィディヤー・オホリヤーン)によって捜索願が出され、警察は形ばかりの捜索を行うがジャスワントの行方は分からなかった。失態を責められたビッター警視総監は定年退職し、新たにSPヴァルマー(ナーサル)が警視総監に就任する。また、ジャスワントの事件は中央捜査局(CBI)に委ねられ、サムドラ・スィン(アルジュン・ラームパール)が担当者としてパンジャーブ州入りする。

 サムドラは3人の証人を用意して裁判に臨むが、1人が殺され、2人は行方不明となって、裁判続行が困難になる。ただ、裁判長はスッガー警視をはじめ、関与の疑いのある警察官を停職とするなど、前進もあった。事件の鍵を握るスッガー警視が自殺してしまうというトラブルもあったが、サムドラはスッガー警視の下働きをしていた見習い警察官クルジート・スィンが情報を持っていることに気付き、彼を証人に立てる。ただ、クルジートは脅しを受けており、法廷で突然証言を翻す。それでも、クルジートは罪悪感にさいなまれ、サムドラに対し真実を述べる約束する。再度証人台に立ったクルジートは、何があったのかを詳細に語る。やはり、ビッター警視総監の命令によってジャスワントは誘拐されており、各地を転々とした後、スッガー警視に殺されていた。

 ジャンムー&カシュミール州、アッサム州、ナガランド州、マニプル州など、分離独立などを求めた武力闘争が常態化している地域に適用された武装部隊特別権限法(AFSPA)は、治安部隊に令状なしの強制捜査・破壊・逮捕権や警告後の発砲・殺傷権などの強権を付与する悪名高い法律で、しばしば人権団体などから人権侵害の告発を受けている。ヒンディー語映画界でも、特にジャンムー&カシュミール州の問題については今まで少なからず触れられてきた。だが、パンジャーブ州の似たような問題に切り込んだのはこの「Satluj」が初めてかもしれない。

 昔の「地球の歩き方」などを読むと分かるが、ジャンムー&カシュミール州が騒乱状態となる前は、パンジャーブ州の方が危ないとされ、入域を警告されていた。その影響でパンジャーブ州の観光情報は今でもあまり多くない。

 1984年のブルースター作戦は「内戦」と表現してもおかしくない大事件だったが、この思い切った軍事作戦によって武装勢力は鎮圧された。だが、それ以降もパンジャーブ州では残党が暗躍しており、州政府はその鎮圧のために警察に強力な権限を与えた。それが1985年施行のテロ破壊活動防止法(TADA)である。この法律は警察に令状なしの勾留、拷問による自白、不逮捕特権などの超法規的権限を与えている。パンジャーブ州警察はテロリスト一掃のためにエンカウンターを始めたが、罪のない一般市民まで勝手にテロリスト扱いされて殺され、秘密火葬が行われるようになり、州内では行方不明者が急増した。この不正を看過できず、内部告発しようとする正義感ある警察官もいたが、やはり同じ目に遭い、告発は封殺された。恐怖により誰も口を開けなくなっていた中、この一連の事件の直接の被害者や遺族ではなかったジャスワント・スィン・カールラーは、「暗闇の中の灯火」になるべく、警察に家族を殺された遺族たちを組織して政府に対して声を上げ、訴訟を起こした。ジャスワントも警察に誘拐され殺されるが、彼の勇気ある行動は人々を奮い立たせ、彼の妻パラムジート・カウルも遺志を継いで抗議活動を継続している。「Satluj」は、ジャスワントの名前を「殉死者」として永遠に残すために企画された映画だといえる。

 前半はディルジート・ドーサーンジ演じるジャスワントがメインとなる。彼は銀行員であったが、友人の母親が行方不明になったことをきっかけにこの問題に関心を持ち、調査をする中で驚くほど多くの人々が行方不明になっていることを知って人権活動家に転向する。とはいっても、彼は映画の中で人並み外れた力を持ったスーパーヒーロー扱いされているわけではなく、あくまで何の変哲もない一般市民が良心に従って行動を起こし、強大な権力者による脅しにも屈せずに突き進んでいったことで、社会に変革をもたらす原動力になったことが非常に地に足の着いた絶妙な演技や演出と共に描かれている。

 そのジャスワントは中盤で誘拐され表舞台から消える。ジャスワントと入れ替わりで物語の主体となるのがCBIのサムドラである。アルジュン・ラームパールが演じている。サムドラはジャスワントを捜索する中で警察の不正に気付き、裁判で証言できる証人を集める。パンジャーブ州政府や警察はありとあらゆる手段でサムドラの捜査を妨害しようとするが、最終的にはジャスワントの誘拐や殺害を目撃した見習い警察官クルジートを証人として用意することができ、警察の不正を暴くことに成功する。

 ただし、最後のキャプションで明かされたところでは、クルジートは高等裁判所で証言する前に殺されてしまい、実行犯の警察官の逮捕は実現したものの、ビッター元警視総監などの黒幕は全く罪を問われることがなかったという。現実世界においても、ジャスワントの誘拐や殺害を行った警察官たちは有罪になり終身刑を言い渡されたが、彼らに命令をしたはずのカンワルパール・スィン・ギル警視総監は裁かれもしなかった。彼は、パンジャーブ州の騒乱を鎮圧した功績により、正史の中ではむしろ英雄視されている。

 なぜかこの映画では触れられていなかったが、ジャスワントの行動はTADA法の廃止にもつながった。TADA法は国内外で人権侵害の元凶として猛烈な批判を浴び、1995年5月に失効した。TADA法の問題点を国際舞台の場で訴えた功績はジャスワントにあり、この点で彼は大きな功績を残したといえる。ただし、彼自身の犠牲を伴うものだった。

 映画の中ではパンジャーブ州の州首相が自爆テロによって暗殺される。これも実際の出来事である。1995年8月31日、チャンディーガルのキャピトル・コンプレックスにて、ベーアント・スィン州首相が自爆テロによって暗殺された。実行犯はパンジャーブ州警察の警察官で、カーリスターン運動を推進するテロ組織バッバル・カールサーの一員だったとされる。

 ディルジート・ドーサーンジ、アルジュン・ラームパール、スヴィンダル・ヴィッキー、サウラブ・サチデーヴァなど、渋い立ち位置にいる俳優たちがシリアスな演技を見せていた。特にサウラブは、「Animal」(2023年/邦題:ANIMAL)のような鬼気迫る演技に定評があるが、今回彼が演じた小心者の警察官役もはまっており、幅の広い個性派俳優であることが分かる。

 一応ヒンディー語映画扱いだが、パンジャーブ州を舞台にしているだけあって、パンジャービー語の使用率は高い。ヒンディー語とパンジャービー語のバイリンガル映画としてしまってもいいだろう。

 「Satluj」は、1980年代から90年代のパンジャーブ州において超法規的強権を乱用する警察によって起こっていた人権侵害や不法な殺害を取り上げた社会派の作品である。被害者の遺族を組織して州政府を提訴したジャスワント・スィンと、行方不明になった彼の捜索を担ったCBIのサムドラ・スィンの2人を主体として、この時代の闇がセンセーショナルに暴かれる。この問題は今でも完全には解決していないことも念頭に置くべきである。OTTリリース作品ながら、主題がセンシティブであるがために劇場一般公開できなかっただけなので、決して出来の悪い映画ではない。むしろ、ほとんど忘れ去られていた問題に光を当ててくれる有意義な作品だ。