2005年に「Mangal Pandey: The Rising」というヒンディー語映画が作られた。第1次インド独立戦争1 の火付け役になったとされているスィパーヒー(兵士)、マンガル・パーンデーイを主人公にした映画で、ケータン・メヘター監督、アーミル・カーン主演であった。確かこのとき、この映画は3部作の第1作で、この後、ラクシュミー・バーイーとバハードゥル・シャー・ザファルを主人公にした第1次インド独立戦争関連の映画が2作、計画されていると聞いていた。だが、どこかで頓挫してしまったようで、その後音沙汰はなかった。
2019年1月25日、インドの共和国記念日の週に封切られたヒンディー語映画「Manikarnika: The Queen of Jhansi」は、第1次インド独立戦争に参加したジャーンスィーの女王ラクシュミー・バーイーを主人公にしており、カンガナー・ラーナーウトが監督・主演をしている。劇中にマンガル・パーンデーイやバハードゥル・シャー・ザファルの言及があるものの、ケータン・メヘター監督の「Mangal Pandey」とは特に関係はないようである。2 この映画は「マニカルニカ ジャーンシーの女王」の邦題と共に日本でも2020年1月3日に公開された。ミッドタウンスクエアシネマで鑑賞した。
ジャーンスィーの女王ラクシュミー・バーイーと言えば、インドでは知らぬ者のいない独立の志士であり、女傑である。教科書レベル、街角の銅像レベルの有名人なので、彼女の生涯もよく知られている。よって、インド人観客が鑑賞する際、彼女についての細かい情報を必要としない。だが、日本人観客がこの映画を鑑賞する際は、少し情報を補う必要もあるだろう。また、インド映画ならではではあるのだが、インド特有の文化や歴史用語についても多少の知識がないと、付いて行けない場面もあった。それらを踏まえて、ここで解説をしたい。
まず、ラクシュミー・バーイーの生涯について詳しく解説する。彼女の民族的な血筋はマラーター3 であるが、生まれは現ウッタル・プラデーシュ州のヴァーラーナスィーであり、カースト的な血筋はブラーフマン階級となる。
ラクシュミー・バーイーが生まれた1828年には、英国東インド会社とマラーター同盟4 との間に3度に渡って繰り広げられたマラーター戦争が既に終結しており、第3次マラーター戦争(1817-18年)を戦って降伏したペーシュワー5 、バージー・ラーオ2世6 もカーンプル近くのビトゥールで英国保護下の年金生活を送っていた。ラクシュミー・バーイーの幼名はマニカルニカーで、父親はバージー・ラーオ2世に仕えていた。幼少の頃から武術を習い、後に独立の志士となるターティヤー・トーペーやナーナー・サーヒブとも幼馴染みであった。
1842年、ラクシュミー・バーイーが16歳の頃に、彼女はマラーター諸侯の一人である、ジャーンスィー藩王国の王ガンガーダル・ラーオ・ネーワールカルに嫁いだ。二人の間には一人の息子が生まれるが、生後4ヶ月で死去し、従兄弟の子を養子に迎えてダモーダル・ラーオと名付け、後継者として擁立した。これはガンガーダルが死ぬ1日前に行われた。
なぜここまで後継者の擁立を急いだかというと、当時、英国東インド会社の保護下にあった藩王国は、会社から、失権の原理(Doctrine of Lapse)を一方的に適用されていた。これは、後継者の途絶えた藩王国は東インド会社に併合されるという原則であった。従兄弟の子を養子に迎えたジャーンスィー藩王国の跡継ぎ対策は認められず、1853年、ジャーンスィー藩王国は東インド会社に併合され、ラクシュミー・バーイーはジャーンスィー城を追われて年金生活者となった。
ところが1857年、インド全土で反英の狼煙が上がり、第1次インド独立戦争が勃発した。ジャーンスィーにも反乱を起こしたスィパーヒーたちの軍勢が押し寄せ、ジャーンスィー城を占拠した。このとき、ジャーンスィーにいた英国人たちが妻子共々虐殺された。武器や財宝を奪ったスィパーヒーたちはジャーンスィーを去って行き、ラクシュミー・バーイーは空白地帯となったジャーンスィーを英国東インド会社に代わって管理することになった。ジャーンスィー城に戻ったラクシュミー・バーイーは次第に立場を変え、英国からの独立を考えるようになる。1858年3月、東インド会社のヒュー・ローズがジャーンスィーに到着したときには、ジャーンスィー城は完全武装し彼らと対峙した。
戦いが開始され、ラクシュミー・バーイーは数日持ちこたえたが、やがて城壁を破られて敵の侵入を許し、ジャーンスィー城から逃げ出した。このとき、息子のダモーダルを背中に背負い、馬に乗って城から飛び降りたと言い伝えられている。
ラクシュミー・バーイーはカールピーでターティヤー・トーペーらと合流し、追撃してきた東インド会社軍と戦った後、再び敗走し、グワーリヤル方面に落ち延びた。グワーリヤル藩王国のジャヤージーラーオ・スィンディヤーは親英派であり、彼らを迎え撃ったが、自軍からラクシュミー・バーイーへのシンパが大量に現れ、敗北した。スィンディヤーはアーグラーに逃げ、ラクシュミー・バーイーらはグワーリヤル城に入城する。ターティヤー・トーペーはペーシュワーに就任し、マラーター同盟を復活させる。ところが、彼らに同調するマラーター諸侯はほとんどいなかった。やがてグワーリヤルにもヒュー・ローズの軍勢が押し寄せ、ラクシュミー・バーイーは自ら陣頭で剣を振るって奮闘するが、やがて力尽き、戦死した。一説によると、敵の手に落ちるのを避けるため、自らに火を放って死んだという。
「Manikarnika」は、ラクシュミー・バーイーの生涯を映画的に脚色しながら、娯楽として成立させた映画だ。まずはやはり、2010年代のヒンディー語映画の特徴でもあるが、女性が中心に据えられていることが特筆すべきである。インドが誇る女傑であるラクシュミー・バーイーを、ヒンディー語映画界の中で気高く生きる女優カンガナー・ラーナーウトが見事に演じ切っている。しかも彼女が監督まで務めている。元々、テルグ語映画監督であるクリシュが監督だったが、途中で降板し、カンガナーが引き継いだ。このとき、サダーシヴ・ラーオ役だったソーヌー・スードも後を追うように降板し、ムハンマド・ズィーシャーン・アーユーブにバトンタッチした。このようなトラブルがあったものの、結果的に「Manikarnika」、女性の英雄の映画を女性の監督が自ら主演しながら作った映画となり、2010年代を締めくくるにふさわしい。
ジャーンスィーに嫁いだラクシュミー・バーイーは、「女性」として、宮中や台所に生活範囲を限定されようとするが、彼女は頑としてそれをはねのけ、ジャーンスィーに新しい風を吹き込む。時代劇ではあるが、それは確実に現代の女性に向けて発せられたメッセージであり、伝統や風習にとらわれず、自分の可能性を最大限に発揮する生き方が声高らかに宣言されていた。
女性という観点でもうひとつ付け加えるならば、ラクシュミー・バーイーのみならず、彼女の侍女や一般庶民までもが戦いに参加し、戦っている場面が描かれていたことだ。単に一人の英雄に焦点を当てた映画ではなく、女性全般に焦点が当てられていた。さらに、ラクシュミー・バーイーは夫を亡くした寡婦である。インドでは寡婦の立場は非常に弱く、華美な服装や装飾を許されていなかったり、不吉な存在として家庭の中で爪弾き者扱いされたりする。ラクシュミー・バーイーは、自らその悪習に従わなかっただけではなく、領土の若い寡婦にも尊厳を持って生きることを教える。
また、わざわざ共和国記念日の週に公開されたことからも分かる通り、この映画は愛国主義的高揚感に満ちている。史実ではラクシュミー・バーイーは必ずしも生涯ずっと反英であった訳ではないが、愛国主義映画的な味付けをするために、彼女と英国人との確執がかなり早い段階から描写されており、彼女の全ての行動は英国を母なるインドから排除するため、ということになっていた。一方で、英国人は徹頭徹尾、狡猾な悪役として描かれており、観客にインド人側への同情をかき立てていた。
映画の完成度は完璧といえるものではなかった。ストーリーをラクシュミー・バーイーに集中する余り、周辺のキャラに深みがなく、進行にも丁寧さがない。ガンガーダル・ラーオとラクシュミー・バーイーの結婚もすんなり決まっており、二人の間の感情は唐突かつ説得力に欠けた。ダンスシーンも無理に挿入されている印象は拭えず、戦争シーンにも緊迫感が薄かった。
この映画が成立しているのは、ひとえにカンガナー・ラーナーウトの獅子奮迅の演技にある。特に戦闘シーンは鬼気迫るものがあった。それだけでなく、クリシュから監督を引き継ぎ、編集まで手がけたカンガナーの執念が映画全体から感じられ、スクリーンに釘付けになった。
正直言って、日本の観客の心にどこまで響いたか疑問であるが、インドに住み、インドの歴史をある程度把握し、そしてずっとヒンディー語映画を見続けてきた者にとっては、観て損はなかった映画と感じた。
脚注
- かつて「セポイの反乱」と呼ばれていた1857年の騒乱。
- ただし、ケータン・メヘター監督が脚本を盗用したとして「Manikarnika」の制作陣を訴えている
- マハーラーシュトラ州を中心に分布する戦士集団。
- マラーター王国とマラーター諸侯による同盟で、18世紀にはインド中部から北部にかけて広大な地域を支配していた。
- マラーター同盟の盟主は「宰相」を意味するこの言葉で呼ばれ、代々ブラーフマン階級であった。
- ヒンディー語映画「Bajirao Mastani」(2015年)の主人公バージー・ラーオは別人。