
イムティヤーズ・アリー監督は「Socha Na Tha」(2005年)でのデビュー以来、「Jab We Met」(2007年)、「Love Aaj Kal」(2009年)、「Rockstar」(2011年)などの名作を送り出し続け、ヒンディー語のロマンス映画を再定義してきた「ロマンス映画の帝王」だ。ただ、最近はヒット作に恵まれておらず、挽回が期待されていた。2026年6月12日公開の最新作「Main Vaapas Aaunga(僕は必ず帰る)」は、パーティション期の恋愛を題材にした壮大なラブストーリーであり、円熟期に差し掛かったアリー監督らしい野心作になっている。
音楽監督は「Rockstar」で組んだことのあるARレヘマーン。主演は「Amar Singh Chamkila」(2024年)でも起用したディルジート・ドーサーンジ。ヒロインは「Bunty Aur Babli 2」(2021年)や「Munjya」(2024年)に出演の成長株シャールヴァリー。他に、ナスィールッディーン・シャー、ヴェーダーング・ライナー、バニーター・サンドゥー、クムド・ミシュラー、ラジャト・カプール、ヴィノード・ナーグパール、アンジャーナー・スカーニー、ニカト・カーン、カシュミーラー・イーラーニー、サーヒル・メヘター、シュルティ・ソーディー、ジャイプリート・スィン、マニーシュ・チャウダリー、サンジャイ・スーリー、ドリー・アフルワーリヤー、ダーニシュ・パンドール、アーリヤー・カーン、ブッター・バドバルなどが出演している。
物語の構成は「Love Aaj Kal」に似ていて、現世代の若者のインスタントな恋愛と、旧世代の時空を超えた強固な恋愛が対比され、愛の本質を浮き彫りにしようとしている。「Main Vaapas Aaunga」にて恋愛の鑑として取り上げられているのが、印パ分離独立によって引き裂かれたスィク教徒男性キーヌーとイスラーム教徒女性ジヤーの恋愛である。これによって本作は単なる恋愛映画ではなく、「パーティション映画」としても評価されることになった。
Netflixで日本語字幕付きで配信されており、邦題は「そして、その愛が還るところ」になっている。
ロンドンで昼はIT企業で働きながら夜にスタンドアップコメディアンをしていたニルヴァイル・スィン・グレーワル(ディルジート・ドーサーンジ)は、インドのチャンディーガルに住む父親イクバール(ラジャト・カプール)から、祖父イシャール(ナスィールッディーン・シャー)の危篤を知らされ、関係が冷え込んでいたパートナーのカヴェーリー(バニーター・サンドゥー)を捨て置いて、インドに戻る。イシャールは認知症を患っており、印パ分離独立前の時代に生きていると勘違いしていて、現在はパーキスターン領になっている故郷サルゴーダーへ行こうとして倒れたのだった。入院したイシャールはとりあえず息を吹き返すが、依然として危険な状態が続いていた。ニルヴァイルは、祖父が何かサルゴーダーにやり残したことがあると勘付き、彼から話を聞き出そうとする。
印パ分離独立前夜の1947年、サルゴーダー。若きイシャール、通称キーヌー(ヴェーダーング・ライナー)は、同じ大学に通うアフサーナー、通称ジヤー(シャールヴァリー)と恋仲にあった。キーヌーは、たとえサルゴーダーがパーキスターン領になっても残り、彼女と結婚すると誓う。だが、サルゴーダーにも暴動が迫り、キーヌーの家族は故郷を捨ててインド領に逃げることになる。その際、グレーワル家の女性たちは友人のイスラーム教徒ムザッファル(マニーシュ・チャウダリー)の家にかくまわれることになった。グレーワル家の男性たちはアムリトサルにたどり着き、そこで難民としてゼロから生活を立て直すことになる。
6年後、キーヌーは弟のキトパールを連れてパーキスターンに渡り、サルゴーダーを訪れる。既にジヤーはアハマドザーイー家に嫁いでいることが分かり、キーヌーは彼女に会わずに帰国することになる。また、このときキーヌーは、サルゴーダーに残してきたグレーワル家の女性たちが、妹のプーラー(アーリヤー・カーン)を含めて、地元政治家アフザル(ダーニシュ・パンドール)の手によって皆殺しにされたことを知る。それ以来、グレーワル家では「グレーワル家の女性たちは呪われる」と信じられるようになったのだった。
ニルヴァイルは印パ分離独立のことを調べる内に、パーキスターンのNGOと連絡を取り合うようになり、印パ分離独立時にサルゴーダーで撮影されたアーカイブ写真を手に入れる。ニルヴァイルがその写真を見せるとキーヌーの容体は悪化した。だが、祖父がジヤーとの約束を果たすために死ねないでいるのを察知し、パーキスターンへ行くことを決意する。幸い、ニルヴァイルは英国パスポートを持っており、パーキスターン入国は比較的容易だった。
アターリーで国境を越えてパーキスターン入りしたニルヴァイルは、NGOのアーディル(サーヒル・メヘター)とキシュワル(カシュミーラー・イーラーニー)に迎えられ、サルゴーダーへ向かう。そして、病床の祖父にサルゴーダーの風景をライブ配信する。イシャールの指示に従ってジヤーの家があった場所に行くが、そこには別の建物が建っていた。そこで、ジヤーの嫁いだアハマドザーイー家に向かう。そこではジヤーの義妹ルマーナー(ニカト・カーン)に会うが、ジヤーは10年前に亡くなったことを知らされる。だが、部屋の壁にはジヤーの大きな肖像画が掛かっていた。それを見たイシャールは、78年前に彼女に聴かせるはずだった詩を読み上げ、あの世へ行く許可を得る。
映画の中では、「物語の帝王」と呼ばれたヒンディー語文学者プレームチャンド(1880-1936年)の短編小説「Duniya Ka Sabse Anmol Ratan(世界でもっとも尊い宝石)」(1907年)について言及される。この短編小説にはディルフィガールとディルファレーブという2人の登場人物が登場する。ディルフィガールはディルファレーブに求愛し、ディルファレーブは「世界でもっとも尊い宝石を持って来たら愛を受け入れる」と言う。そこでディルファレーブは世界中を探し回り、戦場で国のために命を落とした兵士の身体から流れ落ちた血液の最後の一滴を「世界でもっとも尊い宝石」だと発見し、それをディルファレーブに捧げる。ディルファレーブは彼の愛を受け入れる。このような話である。「竹取物語」などに似た物語だが、愛国主義でまとめ上げているところに時代性を感じさせる。
この短編小説について触れたのはジヤーであったが、これがきっかけでキーヌーは彼女のことをディルファレーブと呼ぶようになる。ただ、「Main Vaapas Aaunga」は愛国主義映画とは程遠い。むしろ、「国とは何か」を問う作品である。
たとえば、ラドクリフ・ラインについて触れられていた。インドとパーキスターンが別々の国として独立することが決まったとき、国境線をどうするかが大きな問題になった。この問題を解決するために英国から呼ばれてやって来たのがシリル・ラドクリフだった。ラドクリフは南アジアの専門家でも何でもなく、むしろ南アジアのことを全く知らなかった。その彼が地図上に引いた線がインドとパーキスターンの国土を分割することになった。これをラドクリフ・ラインと呼んでいる。それ以降、多少の変化はあったものの、基本的にインド、パーキスターン、そして1971年以降はバングラデシュの国境になっているのがラドクリフ・ラインになる。
そして、1947年の印パ分離独立時、この国境線を挟んで難民の大移動があり、殺戮が起こったのである。主人公ニルヴァイルの属するグレーワル家も、印パ分離独立時にパーキスターン領になったサルゴーダーからインド側に逃げてきた難民家系であった。そして、彼の祖父キーヌーが若い頃に約束をしながら果たせていなかった相手がジヤーであり、「Main Vaapas Aaunga」は、国境によって引き裂かれたこの二人の恋愛物語が中心となる。
キーヌーは、たとえサルゴーダーがパーキスターン領になっても残り、彼女と結婚すると誓う。そして、たとえインドに去ることになっても、必ず戻って来ると約束する。キーヌーには彼女のためにしたためていた詩があった。その詩を彼女に直接聴かせたいというのがキーヌーの一生の願いだった。95歳になった祖父は、その約束と思いを果たすためだけに、危篤状態になりながら生き長らえていたのだった。
もっとも、キーヌーは家族と共にインド側に逃げることになり、6年後にはサルゴーダーを一時的に訪れたこともあった。そのときまでにジヤーは別の男性と結婚していた。それを知って彼はジヤーに会わずに立ち去ってしまった。それでも、キーヌーは約束を果たせていないことを気に掛け続け、認知症になって全てを忘れる中でもその約束だけは覚えていたのである。愛情とはこれほど強いものなのかと、今時の若者であるニルヴァイルは驚く。
ニルヴァイルは、祖父の執着そのものの愛を知った後、「愛は毒である」と悟る。その毒は誰の中にも生じるものであり、それを吐き出すために人々は誰かに、または何かに、愛情を注ぐ。そうしなければ毒で苦しむことになるからだ。
また、ニルヴァイルは故郷というものがどういうものなのかも実感する。祖父は、サルゴーダーを離れた後も、心を故郷に置いていた。インドに渡り、ビジネスを成功させたが、安寧は得られなかった。なぜならインドは故郷ではなかったからだ。故郷の意味を知ったとき、ニルヴァイルは、なぜロンドンで彼が落ち着かないのかに気付く。そして、インドに帰ることを決意する。「Main Vaapas Aaunga」は、サルゴーダーへの帰郷を果たせなかった祖父の物語でもあり、また、ロンドンからインドへの帰郷を決意するニルヴァイルの物語でもあった。
エンドクレジッドでは、インドのみならず、世界中の難民の映像が映し出される。確かに「Main Vaapas Aaunga」は印パ分離独立の物語であったが、イムティヤーズ・アリー監督はこの作品のメッセージをさらに広げようとしている。住み慣れた家や故郷を失い難民となって見知らぬ土地に渡ることを余儀なくされている人々は今でも世界中で存在している。その人々の苦しみや悲しみもアリー監督は受け止め、観客に投げ掛けている。
「Main Vaapas Aaunga」では、パーキスターンやイスラーム教徒を一方的に悪役として描くこともしていなかった。むしろ、暴力は国境を挟んで双方で行われ、どちらにも非があることがはっきりと描かれていた。そして、家族の女性を故郷に残してインド側へ逃げた男性たちの行動も責められていなかった。緊急事態ではどんな決断が功を奏するのか分からないものだ。結果を知っている我々は後から何とでも言えるが、まさに命の危険が迫っている中、短い時間で重大な決断をしなければならなかった難民たちの苦境がただ事実として描かれていた。
そして、パーティションの悲劇を目の当たりにした世代が、その苦しみを若い世代と共有しようとしない理由にも触れられていた。単なる「憎しみ」という言葉では表現できない何かに突き動かされ、あの暴動は起こった。あの地獄を繰り返してはならない。だが、今の世代に言葉で地獄を語って果たして理解してもらえるだろうか。不可能である。ならば、あの地獄は、自分と共に灰にすべき、というのが当事者世代の言い分であり、それもよく分かるように演出されていた。当然、答えはひとつではない。
基本的には暗いトーンの映画で、恋心を歌い上げた曲が多いが、「Ishq Mastana」のような、ARレヘマーン印の変幻自在な曲も映画を大いに盛り上げていた。
ちなみに、祖父が最後にジヤーの肖像画に向かって読み上げた詩は、ひどい出来だ。そのひどさはアリー監督による一流のジョークであろう。このようなひどい詩を聴くために、聴かせるために、キーヌーもジヤーも何十年も待ち続けたのだ。だが、それでいい、それがいいのである。詩の内容に愛の本質はない。
また、キーヌーとジヤーが誓いを立てた場所は、スーフィー聖者の墓の裏であった。イムティヤーズ・アリー監督の映画にはスーフィズムの要素が入ることが多いが、この「Main Vaapas Aaunga」にも、このような隠し味的な手法で盛り込まれていたのを見逃さなかった。
瀕死の祖父を演じたナスィールッディーン・シャー、その若い頃のキーヌーを演じたヴェーダーング・ライナー、祖父のやり残したことを必死で調べようとするニルヴァイルを演じたディルジート・ドーサーンジなど、名演であった。ヒロインのシャールヴァリーについては、彼女よりもっとうまく演じられる女優がいるのではないかとも感じたが、足手まといにはなっていなかった。
ちなみに、イシャールはウルドゥー語で詩を書き、ウルドゥー語でジヤーの名前を左腕の手首に入れ墨していた。この時代のパンジャーブ地方では、スィク教徒もウルドゥー語の読み書きが普通にできた。
「Main Vaapas Aaunga」は、またひとつパーティションの悲劇を描いた傑作である。「愛は毒である」というイムティヤーズ・アリー監督の思想のエッセンスが詰め込まれた上で、印パ分離独立とは何だったのかが今の世代向けに提起されている。そして、海外に渡ったNRI(在外インド人)たちに帰郷を促すメッセージも発信されている。興行的には「スリーパー・ヒット」とされている。本来ならばもっと受けてもいいはずだが、インテリ層を中心に高い評価を受けたようである。印パ分離独立に感情移入できないともしかしたら本質まで迫れないかもしれないが、純粋にロマンス映画として観ても十分に涙できる作品のはずである。
