Chhaava

3.5
Chhaava
「Chhaava」

 2025年2月14日公開の「Chhaava」は、マラーター王国創始者シヴァージーの息子サンバージーを主人公にした時代劇映画である。サンバージーはデカン制圧に乗り出したムガル朝第6代皇帝アウラングゼーブとの戦争に敗れ、捕まり、殺害された。近年のインドでは、イスラーム教政権や英国植民地政府に立ち向かった歴史上の英雄たちが愛国主義的なフレーバーと共に次々と映画化されているが、この作品もその一環だととりあえず捉えることができる。シヴァージー・サーワント著のマラーティー語小説「Chhava」(1979年)を原作としている。ちなみに題名は「獅子の子」という意味である。

 プロデューサーはディネーシュ・ヴィジャーン。監督は「Zara Hatke Zara Bachke」(2023年)などのラクシュマン・ウテーカル。音楽はARレヘマーン。主役サンバージーを演じるのは「Uri: The Surgical Strike」(2019年)などのヴィッキー・カウシャル。ヒロインを務めるのは「Animal」(2023年)や「Pushpa 2: The Rule」(2024年)などを当てているラシュミカー・マンダーナー。他に、アクシャイ・カンナー、ダイアナ・ペンティー、ニール・ブーパーラム、アーシュトーシュ・ラーナー、ディヴィヤー・ダッター、サントーシュ・ジュヴェーカル、ヴィニート・クマール・スィン、アーローク・ナート、プラディープ・ラーワトなどが出演している。また、アジャイ・デーヴガンがナレーションを務めている。

 2025年3月16日に川口スキップシティでSpaceBoxによって行われた上映会で鑑賞した。客席のほとんどはインド人で埋め尽くされていた。

 この映画のおかげでサンバージーは再評価されているが、元々そんなに知られた人物ではなかった。しかも、歴史家の間でサンバージーの評価は分かれており、もっと正確にいえば、必ずしも優れた君主とは認められていない。決して生涯にわたって英雄的な行動を取った人物ではなく、いくつかの問題行動も報告されている。たとえばサンバージーは若い頃、父親シヴァージーによって幽閉されていた。その理由は、一説によると、女遊びが過ぎたからだったという。そんなこともあって、1680年にシヴァージーが死去したとき、サンバージーがチャトラパティ(王位)を継承することに反対する勢力も少なくなかった。チャトラパティになったサンバージーは周辺勢力との抗争を繰り返すが、彼の軍は女性を集団強姦するなど残忍な行動でも知られていた。サンバージーの最期も味方の裏切りによって引き起こされたものだった。

 だが、映画「Chhaava」はサンバージーのそんな負の側面を完全に無視し、彼をほとんど完全無欠の英雄として声高らかに歌い上げている。歴史にもとづく映画といえど、創造的な自由が認められたフィクション映画なので、史実との相違点をあげつらうのは的外れだ。それを前提にしつつも一言だけ声を発するとすれば、この映画を観てこれを歴史そのものだと受け止めてはならない。サンバージーがシヴァージーの息子であること、シヴァージーの後継者だったこと、デカン制圧に乗り出したアウラングゼーブとの戦争に敗れて殺されたことぐらいが事実だ。他の事柄は、サンバージーを英雄として祭り上げるために誇張または追加されたにすぎない。

 サンバージーはヒンドゥー教を守るためにアウラングゼーブと宗教戦争を戦ったわけでもない。実は彼はアウラングゼーブに仕えていた時期もあるし、アウラングゼーブに反旗を翻した息子アクバルを庇護した時期もあった。サンバージーは全方位に戦争を仕掛けていたが、決してイスラーム教徒為政者のみを標的にしたわけではない。たとえばカルナータカ地方の支配者だったオデヤール朝とも戦っているが、これはヒンドゥー教の王朝である。この時代の戦争は決して宗教で引かれた線で戦っていたわけではなかった。

 1680年、マラーター王国創始者シヴァージーが死去する。ムガル朝第6代皇帝アウラングゼーブ(アクシャイ・カンナー)は宿敵シヴァージーの死を喜び、これでマラーターは骨抜きになると考える。だが、ムガル朝の重要都市ブルハーンプルがシヴァージーの息子サンバージー(ヴィッキー・カウシャル)に襲撃された。シヴァージー亡き後、サンバージーがムガル朝の新たな敵として浮上した。

 マラーター王国の首都ラーイガルでは、サンバージーの異母弟ラージャーラームを即位させようと、彼女の母親ソーヤラーバーイー(ディヴィヤー・ダッター)が画策していたが、サンバージーの即位は止められなかった。そこで、アウラングゼーブに反旗を翻した息子アクバル(ニール・ブーパーラム)に密書を送り、サンバージーを謀殺しようとするが、アクバルはそれをサンバージーに伝える。サンバージーは激怒し、ソーヤラーバーイーと共に謀反を画策した者たちは抹殺される。アウラングゼーブは自らデカン地方に遠征を行うが、サンバージーはアクバルと手を結び、ゲリラ戦によってムガル軍を各個撃破していく。

 アウラングゼーブは、サンバージーに反感を抱くガーノージーとカーノージーを味方に付け、彼の手引きによってサンガメーシュワルに滞在するサンバージーを急襲させる。奮戦空しくサンバージーは親友カヴィ・カラーシュ(ヴィニート・クマール・スィン)と共に捕まってしまう。アウラングゼーブの前に引き立てられたサンバージーは拷問を受けた末、惨殺される。だが、サンバージーの弟ラージャーラームが即位し、新たな抵抗勢力となった。

 「Chhaava」は2025年第1四半期最大のヒット作になっている。だが、ヒットの理由を特定するのは難しい。なぜなら決して完成度の高い映画ではなかったからだ。戦争や戦闘のシーンが単調であるし、人間ドラマとして秀逸だったわけでもなく、最後の拷問シーンも冗長である。やたら「詰まっている」印象はあった。とにかく人が多く、やたらと密集している。サンガメーシュワルの戦いでは、狭い屋内で身動きが取れない中、マラーター軍とムガル軍が押し合いへし合いしながら戦うシーンもあって、その「詰まっている」感を助長した。だが、その詰まり具合が映画の質を高めることはなかった。

 プロットにおいてもっとも違和感を感じたのは、サンバージーがアウラングゼーブに捕まった後のラージャーラームとソーヤラーバーイーの動きだ。彼らはサンバージー救出に動かず、安全な要害ラージガルにとどまって祈っているだけだった。勇猛果敢で知られたマラーターであるはずなのに、君主が捕まっても誰も助けにこないのはなぜだろうか。もちろん、史実ではサンバージーは殺されてしまうため、救出劇を成功させることはできなかっただろう。だが、ここまで歴史を空想で彩ったならば、少なくとも救出の努力はすべきだったのではなかろうか。それまでマラーター軍がムガル軍をいいように翻弄する様子が描かれていたので、この落差には違和感を感じずにいられなかった。

 映画が発信しているメッセージにも疑問を感じるものがあった。冒頭でアジャイ・デーヴガンがプロローグをナレーションするが、そこでは「平和に暮らしていたヒンドゥー教徒が外来のイスラーム教徒侵略者によって蹂躙された」というような、一方的な歴史観が語られていた。インド亜大陸にイスラーム政権が確立する前、人々は戦争もなく平和に暮らしていたわけではない。むしろ内部抗争を繰り返していたために弱体化し、侵略を許した。確かにムガル朝創始者バーバルは中央アジアからインドにやって来た為政者である。だが、ムガル朝は1526年にインドの王朝として成立し、インドの支配者として統治を行った。ムガル朝の歴代皇帝も、インド亜大陸で生まれた者がほとんどだ。当のアウラングゼーブも現在のグジャラート州で生まれている。彼らをいつまでも「外来の侵略者」とレッテル貼りするのは間違っている。インド土着の勢力のひとつとして領土争いをしていたと見るべきだ。

 ムガル朝が一貫して住民を抑圧していたわけでもない。特にムガル朝第3代皇帝アクバルはヒンドゥー教徒に宥和的な政策を行ったことで知られる。その象徴とされるのが非イスラーム教徒から徴収していたジズヤー(人頭税)の撤廃である。第4代皇帝ジャハーンギール、第5代皇帝シャージャハーンも同様の政策を採った。その寛容な精神をもっとも強く受け継いでいたのがシャージャハーンの長男ダーラー・シコーであったが、後継者争いに敗れてアウラングゼーブに処刑された。ダーラーと異なり、アウラングゼーブは原理主義的な人物で、イスラーム教を優先した政策に大転換する。やはりその象徴とされるのがジズヤーの復活である。「Chhaava」でも、ブルハーンプルに蓄えられた財宝の多くはジズヤーによって徴収されたものだと語られていた。だが、だからといってアウラングゼーブがヒンドゥー教を信仰する人民を皆殺しにしたわけでもない。人民は皇帝の財産であり、権力の源である。自らの財産を自ら破棄することは考えにくい。アウラングゼーブをヒンドゥー教の破壊者として執拗に描き出す語り口にも疑問を感じた。

 ただ、映画の中でサンバージーは何度も「これは宗教戦争ではない」ということを述べていた。とりあえず「Chhaava」は、イスラーム教徒を全員侵略者とし、彼らと徹底抗戦することを訴えることはしていない。サンバージーは何度も「スワラージヤ」のために戦うと宣言していた。「スワラージヤ」とは「自治国」を意味する。それはここではつまるところ、信教の自由だと受け止めていいと思われる。今までの慣習を守って生活することを保障してほしいということだ。サンガメーシュワルの戦いで敗れたサンバージーはムガル軍に捕まり、アウラングゼーブの前に引き出される。アウラングゼーブは、拷問を受け両目をつぶされても弱音を吐かないサンバージーに感服し、彼にムガル朝の臣下になれと提案する。だが、その条件として彼はイスラーム教に改宗しなければならなかった。それを受けてサンバージーはアウラングゼーブに、マラーターの仲間になれと言い返す。そして、マラーター王国では改宗は求めないと付け加える。これがこの映画の中心的なメッセージだといえる。イスラーム教徒以外に居所を与えようとしないアウラングゼーブの不寛容な政策を糾弾しているのである。そしてそれがサンバージーの戦う理由でもあった。

 アウラングゼーブ役はアクシャイ・カンナーが演じていた。彼は元々疑り深い表情をよくしていた。それが今回、圧のある狡猾な老人というイメージの創出に一役買っており、絶妙にはまっていた。彼の残忍さは物語が進行するたびに増していくが、彼のマンネリズムを見ていると、だんだんナレーンドラ・モーディー首相に見えてきた。2014年から首相を務めるモーディーはカリスマ性と実行力を兼ね備えた敏腕政治家であるが、彼がヒンドゥー教至上主義的なイデオロギーの持ち主であることは誰もが知るところであり、彼に批判的な人々は首相就任当時からイスラーム教徒の弾圧を懸念してきた。実際、モーディー政権の採る政策は直接的・間接的にイスラーム教徒に影響を与えるものが目立つ。

 「Chhaava」は、敬虔なイスラーム教徒として知られ、イスラーム教徒を優先する政策に転換したアウラングゼーブに立ち向かったヒンドゥー教徒英雄の映画である。その表層だけを捉えるならば、ヒンドゥー教を持ち上げるヒンドゥトヴァ(ヒンドゥー教至上主義)映画、かつ、イスラーム教を敵視するイスラーモフォビア映画と見なすことができる。だが、もしアウラングゼーブがモーディー首相の暗喩だという深読みが正しいとしたら、この映画の見え方は全く逆転してしまう。インド映画は過去に、言論の自由が奪われたとき、しばしばそのようなトリッキーな方法で痛烈な風刺を行ってきた。単純なヒンドゥー教徒観客は「Chhaava」をヒンドゥー教万歳の映画だと捉え、物事を深読みできる観客はこれをモーディー政権批判と受け止める。そんな高度なゲームをしているように感じられた。アウラングゼーブもモーディー首相もグジャラート州出身である点、また、アウラングゼーブがデカン遠征に出たときは40歳前後で、映画ほど老けてはいなかった点にも注目したい。

 ヴィッキー・カウシャルは現在、スターへの階段を急速に上りつつある俳優である。「Uri」や「Sardar Udham」(2021年)などの愛国主義的な映画に主演して当ててきており、この「Chhaava」への出演も基本的にはその延長線上にあるチョイスだといえる。「Chhaava」がここまで大ヒットになったことで、もはや「スター」と呼んでも差し支えない実績を残したといっていい。今後、ますます出番が増えていくことだろう。また、この映画を読み解く際、ヴィッキーの妻カトリーナ・カイフの父親がイスラーム教徒であることも念頭に置くべきである。カトリーナは自身の宗教を明言していないが、どの宗教の神も信じているというようなコメントは出している。

 ラシュミカー・マンダーナーも最近は驚異のヒット率を誇っており、ヒロインとして出演したこの映画も大ヒットさせた。だが、「Chhaava」における彼女の出番は非常に限られており、彼女がいたからこの映画がヒットしたとは評価しにくい。たまたまヒット映画に顔を出しているといっていいだろう。セカンドヒロインのダイアナ・ペンティーについてはさらに出番が少なかった。

 既に述べたとおりだが、アウラングゼーブを演じたアクシャイ・カンナーが素晴らしかった。特殊メイクにより実年齢より上の老人を演じていたが、眼光には皇帝にふさわしい野心がぎらついており、悪役として申し分ないまがまがしさを出せていた。拷問前にサンバージーが発した猛々しい詩を聞いてアウラングゼーブが冷静に「マザー・ナヒーン・アーヤー(面白くなかった)」と吐き捨てるシーンがあるが、場内からはそこで笑い声が漏れていた。確かにこれが今回の彼のベスト・ダイアログであった。ちなみに、「Chhaava」ではサンバージーの死の直後にアウラングゼーブが倒れており、彼が絶命したように見えるが、アウラングゼーブは1689年のサンバージーの死後も生き、デカン地方にとどまり続け、1707年に死去した。

 「Chhaava」は、2025年最初の大ヒット作であると同時に、議論しがいのある作品だ。単純に評価するならば、またひとつ与党インド人民党(BJP)のイデオロギーにおもねった反イスラーム、親ヒンドゥー的な愛国主義映画の成功例が生まれたことになる。だが、本当にそういう単純な評価でいいのだろうか。もしかしたらその裏には現政権に対する痛烈な批判が隠されていないだろうか。もしそれが意図したものであったとしたら、一気に興味深い作品になる。映画そのものの完成度はそれほど高くないところがまた逆にそのヒットを面白い現象とする。そういう意味で、一見に値する映画である。