Raksha Bandhan

3.5
Raksha Bandhan
「Raksha Bandhan」

 ラクシャーバンダン(ラーキー)は、兄と妹が絆を再確認する、インドらしいお祭りだ。この日、女性は自分の兄弟の手首に「ラーキー」と呼ばれるミサンガのような紐を巻き、男性は自分の姉妹を守る誓いを新たにする。毎年8月頃に祝われる。

 2022年8月11日公開の「Raksha Bandhan」は、その題名から、兄と妹の物語であることがすぐに分かる。しかもラクシャーバンダンの日に公開されている。ただ、メインの主題は持参金である。

 監督は「Raanjhanaa」(2013年)などのアーナンド・L・ラーイ。ヒンディー語映画界でストーリーテーリングの上手さで知られた監督である。音楽監督はヒメーシュ・レーシャミヤーである。

 主演はアクシャイ・クマール。「Atrangi Re」(2021年)に続き、彼がラーイ監督の作品に出演するのは2回目だ。ヒロイン扱いは2人。「Badhaai Do」(2022年)などのブーミ・ペードネーカルと、「Shikara」(2020年)でデビューしたサーディヤー・カーティーブである。他に、ディーピカー・カンナー、スムリティ・シュリーカーント、サヘージミーン・カウル、スィーマー・パーワー、ニーラジ・スード、サーヒル・メヘター、アビラーシュ・タープリヤール、マヌ・リシなどが出演している。

 舞台はデリーの下町チャーンドニー・チャウク。ラーラー・ケーダールナート(アクシャイ・クマール)は、界隈では有名なチャート(スナック)屋の店主だった。この店でゴールガッパーを食べた妊婦には必ず男の子が生まれるといわれており、毎日多くの妊婦が押し寄せていた。

 ケーダールナートには4人の妹がいた。器量よしのガーヤトリー(サーディヤー・カーティーブ)、太っちょのドゥルガー(ディーピカー・カンナー)、色黒のラクシュミー(スムリティ・シュリーカーント)、ボーイッシュなサラスワティー(サヘージミーン・カウル)である。ケーダールナートは、死んだ母親に、4人の妹を結婚させるまでは結婚しないと誓いを立てており、妹たちの婿探しに奔走していた。ケーダールナートには幼馴染みの恋人サプナー・グプター(ブーミ・ペードネーカル)がいたが、父親のハリシャンカル(ニーラジ・スード)は、ケーダールナートがいつまでも結婚しないため、自分の定年前に娘をどこかに嫁に出そうとしていた。

 ケーダールナートは、婚活カウンセラーのシャーヌー・シャルマー(スィーマー・パーワー)の助けを借りて、まずはガーヤトリーの縁談をまとめる。シャーヌーの嫁ぎ先への持参金は、店を担保にして借金することで手に入れていた。

 次に彼はドゥルガーとラクシュミーを双子の男性と一度に結婚させようとする。その持参金のために彼は腎臓を売った。手術を終え、ラクシャーバンダンの日に彼は家に戻ってくるが、そのとき彼は、ガーヤトリーが自殺したと連絡を受ける。ガーヤトリーは嫁ぎ先から持参金として冷蔵庫を求められ、それを拒否した末に自殺をしたのだった。

 ケーダールナートは持参金の悪を思い知り、3人の妹を有能に育て、持参金なしに結婚させることを誓う。また、サプナーには、ハリシャンカルが決めた結婚相手スワプニル(アビラーシュ・タープリヤール)と結婚するように勧める。

 サプナーとスワプニルの結婚式をケーダールナートやチャート屋として手伝っていた。ハリシャンカルは娘がこの結婚に乗り気ではないと感じ取り、彼女に結婚を止めるように言う。スワプニルも実はラクシュミーに好意があった。こうして円満に二人の結婚は破談となる。

 その後、ラクシュミーとスワプニルの結婚式が持参金なしに行われた。ドゥルガーは弁護士に、サラスワティーは警察官になって、それぞれいい相手を見つけた。こうして全ての妹の結婚式が終わった後、ケーダールナートはサプナーを花嫁として迎えに行く。

 観客に伝えたいメッセージがはっきりしており、その主張を裏付けるためにストーリーや設定が緻密に構成されていた。

 まず、ケーダールナートの経営するチャート屋は、妊婦が食べると男の子が生まれると信じられているゴールガッパーで有名だった。インドでは男尊女卑が根強く、男児の誕生が喜ばれる一方、女児の誕生は極度に悲しまれる。これには、家系の存続という理由もあるが、経済的な理由も大きい。インドでは花嫁側の家族が花婿側の家族に多額の持参金を支払う習慣があり、女児の誕生は家計の大赤字を意味するのである。よって、女児の誕生は家族から忌避される。女児堕胎を防ぐため、胎児の性別検査が禁止されているほどだ。また、子供を産めない女性のみならず、男児を産めない女性は家族の中で肩身が狭くなる。男児を産むかどうかは女性にとって死活問題なのである。だから、ケーダールナートのチャート屋には妊婦たちが殺到するのである。言わば、ケーダールナートは、男尊女卑の習慣や迷信のおかげで商売繁盛している立場にあり、持参金の悪習には積極的に賛成ではないものの、反対でもなかった。

 しかしながら、大いに矛盾していることに、ケーダールナートには4人の妹がいた。食べると男の子が生まれるというゴールガッパーを出している店の家族にこんなに多くの女子が生まれるのは変なことだ。しかも、中盤で明らかにされるが、ケーダールナートは両親の実の息子ではなかった。つまり、彼の家族には実は一人も男児が生まれなかったのである。ケーダールナートの両親は、彼に4人の妹の結婚という重責を残してこの世を去って行ってしまった。ケーダールナートは、4人の妹を結婚させるまでは自分が結婚できないことになっていた。

 その4人の妹もまた狙い澄ましたような人物設定になっている。長女のガーヤトリーは非の打ち所のない女性であったが、次女のドゥルガーは食いしん坊かつデブであり、三女のラクシュミーは色黒であり、四女のサラスワティーはボーイッシュすぎて女の子らしくなかった。ガーヤトリーの結婚は何とかなりそうだったが、残りの三人の結婚はこのままでは難しそうだった。

 しかしながら、この点にも女性に対する偏見が満ち満ちている。太った女性は結婚できない、色黒の女性は結婚できない、女の子らしくない女の子は結婚できないという固定観念がこの三人の結婚を悲観視する原因になっているのだが、それはすなわち、女性たちの個性を全く認めようとせず、娘や妹を市場価値のある規格に沿った商品にすることのみに腐心することにつながる。ガーヤトリーが持参金を苦にして自殺したことによって、持参金の悪に気付いたケーダールナートは、一転して、持参金として用意した資金を、妹たちの教育につぎ込み、彼女たちを、持参金なしでも結婚相手が見つかるような優れた女性にすると宣言する。

 もっとも、ドゥルガー、ラクシュミー、サラスワティーの三人は、元から自分の「弱点」――太っちょ、色黒、ボーイッシュ――を弱点とは思っていなかった。逆に、それらを自分の魅力のひとつだと考えていた。実は、「Raksha Bandhan」の登場人物の中ではもっとも進んだ考えを持った女性たちであった。一連の出来事の後、勉学に勤しむようになったドゥルガーは弁護士になった。その体格のおかげか、迫力のある弁護士になったようだ。また、サラスワティーは、ボーイッシュな性格を活かして警察官になった。個々の特性を弱点とみなして無理に矯正しようとするのではなく、その特性を伸ばすことで、それぞれが輝くキャリアを手にすることができる。特に女性に対してその矯正が働く社会なので、こういうメッセージがより強く響くことになる。

 おそらく、先進国の視点からすると、結婚しない自由を妹たちに認めてもよかったのではないかという感想も出そうだ。だが、それを封じるために、ケーダールナートは妹たちが全員結婚しないと恋人のサプナーと結婚できないという前提を用意したのだろう。ガーヤトリー死後に残った三人姉妹も、兄の結婚を実現させるために、結婚相手を自分で見つけていったが、とても自然な流れだった。そして、その兄妹間の助け合いをもっともらしく演出するために、兄妹のお祭りであるラクシャーバンダン祭が引き合いに出され、題名にもなったのだろう。計算し尽くされた構成である。

 また、一旦はサプナーの結婚相手をスワプニルに決めたハリシャンカルが、土壇場になって娘に、スワプニルとの結婚を止めてケーダールナートと結婚するようにけしかける最後はユニークだった。「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年/邦題:シャー・ルク・カーンのDDLJラブゲット大作戦)などの典型的なロマンス映画では、厳格な父親が最後の最後で娘が恋人と結婚するのを認めるラストがよく描かれる。だが、父親が、乗り気でない娘を見て空気を読み、自ら娘に破談をけしかけるラストは非常に珍しい。これもまた新たなパターンになっていくのだろうか。

 アクシャイ・クマールはいつものアクシャイ・クマールであり、非常に安定感があった。ブーミ・ペードネーカルは、演技力がある上に、有意義な映画に好んで出演しており、持参金をテーマにしたこの映画も快諾したものと思われる。この二人が主演扱いではあるが、ケーダールナートの4人の妹たちもそれぞれ好演しており、映画を華やかにしていた。

 「Raksha Bandhan」は、既にヒンディー語映画界の重鎮の一人に数えられるアーナンド・L・ラーイ監督の最新作である。今回は持参金撲滅という明確なメッセージを掲げた作品で、多少説教臭いところはあった。それが嫌われたのか、興行的にはフロップに終わっている。だが、社会問題を映画の力でもって解決しようとする意欲が十分に感じられ、それはかなり成功していると評することができる。ヒットしなかったとはいえ、無視していい作品ではない。