女児堕胎

 日本では男女人口比(Sex Ratio)が話題になることは少ないが、インドでは死活問題になっている。なぜならインドの男女人口比は異常な数値になっているからだ。

 男女人口比は主に2つに分けて考えるべきである。ひとつは出生時の男女比、もうひとつは全年齢の男女比である。自然な状態では、男性の方がわずかに女性よりも産まれやすいが、一般的に平均寿命は男性よりも女性の方が長いため、全年齢で見ると男女比はちょうど1:1になるとされている。

 インドでは、どちらの男女比も異常な数字になっており、男性の人口が女性の人口よりも異常に多くなっている。自然な状態では、男性の新生児1,000人に対して女性の新生児は950人ほどだとされているが、インドの出生時男女比はそれよりもかなり低い。州によっても異なるが、インド全体では男性1,000人に対して女性はおよそ900人になっている。全年齢の合計では、男性1,000人に対して女性は943人である。最悪のハリヤーナー州では、877人になっている。

 これは、遺伝子的な問題ではなく、完全に社会的な問題である。最大の原因は女児の間引きだ。インドでは男児が尊ばれるあまり、女児を不要と考える価値観が根付き、女児の出生を意図的に抑えてきた。日本でも男児を尊ぶ習慣があるが、その一番の要因は家系の存続だ。インドでもそれは変わらないのだが、もうひとつ経済的な要因がある。それは持参金問題だ。インドでは、結婚時に花嫁側の家族が花婿側の家族に多額の持参金を支払わなければならず、女児の誕生は家計の赤字を意味するため、歓迎されないのである。

 技術が発達していなかった時代には、女児が生まれてきた時点で殺してしまう。「Matrubhoomi」(2003年)の冒頭では、生まれてきたばかりの女児をミルクが入った壺に沈めて窒息死させるショッキングなシーンが映し出される。胎児の性別検査が可能となった現代では、胎児が女児と分かった時点で堕胎手術を受けることになる。さすがに出産後に女児を殺すと完全に殺人罪に問われてしまうため、現代ではまだ胎児の内に堕ろしてしまう手段が好まれている。こうして、年間40万人の女性が、生まれずに姿を消しているのである。

 インド政府はこの悪習を止めるため、胎児の性別検査を法律で禁止している。だが、抜け道はいくらでもあり、闇で性別検査は横行している。例えば外国へ行けば簡単に性別検査ができてしまうし、インド国内でも、医者に追加の金を出せば教えてもらえてしまう。「Jayeshbhai Jordaar」(2022年)では、胎児が男児だと医者が「ジャイ・シュリー・クリシュナ(クリシュナ万歳)」、女児だと「ジャイ・マーター・ジー(女神万歳)」とつぶやき、それによって家族が胎児の性別を察知するという風習が紹介されていた。

 わざわざ胎児の性別検査をするということは男児を所望しているということであり、胎児が女児であることが分かると、十中八九、堕胎手術となる。妊婦本人が堕胎を望むこともあるかもしれないが、多くは家族からの圧力だ。その圧力をもっとも掛けるのが、姑などの女性メンバーということは少なくなく、皮肉である。女性が女性の口減らしをしているのである。また、「Jayeshbhai Jordaar」では、是非とも男児が欲しい家族が、女神に男児の誕生を懇願するというシーンもあった。これも皮肉の一種であろう。

 個人の損得を最優先して無計画に女児の間引きや堕胎を続けてきたために、現在、ハリヤーナー州などの男女比異常州では男余りの状態になっており、花嫁が不足している。もはや結婚相手の民族、宗教、カースト、そして持参金などにこだわっておられず、他州や他国から花嫁を輸入することも行われていると聞く。自業自得といわずして何といおうか。

 女児堕胎はインド社会の大きな悪習であるため、映画のテーマにもなりやすい。既に紹介した「Matrubhoomi」と「Jayeshbhai Jordaar」は、その中でもストレートにこの問題を突いた作品で必見である。「Secret Superstar」(2017年/邦題:シークレット・スーパースター)も、メインテーマではないものの、女児堕胎の圧力からお腹の女児を守り抜いた母親の物語として捉えることが可能である。

 他のパターンとして目立つのが、間引きや堕胎によって殺された女児の霊が化けて出るというホラー映画である。「Kaali Khuhi」(2020年)や「Chhorii」(2021年)が挙げられる。

 現代インドでも女児堕胎は依然として存在する大きな問題だが、啓発活動は地道に行われており、改善には向かっている。女児堕胎問題の指摘をはじめとして、女性の地位向上や女性の活躍を好んでテーマにしてきたインド映画界の努力も多少はこの流れに貢献しているといっていいのではなかろうか。