Dharam Sankat Mein

3.5
Dharam Sankat Mein
「Dharam Sankat Mein」

 インドにおいて宗教は人間としての生き方そのものであり、宗教のない人間は人間ではないとまで言える。人間は何らかの宗教に属していることが前提であり、宗教を信じるか信じないかではなく、どの宗教を信じるかが関心事である。近代インドにおいて残念ながら宗教は人間を分断する装置としても働き、1947年には宗教の相違から国の分断が引き起こされてしまった。現代でも、宗教が原因で起こった事件は少なくない。

 そういう国において、映画で宗教を扱うのは危険を伴う。下手に宗教に触れるとその映画は関係団体から上映禁止を訴えられたり、最悪の場合はテロの対象になったりする。しかしながら、インドの社会問題を取り上げようと思ったら宗教は避けて通れないテーマであり、多くの映画が様々な方法で宗教について問題を投げ掛け、宗教融和を説いて来た。「Dharm」(2007年)、「OMG: Oh My God!」(2012年)、「PK」(2014年)などが代表例である。

 2015年4月10日公開のヒンディー語映画「Dharam Sankat Mein(宗教は危機に)」も、その題名が示す通り、宗教をテーマにした映画である。監督はファワード・カーン。「Murder」(2004年)や「A Wednesday!」(2008年)で撮影監督を務めた人物で、監督は今作が初めてである。同名の俳優がパーキスターンにおり、パーキスターン映画「Khuda Kay Liye (Pakistan)」(2008年)やインド映画「Ae Dil Hai Mushkil」(2016年)などにも出演していたが、別人である。

 主演はパレーシュ・ラーワル。アンヌー・カプール、ナスィールッディーン・シャー、アルカー・カウシャル、アウリトラ・ゴーシュ、ギッピー・グレーワールなど。ポスターでは、「『OMG: Oh My God!』と同じスタジオの映画」とされているが、監督やプロデューサーが異なる上にキャストもパレーシュ・ラーワル以外は共通点がない。また、「Dharam Sankat Mein」は英国映画「The Infidel」(2010年)の翻案である。

 舞台はアハマダーバード。ダラムパール(パレーシュ・ラーワル)は宗教に無頓着な人間で、近所に住むイスラーム教徒弁護士ナワーブ・メヘムード・シャー(アンヌー・カプール)とは犬猿の仲だった。しかし、息子のアミトが、宗教指導者ニーラーナンド(ナスィールッディーン・シャー)の右腕ニーレーシュワルの娘シュラッダー(アウリトラ・ゴーシュ)と結婚したいと言っており、彼女の家族の前では敬虔なヒンドゥー教徒を演じなければならなかった。ダラムパールはそれを面倒に感じていた。

 ある日、ダラムパールは死んだ母親の貸金庫を片付けに銀行を訪れる。そこで養子縁組の書類を見つけてしまう。実はダラムパールは、イスラーム教徒の両親の下に生まれたが、孤児院に預けられ、ヒンドゥー教徒の両親に引き取られて育ったのだった。今までイスラーム教徒を毛嫌いしていたダラムパールは天地がひっくり返るほどショックを受ける。

 ダラムパールはメヘムードに相談し、彼と仲良くなる。メヘムードの協力で、彼の生物学的父親がまだ存命で、イスラーム教の療養所に入っていることを知る。ダラムパールは父親に会いに行くが、イマーム(宗教指導者)に面会を拒絶される。イマームは彼に、イスラーム教の知識を身につけてから父親に会うように言う。

 そこでダラムパールはメヘムードにイスラーム教のことを教えてもらう。同時に彼は、シュラッダーの父親に会う前に、パンディトジー(ヒンドゥー教僧侶)からヒンドゥー教の知識を叩き込まれていた。2つの宗教を同時進行で学ばなければならなくなり、大いに混乱する。

 だが、とうとうダラムパールは隠し通せなくなり、公衆の面前で自分はイスラーム教徒の両親から生まれたと宣言する。それを聞いたニーラーナンドは、アミトとシュラッダーの結婚を破棄させる。ショックを受けた家族はダラムパールを置いて去ってしまう。ダラムパールは、イスラーム教徒のかぶる帽子を燃やしたことで、宗教的感情を傷付けたとして逮捕される。しかしながら、メヘムードが弁護をしてくれたおかげで大きな罰は受けなかった。また、この裁判をきっかけに、イマームが父親との面会を餌にしてダラムパールを強制的に改宗させようとしていた疑いが持ち上がり、イマームは彼を父親に会わさざるを得なくなる。ダラムパールが会う直前に父親は亡くなってしまうが、彼の葬式に立ち会うことはできた。

 ダラムパールは、ニーラーナンドが眼瞼痙攣という奇病を患っていることに気付き、それをヒントにして、過去に失踪したパンジャービー歌手マンジート・マンチャラー(ギッピー・グレーワール)と同一人物であることを突き止める。マンジートは違法送金や強姦など、多くの罪に問われていた。ダラムパールがそれを暴露したため、信者たちは目が覚め、家族もダラムパールのところへ帰って来る。

 イスラーム教徒に強い偏見を持っていたヒンドゥー教徒が、自身の生物学的両親がイスラーム教徒であったことを知ってショックを受け、一連の出来事を通して、宗教は人間を分断するものではなく団結させるものでなくてはならないと気付くまでをコメディータッチで追った作品。そのメッセージは、今まで多くのヒンディー語映画が発信して来たものであり、目新しさはないが、自分の本当の出自が分かるところから価値観を揺さぶられる様子は新しく、迷いのないしっかりとした筋書きの映画にまとまっていた。

 宗教をテーマにした映画ではあるが、意外なことに劇中には本当に敬虔に宗教を信仰している人が出て来ない。主人公のダラムパールは、イスラーム教徒を毛嫌いするブラーフマン(バラモン)ではあったが、宗教的な人物でもなく、肉も食べれば酒も飲んだ。ダラムパールと犬猿の仲だった隣人のイスラーム教徒メヘムードにしても、酒を飲むイスラーム教徒であった。ニーラーナンドは偽の宗教家であるし、イマームも強制的に他人を改宗させようとする疑いがあった。ニーラーナンドの信者たちはニーラーナンドを盲従してしまっており、正常な判断力を失ってしまっていた。

 宗教対立がどのように起こるのか、デフォルメした形で示されていた。まずは「イスラーム教徒がニーラーナンド信者の帽子を燃やした」という、本当かどうか分からない噂が提示され、ニーラーナンドはイスラーム教徒に対して「平和な抗議活動」をするように信者たちを扇動する。そこでダラムパールは勢い余ってイスラーム教徒の帽子を燃やしてしまう。それがスマートフォンで撮影され、YouTubeなどでアップされて拡散し、今度はダラムパールがイスラーム教徒の抗議を受ける。このようなリアクションの連鎖が宗教対立を生む様子が描き出されていた。

 皮肉なことに、宗教を信じていなかったダラムパールは、平和な家族生活を送っていた。だが、宗教に手を染めた途端に平和は崩れた。父親は亡くなってしまったし、妻子は去って行ってしまった。その結果ダラムパールが辿り着いたのは、家族の平和こそが最上であり、宗教は人々を団結させて、各家族の平和を築き上げる役割を果たさなければならないというものだった。彼はヒンドゥー教の聖典バガヴァドギーターとイスラーム教の聖典クルアーンを比較し、同じことが書いてあると主張する。また、映画は異宗教間の結婚を忌避するインド社会の風潮にも一石を投じていた。インドにおいて宗教が引き起こす様々な問題を網羅的に触れた映画だと感じた。

 ニーラーナンドは多くの実在の人物の特徴を併せ持っている。彼の正体であるマンジート・マンチャラーは、パンジャービー歌手ダレール・メヘンディーをモデルにしていると思われる。メヘンディーは海外ツアーをする際に自身の楽団に移民希望者を混ぜて海外に連れて行く違法移民の運び屋のような裏稼業をしており、問題となったことがある。宗教家になってからの彼のキャラクターは、物議を醸す宗教家バーバー・ラームデーヴやグルミート・ラーム・ラヒーム・スィンなどを参考にしていると思われる。

 舞台はグジャラート州のアハマダーバードであった。グジャラート州と宗教対立と言えば、2002年のグジャラート暴動が思い付く。ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒が緊張感を保ちながら併存している州のひとつである。また、グジャラート州は禁酒州であり、一般人は普通には飲酒できない。弁護士メヘムードは許可証を持っていたため、酒を購入し、自宅で飲むことができた。

 言語は基本的にヒンディー語だが、グジャラーティー語も混ざっていた。メヘムードの話す言語はウルドゥー語と言ってよい。言語的に面白いのは、メヘムードが話すウルドゥー語特有の音を、ダラムパールがなかなか発音できなかったことだ。ウルドゥー語特有の音というのはつまり、ウルドゥー語が多くの語を借用しているペルシア語特有の音であり、ウルドゥー語の素養のないインド人は聞き分けることも難しい。例えば、「人生」という意味の「ズィンダギー」という単語を、ダラムパールは「ジンダギー」としか発音できなかった。

 「Dharam Sankat Mein」は、実はイスラーム教徒の両親から生まれたことが分かったヒンドゥー教ブラーフマンを主人公にして、宗教のあるべき姿を模索するコメディー映画である。ただ、中盤に重くなる場面があり、必ずしも徹頭徹尾ライトなノリではない。映画のメッセージは明確であり、それに向けた組み立て方にもぶれがなかった。宗教テーマの映画には名作が多く、それらと比べるとパンチ力や斬新さに欠けるところもあるが、観て損はない映画である。