Filmistaan

3.5
Filmistaan
「Filmistaan」

 日本にとって1945年8月15日の太平洋戦争での敗戦が時代の分かれ目となっているように、インドにとって1947年8月15日の印パ分離独立、いわゆるパーティションが古い時代と新しい時代の分水嶺となっている。新生国家パーキスターンにおいては、この日が国家・国民アイデンティティーの実際上の出発点であり、パーティションを肯定的に捉える見方が強いだろうが、インドにとっては、英国の支配からの独立という喜びもある一方で、国の一部を失った喪失感を拭い去ることができない。そして、多くの人々にとって、パーティションは単なる国家の分断ではなく、親しい家族親戚との離散も意味した。そのトラウマはヒンディー語映画でも何度も題材として取り上げられている。日本での劇場一般公開が決定した「Bhaag Milkha Bhaag」(2013年)も、パーティション映画のひとつに数えられる。

 ただ、時代は流れ、分離独立の悲しみを直接経験した世代は徐々に少なくなって来ている。そしてその世代に代わって新しい世代が新しい観点からパーティションを捉え直す試みも増えて来た。映画界においてもそれは当てはまる。分離独立の悲劇を描く場合、当然のことながらパーティションを直接経験した世代を主人公にすることが常であった。そして、インドとパーキスターンが何度も戦火を交え、また両国が再統合される可能性は薄いことが徐々に明確になって行くと、パーキスターンはヒンディー語映画において敵国として登場するようになった。90年代後半からその傾向が顕著となった。また、21世紀に入り、テロが世界共通の敵として共有されるようになると、パーキスターンはテロリストの温床として描写されるようになった。しかし、その一方で、分離独立を直接知らない世代、特にパーティション世代の孫にあたる世代が、何らかの形で国境の両側に分かれた人々を結び付ける役割を果たすような物語も好まれるようになった。このようにヒンディー語映画が様々なパーキスターン像を模索する中で、例えば「Tere Bin Laden」(2010年)のような変わり種も登場した。これはインド映画にも関わらず舞台はパーキスターンであり、パーキスターンを否定的に描写した映画でもない。かなり突き抜けたパーキスターン観が観察される。もはやパーキスターンは「不気味な隣人」ではなくなって来ている。

 「Filmistaan」も、パーキスターンが舞台のインド映画の一種である。インドでは2014年6月6日に公開されているが、2012年から世界各地の映画祭で上映され、高い評価を得ている。2012年の国家映画賞ヒンディー語長編映画賞も受賞している。監督は新人のニティン・カッカル。音楽はアリジート・ダッター、作詞はラヴィンダル・ランダーワー。主演はシャーリブ・ハーシュミー。「Jab Tak Hai Jaan」(2012年)でシャールク・カーン演じるサマルの親友役を務めていた男優である。他にイナームルハク、クムド・ミシュラー、ゴーパール・ダットなどが出演している。題名は「映画の国」という意味だ。

 ムンバイー在住、俳優志望の助監督サニー(シャーリブ・ハーシュミー)は、米国人監督が撮影するドキュメンタリー映画のアシスタントとしてラージャスターン州の国境地帯に来ていた。そこでサニーは、越境して来た武装勢力に米国人と間違われて拉致され、パーキスターンに連れ去られてしまう。サニーは砂漠の村にある家の一室に監禁される。サニーの監視を命じられたのはメヘムード(クムド・ミシュラー)とジャッワード(ゴーパール・ダット)と言う強面のムジャーヒディーン(聖戦士)たちだった。

 サニーが監禁された家にはアーフターブ(イナームルハク)という男が住んでいた。彼の生業は海賊版映画DVDの密売で、インド映画の大ファンだった。彼は毎晩村で上映会を催していた。業界人で映画大好きのサニーとアーフターブはすぐに意気投合する。また、サニーの人懐っこい性格はジャッワードと親しくなるが、メヘムードは彼に常に疑いの目を向けていた。

 アーフターブはサニーの逃亡を手助けするが、メヘムードとジャッワードに捕まり、連れ戻されて彼も監禁されてしまう。武装勢力のボスからサニーは解放されることが許されるのだが、メヘムードは許さず、サニーとアーフターブを国境近くで殺そうとする。しかし、ジャッワードがそれに介入し、メヘムードを殺してしまう。サニーとアーフターブはインドに向けて逃げ出す。駆けつけた武装勢力のボスはインド領土に向けて走る2人を後ろから狙撃する。

 2013年にインド映画は百周年を迎えた。それを祝う映画が「Bombay Talkies」(2013年)だったのだが、この「Filmistaan」も同じくらい映画愛に満ちた作品だった。主なコンセプトは、映画が印パ両国の人々の心をつなげる役割を果たし得ることの提示である。主人公のサニーは大の映画好きで、主要なヒット映画の台詞を全て丸暗記しているばかりか、様々な俳優の物真似に長けた人物である。そんな彼がひょんなことから拉致され、パーキスターンの寒村に監禁されたことで、現地の人々との意外な交流が生まれるという構造になっている。特に、彼の監禁先となった家に住むアーフターブは、サニーに負けないほどの映画好きであった。二人は映画を通してすぐに意気投合する。この二人の友情がそのまま印パの将来的な友好関係への希望につながっていた。

 パーキスターンでなぜインド映画が観られているのか、については少し解説が必要だろう。まず、パーキスターンで観られているインド映画というのは多くがヒンディー語映画であり、次にパンジャービー語映画となる。なぜならこれらの言語は両国で共通しているからである。インドの連邦公用語であるヒンディー語はパーキスターンの国語であるウルドゥー語と言語学的には同一の言語である。また、印パ分離独立時にパンジャーブ地方は東西に分割され、両国にまたがってパンジャービー語話者が存在する。こんな訳で、パーキスターン人はヒンディー語映画やパンジャービー語映画を鑑賞する際、言語の壁を全く感じないのである。また、主人公のサニーはパンジャーブ人であり、ヒンディー語とパンジャービー語の両方を解する。そしてサニーが監禁された村はパーキスターン側のパンジャーブ州に位置する。よって、現地のパーキスターン人との会話に全く支障がなかったのである。

 ただ、実はパーキスターンではインド映画の上映は基本的に禁止されている。パーティション後、しばらくの間はパーキスターンでも普通にインド映画が上映されていたようなのだが、1965年の第2次印パ戦争を機にインド映画の上映が全面的に禁止された。しかし、1980年代になるとビデオが普及し、インド映画の海賊版ビデオが出回るようになった。技術の進歩と共にビデオはVCDとなり、現在はDVDとなっている。パーキスターンのCD/DVD屋に行けば、インド映画の海賊版DVDが山のように売られているのを目にするだろう。パーキスターンはテレビドラマの方が隆盛しており、映画産業が衰退してしまっているため、パーキスターン人は海賊版DVDなどを通してインド映画をよく観ている。だから、対立する国同士の国民であっても、インド映画の話題で盛り上がれるのである。また、ヒンディー語映画で活躍するスター俳優の多くがイスラーム教徒である点も、多少ながらパーキスターン人がインド映画に親近感を覚える要因になっていると分析できる。

 インド人が好む三大話題のひとつが映画なのだが、もうひとつがクリケットである。「Filmistaan」でもクリケットが話題として登場する。両国の人々はクリケットも大好きであり、クリケットの話題で大いに盛り上がるのだが、やはりインド人はインド代表を応援するし、パーキスターン人はパーキスターン代表を応援する。印パ戦ともなると、クリケット熱はそのまま敵対感情に拡大しがちだ。映画愛の物語にわざわざクリケットを持ち出して来た意図を推測するに、映画と比較して、クリケットでは両国の国民が融和するのは難しいということを主張したかったのではないかと感じた。ただ、サニーの台詞の中に、もし印パの国境さえなければ、両国のスター選手が同じチームに揃うことになり、どの国にも負けないだろう、というものがあった。この点だけを抽出するならば、やはりクリケットも印パ親善のネタに使われていたと言えるかもしれない。

 総じて、「Filmistaan」は、映画、スポーツ、文化など、共通の国民性を共有する人々が住む地域に別々の国が存在することのおかしさを指摘していた。そしてその中でも特に映画が、両国の親善の大きな原動力となる可能性があることが主張されていた。このメッセージが、果たして日本を含めた世界中の人々の琴線に触れるかどうかは謎なのだが、少なくとも印パの文脈においては、とても価値のある作品となっていたのではないかと思う。

 ちなみに、劇中には、ヒンディー語映画の名作や名優についての言及が多数出て来る。村の上映会では「Maine Pyar Kiya」(1989年)と「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)が上映されるし、ディリープ・クマール、サルマーン・カーン、サニー・デーオールなど、スター俳優への愛が語られる。過去のヒンディー語映画について知識があればあるだけ楽しめるだろう。「Om Shanti Om」(2007年)辺りからそういう懐古主義的な映画が一種のトレンドとなっている。そういう観点からも「Filmistaan」は評価できる作品だ。