Shirin Farhad Ki Toh Nikal Padi

3.0

 インドでは様々な宗教が信仰されているが、その中でもパールスィー(拝火教徒)のコミュニティーは、人口が少ない割には社会的な影響力が強く、特異である。拝火教はイランで生まれイラン文化圏で発展した宗教だが、イスラーム教の誕生とアラブ人によるイランの征服後に衰退し、10世紀頃にはまとまった数の拝火教徒たちが、イスラーム教への改宗や殺戮を逃れるためにイランからインドにやって来た。亡命して来た拝火教徒が最初に定住したのがグジャラート地方であったため、拝火教徒の多くはグジャラーティー語をしゃべる。その後、英国人がボンベイ(後のムンバイー)に入植すると、多くの拝火教徒がそこへ移り住み、新都市建設の主な担い手となった。ヒンディー語映画の中心地はムンバイーであり、歴史的に多数の拝火教徒たちが演劇や映画制作に関わって来たため、ヒンディー語映画においても拝火教徒のプレゼンスは人口に比べたら非常に高い。「イーラーニー」や「○○ワーラー」という名字の人は大体パールスィーであるが、ヒンディー語映画界にはそのような名字を持つ人がやたら多い。そうでなくても、血統を調べてみると、実はパールスィーの血を引いていたと言う人はさらに多い。もっとも、パールスィーの伝統では、拝火教徒の両親から生まれた子供でなければ完全な拝火教徒とは認められない。

 このように、映画俳優や監督などに拝火教徒が多いこともあって、拝火教徒を主人公にしたヒンディー語映画も少なくない。例えば「Being Cyrus」(2005年)、「Parzania」(2007年)、「Little Zizou」(2008年)、「Ferrari Ki Sawaari」(2012年)などは拝火教徒の家庭に焦点を当てた映画であるし、その他にも、主人公ではないものの拝火教徒の登場人物が登場する映画はとても多い。

 本日(2012年8月24日)より公開の「Shirin Farhad Ki Toh Nikal Padi」も、拝火教徒の家庭を描いた作品である。ロマンス映画はロマンス映画でも、中年の独身カップルのロマンスがテーマと言う変わった風味の映画。プロデューサーは「Devdas」(2002年)などで有名なサンジャイ・リーラー・バンサーリー。圧倒的な美的センスを見せ付けるような芸術的娯楽映画を長らく作り続けて来たのだが、最近になってライトなノリの映画にも手を出している。今年の大ヒット作品「Rowdy Rathore」(2012年)も彼のプロデュースである。「Shirin Farhad Ki Toh Nikal Padi」の監督は、サンジャイ・リーラー・バンサーリーの妹ベーラー・バンサーリー・セヘガル。主演はボーマン・イーラーニーとファラー・カーンである。ボーマン・イーラーニーはその名の通り拝火教徒であり、今回は適役と言える。だが、ヒロインのファラー・カーンは特殊だ。元々優れたコレオグラファーとして知られた彼女は、「Main Hoon Na」(2004年)や「Om Shanti Om」(2007年)などの大ヒット作も監督しているし、テレビでの露出も多く、多彩な活躍を見せている。彼女がスクリーンに登場するのはこれが初めてではないのだが、今まではカメオ程度の出演であり、本作が本格女優デビューとなる。実はファラー・カーンの母親が拝火教徒であり、彼女も拝火教徒の血を引いていることになる。

 ちなみに「シーリーンとファルハド」とは、イランに伝わる悲恋物語である。シェークスピアの「ロミオとジュリエット」のイラン版だと考えても差し支えない。もっとも、この映画はシーリーンとファルハドの物語をベースにしていない。たまたま出会った2人の中年独身男女の名前が、ちょうど有名な悲恋物語の主人公2人と同じだったという伏線のみである。

監督:ベーラー・バンサーリー・セヘガル
制作:サンジャイ・リーラー・バンサーリー、スニールAルッラー
音楽:ジート・ガーングリー
歌詞:アミターブ・バッターチャーリヤ、ファラーズ・アリー
衣装:サブリーナー・スィン
出演:ボーマン・イーラーニー、ファラー・カーン(新人)、カヴィーン・デーヴ、シャンミー、クルシュ・デーブー、デイジー・イーラーニー
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサントクンジで鑑賞。

 ムンバイーに住む45歳独身の拝火教徒ファルハド(ボーマン・イーラーニー)は、同居する母親ナルギス(デイジー・イーラーニー)や祖母からしつこく早く結婚するようにせかされながらも、なかなか理想の女性を見つけられずにいた。大きな障害となっていたのは彼の職業だった。彼は女性用下着店の店員であり、それを聞いたお見合相手は必ず縁談を拒否して来ていた。

 あるときファルハドが勤める店にシーリーン(ファラー・カーン)という中年女性が下着を買いにやって来た。ファルハドは一目惚れし、彼女に必死でセールスする。その後も拝火教徒コミュニティーのお見合いパーティーで彼女と再会するが、電話番号ばかりか、彼女の名前を聞くのを忘れてしまう。シーリーンは、運命が巡り合わせたらそのときは電話番号を教えると言い残し去って行く。

 ところでファルハドの家は父親の代から違法の貯水タンクを設置していた。それがここに来て問題となり、パールスィー・トラストから違法タンクを撤去するためにオフィサーがやって来た。ナルギスはカンカンになり、ファルハドをオフィスへ送って苦情を届けさせる。ところが、違法タンクの撤去を命じた張本人がシーリーンであった。ファルハドは母親からの厳命を忘れてシーリーンとの会話に没頭し、二人はデートを重ねるようになる。

 ファルハドに恋人が出来たことを知ったナルギスと祖母は大喜びする。しかしファルハドは、シーリーンがパールスィー・トラストのオフィサーであることは明かしていなかった。ある日ファルハドはシーリーンを母親と祖母に紹介する。だが、話をしている内にナルギスは彼女がパールスィー・トラストのオフィサーであることを察知し、食べ物を喉に詰まらせてしまう。このことがきっかけでナルギスはシーリーンを忌み嫌うようになる。しかし、祖母はファルハドの味方であった。

 シーリーンもある日ファルハドを家に招く。シーリーンには父親がいたが、長年昏睡状態にあった。シーリーンは毎日父親の看病をしており、それが今まで結婚できなかった大きな理由であった。ファルハドは、彼女の父親を看病することを約束し、彼女に結婚を申し込む。シーリーンもそれを受け容れる。シーリーンには姉もいたが、彼女もファルハドを妹の夫として認める。

 ところが、ナルギスは何とかしてファルハドとシーリーンの仲を裂こうとしていた。ある日ファルハドとナルギスはシーリーンとの結婚を巡って喧嘩をする。そのときちょうどシーリーンの父親の容体が急変した。シーリーンはファルハドに電話をしたが、母親と喧嘩中だったファルハドはその電話になかなか出ず、やっと出ても冷たい言葉を一方的にぶつけるだけだった。シーリーンの父親は何とか命を取り留めるが、シーリーンはファルハドとの婚約破棄を決意する。二人の仲は急に疎遠になってしまう。

 ところがファルハドは諦めなかった。大晦日の日、シーリーンをデートに誘う。最初シーリーンは拒絶しようとしたが、姉の勧めに従ってデートを受け容れる。しかし、シーリーンを迎えに来たファルハドは覗き魔と間違えられてしまい、近所の住民から警察に突き出されてしまう。やっとのことで解放されシーリーンの家に辿り着いたのは元旦の朝だった。だが、2人はなぜか平穏な気持ちだった。昏睡状態の父親の前でファルハドはシーリーンに改めてプロポーズをする。すると、突然父親が目を覚ます。

 こうしてファルハドとシーリーンは何重もの幸せの中、結婚をする。ナルギスもとうとうシーリーンを受け容れたのだった。

 恋愛の主体が中年の独身男女だという点を除けば、ロマンス映画の王道に則った作品だった。しかしながら、拝火教徒コミュニティーを中心に、コメディーを織り混ぜながら丁寧にストーリーを紡いでおり、非常に安定したラブコメ映画となっていた。突出した部分はないが、安心して楽しめる映画である。

 日本でも晩婚化、未婚者人口の増加、少子化そして高齢化社会の問題が取り沙汰されて久しいが、これらの問題において、日本よりも深刻な危機に直面しているとされるのが拝火教徒コミュニティーである。拝火教徒の全人口のおよそ7割はインドに住んでいるとされており、拝火教徒の問題はインドの拝火教徒の問題と捉えても問題ないだろう。2001年の国勢調査によると、インドの現在パールスィー人口は7万人弱であり、独立直後と比べると4割ほど減少していることになる。コミュニティー内での結婚を義務づける風習、女性の高学歴化と社会進出、遺伝子的な問題など、その理由は様々であるが、生涯未婚の人口が比較的多く、結婚しても子供を多く作らないことが、人口減少の直接の原因となっている。インド全体の人口ピラミッドは完全に「富士山型」であるが、インドの拝火教徒コミュニティーだけを抽出すると、日本などの先進諸国でよく見られる「壺型」のグラフとなる。未婚問題だけを切り取っても、おそらく拝火教徒コミュニティーが抱える問題は、日本とそう遠くないはずである。拝火教徒コミュニティーを描くことで、日本人にも共感しやすい内容の作品が出来上がってしまうところは面白い。

 ただ、「Shirin Farhad Ki Toh Nikal Padi」のファルハドとシーリーンが中年になるまで結婚をしなかった理由は、特に宗教やコミュニティーの事情とは関係ないということになっていた。ファルハドは女性用下着店の店員だったため、お見合い相手から敬遠されていたのだった。一方、シーリーンには昏睡状態の父親がおり、彼の看病をしなくてはならなかっために婚期を逃してしまっていたのだった。それでも、台詞やストーリーの端々から、拝火教徒コミュニティーの人口減少の問題が取り上げられていた。

 全体的にはとてもよくまとまったラブコメ映画だったが、いくつか疑問点もあった。ファルハドがシーリーンに一目惚れするところは、もう少し明確な理由が欲しかった。一旦ファルハドと婚約破棄したシーリーンが、ファルハドのデートの誘いを比較的簡単に受け容れてしまうところも、もう少し説明が必要だと感じた。大人のラブストーリーだからと言って、微妙な感情の機微を省いてしまっているようなところがあり、そこは責められて然るべきであろう。インド映画の伝統に則ってダンスシーンもいくつか挿入されていたが、その内のほとんどは蛇足に感じた。もっとも、ヒロインのファラー・カーンは本業がコレオグラファーであり、彼女を踊らせない訳にはいかなかったという理由もあったことだろう。

 ボーマン・イーラーニーは芸幅の広い演技派男優として既にその名を確立させており、彼の演技力については改めて語る必要はない。ただ、脇役や悪役としての出演がほとんどだった中で、今回は正真正銘の主演であり、ボーマン・イーラーニーにとっては、主演作に近い「Well Done Abba」(2010年)と並んで、思い入れの深い作品になったのではないかと思う。

 ファラー・カーンは全く演技をしていなかったと思う。普段の彼女がそのままスクリーンにいた感じだ。それは決して悪いことではない。さすがにコレオグラファーと監督をこなして来た人物だけあって、カメラの前で度胸が据わっているのだろう。今回の女優デビューはおそらくお遊びで、振り付けと監督業に専念すると思うが、女優としてやって行くなら、個性的な脇役が似合うだろう。

 その他の俳優の中で特筆すべきは、ナルギスを演じたデイジー・イーラーニーだ。彼女はファラー・カーンの母方の叔母にあたり、拝火教徒として生まれている。ただ、ヒンドゥー教徒と結婚し、後にキリスト教に改宗しているようで、現在の宗教はよく分からない。ジャーヴェード・アクタルの元妻ハニー・イーラーニーの妹で、ハニーとデイジーの「イーラーニー・シスターズ」は50年代から60年代に掛けて子役として大人気だった。体格もそうだが、表情も非常に迫力のある女優である。

 音楽はジート・ガーングリー。前述の通り、「Shirin Farhad Ki Toh Nikal Padi」のほとんどのダンスシーンは蛇足に感じた。唯一、「Ramba Mein Samba」は「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年)、「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)、「Kabhi Khushi Kabhie Gham」(2001年)など過去の大ヒット作品のパロディーになっていて、ちょっとした楽しみはあった。エンディングの、ファルハドとシーリーンの結婚式で流れるタイトルソングもノリノリの曲でいい。

 「Shirin Farhad Ki Toh Nikal Padi」は、ヒンディー語映画界で時々作られる拝火教徒映画の一種で、突出した部分はないが、よくまとまった中年ラブコメである。コレオグラファー兼映画監督として知られるファラー・カーンが本格女優デビューしている点にも注目。観て損はないが、観なくても損ではないという立ち位置の映画だ。