Dasvidaniya

4.0

 日本にはいわゆる単館系映画というものがあり、映画ファンを自称する人々の多くは、大手劇場で公開されるメジャーな映画よりも、限られた小さな映画館のみで公開される映画を好む傾向にある。単館系映画の多くは、映画祭向けに作られた芸術映画であり、それらは世界各国の映画祭で買い付けて来ているのであろう。「映画大国」インドには、残念ながらそういう独自の視点で世界中から良質の映画を集めて来て公開するような映画館は存在しない。しかし、近年はマルチプレックス(複合スクリーン型映画館)がその役割を果たすようになっており、余ったスクリーンにおいて、単館系映画と呼べるような、小品だが良質の作品が上映される機会が増えて来た。

 しかし、忘れてはならないのは、インドには昔から芸術映画の潮流があったことである。そして、芸術映画にしか出演しない俳優、芸術映画しか作らない映画監督というのも何人かいる。以前、そのような映画人によって作られた映画は、政府の資金援助を受けて制作され、映画祭かカルチャーセンターのような場所でしか上映されなかったのだが、マルチプレックスの隆盛のおかげで、一般上映が行われ、一般人も容易にそれらを鑑賞できるようになり、そして何より興行収入を上げることが可能となった。その結果、必ずしも映画祭での受賞を目指すわけではないが、マルチプレックスでの上映とある程度の興行的見返りを期待して作られる「非娯楽の商業映画」という新たな分野が生まれ、そのニッチな市場を専門のテリトリーとするような映画監督や俳優も生まれて来た。昔から芸術映画に携わって来たナンディター・ダース、ラーフル・ボース、ナスィールッディーン・シャー、シャバーナー・アーズミーなどの名を挙げることも可能なのだが、マルチプレックス時代の到来によって活路を見出した映画人の代表として、僕はラジャト・カプール、ランヴィール・シャウリー、ヴィナイ・パータクらを挙げたい。そして彼らを芸術映画系俳優と区別し、単館系俳優と呼びたい(ラジャト・カプールは監督もしている)。なぜなら、彼らが出演する映画は、日本のいわゆる単館系映画と雰囲気がとてもよく似ているからだ(インドの芸術映画は、偏屈なほど芸術に偏りすぎていることが多い)。彼らは通常の娯楽映画に出演しないこともないのだが、多くの場合、単館系映画に好んで出演する。逆に言えば、彼らが出ている映画は、単館系映画が好きな人には壺にはまりやすいということである。しかも、彼らはお互いに仲がいいようで、共演することもとても多い。記憶に留めておいていい名前であろう。

 現代のインド映画を自分の言葉で大まかに分類すると、以下のようになると思う。

  • 娯楽映画:いわゆるマサーラー・ムービー。歌とダンスとアクションとロマンス盛りだくさんの娯楽大作。もちろんダンスシーンあり。言語はヒンディー語主体。次第に下火になりつつある。
  • クロスオーバー映画:娯楽映画のテイストを存分に残しながら、社会問題に深く切り込んだり、芸術映画的品質を実現した映画。ダンスもあり。言語はヒンディー語主体。現在もっとも勢いのある様式。
  • 単館系映画:興業を目的とした芸術映画。小品だが良質。挿入歌があることもあるが、ダンスはない。言語はヒンディー語か英語。ほとんどのヒングリッシュ映画もこの分類に入る。都市部を中心に静かな人気。
  • 芸術映画:映画祭への出品を目的とした純粋なアート系映画で、興行的成功は度外視。パラレル映画などとも呼ばれる。当然ダンスシーンなし。言語は英語、ヒンディー語、その他現地語諸々。観客は限定されている。

 2008年11月14日に公開された「Dasvidaniya」も、ラジャト・カプール、ランヴィール・シャウリー、ヴィナイ・パータクの3人が共演する単館系映画である。ヴィナイ・パータクが初めてプロデュースし、主演も演じている。題名はロシア語で「さようなら」という意味である。

監督:シャシャーント・シャー
制作:アーザム・カーン、ヴィナイ・パータク
音楽:カイラーシュ・ケール、パレーシュ、ナレーシュ
歌詞:カイラーシュ・ケール
出演:ヴィナイ・パータク、サリター・ジョーシー、ラジャト・カプール、サウラブ・シュクラー、ネーハー・ドゥーピヤー、ジョイ・フェルナンデス、ガウラヴ・ゲーラー、ブリジェーンドラ・カーラー、スチトラー・ピッライ、プールビー・ジョーシー、チャンダン・ビシュト、スヴェティアナ、スレーシュ・メーナン、ソニア・ラッカル、ランヴィール・シャウリー、シュロビ・メーナン
備考:PVRアヌパム4で鑑賞。

 ムンバイーに住む37歳独身の会計士アマル・カウル(ヴィナイ・パータク)は、真面目かつ神経質な性格で、毎朝「今日すべきこと10項目」をしたため、それに従って規則正しい生活を送っていたが、それはとても退屈な人生であった。ところがある日彼は医者から癌を宣告され、余命3ヶ月と診断されてしまい、大きなショックを受ける。

 今までタバコを吸ったことも酒を飲んだこともなかったアマルであったが、ショックのあまりバーへ行って酒を飲む。そこで出会ったジャグタープ(ランヴィール・シャウリー)という伊達男は、既婚ながら2人の恋人を持ち、毎日酒を飲み、人生を楽しんでいた。アマルは人生の不公平を嘆く。

 翌朝、いつも通り「今日すべきこと10項目」を付けていると、突然もう一人のアマルが現れ、彼に「死ぬ前にすべきこと10項目」を付けるように促す。急に人生に生き甲斐を感じ始めたアマルは、まずは数項目を書き出す。それは、新しい車を買うこと、外国へ旅行すること、幼馴染みのネーハーに告白すること、そしてギターを習うこと、同居の母親(サリター・ジョーシー)に最後の孝行をすること、いつもいじめてくるボスに仕返しすることなどであった。

 まずアマルはボスのダースグプター(サウラブ・シュクラー)に同僚たちの前で復讐する。アマルはクビになるが、すがすがしい気分で一杯だった。サヴィオ(ジョイ・フェルナンデス)からギターも習い出す。そして自動車を購入し、ネーハーに会いに行く。あいにくネーハーは既に結婚しており、子供もいたが、別れ際に彼女に子供の頃から好きだったとジェスチャーで伝え、長年の夢を果たす。

 アマルは急に、若い頃無二の親友だったラージーヴ・ジュルカー(ラジャト・カプール)を思い出す。ラージーヴは医者で、東南アジアに住んでいた。早速「死ぬ前にすべきこと」リストに彼の名を書き込む。アマルはラージーヴと連絡を取り、彼に会いに行く。外国旅行も同時に果たすことができ、一石二鳥の旅であった。

 ラージーヴはアマルを歓迎し、自分の家に宿泊させるが、彼の妻はアマルが癌患者であることを察知し、友情を盾に無料でラージーヴに治療をさせに来ているのではないかと勘ぐる。それを聞いてしまったアマルは何も言わずにラージーヴの家を出て行く。

 異国の路上で沈み込むアマルに、ロシア人売春婦のタティアナ(スヴェティアナ)が話しかけてきた。アマルは慌ててしまい、持っていたホットドッグのマスタードソースを彼女にかけて怒らせてしまう。売春婦たちに袋だたきに遭ったアマルは自殺を思い付くが、河に飛び込もうとしていた彼を止めたのが、タティアナであった。アマルはタティアナの家に泊まることになり、そこでそのまま童貞を捨てる。アマルはリストに「ラブ」と書き込み、そこにチェックを入れる。また、新たに「新聞の一面に自分の顔写真掲載」という項目を書き込む。

 ムンバイーに戻ったアマルは、今度は急に弟のヴィヴェーク(ガウラヴ・ゲーラー)のことを思い出す。ヴィヴェークはテレビドラマの監督をしていたが、駆け落ち結婚をして勘当されており、以来ほとんど連絡を取り合っていなかった。アマルはヴィヴェークに自分の病気を打ち明け、死後母親の面倒を見るように頼む。母親も2人の会話を聞いてしまい、アマルの病気を知る。アマルは、サヴィオから習ったギターを、母親とヴィヴェークの前で披露する。

 とうとうアマルは死んでしまった。葬式には母親やヴィヴェークの他、ネーハーやラージーヴも駆けつけた。アマルは死ぬ前に、今まで世話になった人々にプレゼントを贈っていた。また、彼の訃報は新聞の一面には載らなかったものの、三面に写真付きで掲載された。

 生きとし生けるものが必ず直面しなければならない「死」は古今東西で名作映画の不朽のテーマのひとつであり、インドでも過去に死を前にした人を主人公にした映画が作られて来た。過去の名作では「Anand」(1971年)、21世紀の名作では「Kal Ho Naa Ho」(2003年)が代表的だ。「Dasvidaniya」は、余命3ヶ月を宣告された主人公が余生を思いっ切り楽しむことがテーマの映画で、それらの過去の名作に劣らず素晴らしい映画であった。

 「死」をテーマにした映画で必ずと言っていいほど口にされる台詞が、「世界は美しい」である。死を前にした人間は、世界の美しさを殊更によく感じるものなのだろうか。「Dasvidaniya」でもやはりその台詞が出て来た。主人公アマルは、ベランダからの風景を気に入って高層マンションの一室に住み始めた。当初は毎日ここに座って風景を見ながらコーヒーでも飲んでのんびりしようと考えていた。だが、日々の忙しさに忙殺され、今まで洗濯物を干すためしかベランダには出なかった。だが、死を前にし、ベランダに座ってのんびり外を眺める時間がもっとも楽しみになり、そこで世界の美しさを噛みしめるのであった。また、余命が少ないことを知って彼はバラバラだった家族を今一度ひとつにすることに成功する。死をポジティブに受け入れることで、どれだけ残された人々に幸せをもたらすことができるか、そしてそれによってどれだけ幸せに死ぬことができるか、そういうメッセージが映画に込められていた。

 しかし、映画は暗くなり過ぎないようにバランスが取られており、コメディー映画として見ても十分成り立つほど、笑ってしまうシーンが多かった。その辺りのユーモアがインド人の死生観の強さであろう。

 題名の「Dasvidaniya」は前述の通りロシア語の単語である。東南アジアの国(おそらくタイ)でロシア人の売春婦と懇意になることでアマルが覚えたロシア語のひとつで、映画中でも数回出て来ていたが、その中には言葉遊びも隠されているようだ。まず、映画の結末で示されたように、冒頭の「Das」がヒンディー語の「ダス(10)」と、真ん中の「id」が英語の「ID」と掛けられており、つまり「10のID」という意味が込められていた。アマルが「死ぬ前にすべきこと」リストに書き出した10の項目は、そのまま彼の人生の縮図であり、それが「10のID」となっていた。また、ヒンディー語で「別れ」を「ヴィダー」と言うが、「Das」と「Vida」で「10の別れ」という意味にもなり、この意味も込められているのではないかと予想された。ちなみに映画の副題は「The Best Goodbye Ever(今までで最高のさようなら)」である。

 主人公アマルはジェスチャーで言いたいことを表現するのに長けているという設定で、それが幼馴染みのネーハーへの愛の告白や、言葉の通じないロシア人売春婦との交流で役立っていた。インド人が好んで遊ぶ遊びのひとつであるジェスチャーゲームは、「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)でも効果的に使われていた。

 先日見た「Sorry Bhai!」(2008年)と同様に、過去のインド映画や往年の名優へのオマージュも巧みにストーリーに織り込まれていた。前述の「Kal Ho Naa Ho」とミトゥン・チャクラボルティーが特筆すべきである。アマルは、「Kal Ho Naa Ho」のテーマソングをギターで弾こうとしていたし、アマルと親友のラージーヴは、ミトゥンの熱烈なファンであった。

 ヴィナイ・パータクは、既に「Fire」(1996年)の頃から俳優としてキャリアをスタートさせていたが、長らく脇役俳優に過ぎなかった。定評が得られるようになったのは、主演に抜擢された「Bheja Fry」(2007年)がスマッシュヒットしたのがきっかけである。以後、様々な映画で重要な役を演じて来ており、すっかり定着している。特に極度に几帳面な性格の役が似合い、「Bheja Fry」や「Aaja Nachle」(2007年)などでそのような役を演じてた。今回演じたアマル役もその延長線上にある。

 ラジャト・カプールやランヴィール・シャウリーの出番は少なかったが、いいアクセントになっていた。ネーハー・ドゥーピヤーは、娯楽映画路線ではいまいち成功していないのだが、クロスオーバー映画や単館系映画に活躍の場を求めるようになっており、徐々に落ち着きのあるいい女優となって来ている。これから推移を見守りたい。

 カイラーシュ・ケールが作詞作曲に関わっており、しかも歌ってもいる。彼の悲痛感溢れる歌声は、映画のテーマとピッタリであった。

 「Dasvidaniya」は、「死」という重いテーマを扱っており、しかも最後に主人公が本当に死んでしまうという悲しい結末が待っているにも関わらず、終始ユーモアとウィットに富んだ描写がしてあり、とても後味のいい作品に仕上がっている。現代インド映画の多様性と底力を知ることができる佳作である。