Sorry Bhai!

3.0
Sorry Bhai!
「Sorry Bhai!」

 最近インドのポップ音楽シーンを代表するミュージシャンとなっているのがラッビー・シェールギルである。ラッビーは2004年にアルバム「Rabbi」でデビューしたシンガーソングライターであるが、ターバンをかぶり、髭を生やした典型的スィク教徒の外観をしていながら、アコースティックギターをかき鳴らし、清涼感溢れる声でパンジャービー語の歌を歌うスタイルが受け、アルバム「Rabbi」はベストセラーとなり、一躍スターダムに躍り出た。2008年にはセカンドアルバム「Avengi Ja Nahin」をリリースし、やはりヒットさせている。そのラッビー・シェールギルが裁判所に上映中止の訴訟を起こしたのが、2008年11月28日公開のヒンディー語映画「Sorry Bhai!」であった。どうやら映画中に彼の曲が無断で使用されたらしい。映画制作者側は、彼の曲が使われた部分をカットすることで対応し、何とか上映可となった。「Sorry Bhai!」は、クロスオーバー映画(アート映画と娯楽映画の中間)に部類される作品で、おそらく静かに公開され静かに去って行くタイプの映画だったのだが、この問題があったために世間の注目を浴びることになり、結果的に興行上プラスの方向に作用しているようである。

監督:オニル
制作:ヴァーシュ・バグナーニー
音楽:ガウラヴ・ダヤール
歌詞:アミターブ・ヴァルマー
出演:シャバーナー・アーズミー、ボーマン・イーラーニー、サンジャイ・スーリー、シャルマン・ジョーシー、チトラーンガダー・スィン
備考:PVRアヌパム4で鑑賞。

 スィッダールト・マートゥル(シャルマン・ジョーシー)は、「全ては生きている」理論を研究する物理学生で、木製の犬を思念の力で飛ばす実験をしており、人々から馬鹿にされていた。ある日、モーリシャスに住む兄ハルシュ(サンジャイ・スーリー)から電話があった。なんとモーリシャスで結婚すると言う。突然の独断に、母親のガーヤトリー(シャバーナー・アーズミー)はヘソを曲げたが、父親のナヴィーン(ボーマン・イーラーニー)は、ガーヤトリーとスィッダールトを連れてモーリシャスへ行く。

 ハルシュの結婚相手はアーリヤー(チトラーンガダー・スィン)という名であった。ガーヤトリーは最初から虫の居所が悪かったが、アーリヤーの両親が結婚式に来ないことを知って不審に思い、それを執拗に彼女に質問する。アーリヤーも、ガーヤトリーのその態度に腹を立てる。ナヴィーンとスィッダールトは何とか二人の女性を近づけないように気を遣い始める。

 ハルシュは証券会社を経営しており、今度ニューヨークにオフィスを設立しようとしていた。だが、仕事のことばかりを考えるようになったハルシュを見てアーリヤーは孤独を感じていた。ハルシュが多忙で、ガーヤトリーとは険悪だったため、アーリヤーは自然にスィッダールトと行動を共にするようになる。その中で2人はお互いに惹かれ合ってしまう。

 結婚式の前夜。ニューヨーク株式市場が暴落し、ハルシュの顧客がパニックに陥ったため、彼はニューヨークへ飛ばなければならなくなる。アーリヤーは結婚式の延期を受け容れる。だが、彼女には別の考えがあった。この猶予期間を使って、スィッダールトを口説こうと思っていたのだった。アーリヤーはマートゥル家をキャンプに連れて行く。だが、ガーヤトリーは鋭い勘で、スィッダールトとアーリヤーの仲に異変があることに気付く。夜にガーヤトリーはアーリヤーのテントへ行き、胸を開いて話をする。その中で、アーリヤーの両親が既に離婚しており、別々の人と結婚していること、そして初めて愛の意味を教えてくれたのがハルシュであることを知る。ガーヤトリーは、自分の疑いが誤解であったと気付いた上に、アーリヤーに同情し、一転して彼女をかわいがるようになる。アーリヤーも、スィッダールトを忘れ、ハルシュと結婚することを決める。

 ハルシュがニューヨークから戻り、再び結婚式の準備が始まった。ところが、スィッダールトとアーリヤーはふとした拍子に欲望に身を任せてしまう。もはや後戻りはできなかった。スィッダールトはハルシュに真実を打ち明ける。だが、それを聞いたガーヤトリーは、スィッダールトとアーリヤーの結婚を絶対に認めない。スィッダールトは母の名に誓ってアーリヤーとは結婚しないと言わされる。こうして、ハルシュとアーリヤーの結婚も、スィッダールトとアーリヤーの結婚も行われないことになってしまった。

 この袋小路に苛立ったナヴィーンは、普段は穏やかな性格であったが、遂に我慢できなくなってガーヤトリーを叱る。そして、誓いを破ることなくスィッダールトとアーリヤーの結婚を実現させる方法を考案する。それは、結婚せずに2人を夫婦にすることだった。ガーヤトリーは、自分の死後に結婚するように二人に言う。こうして、スィッダールトとアーリヤーは、結婚式を挙げずに夫婦生活を送るようになる。

 11年後。ガーヤトリーが死んで2年が経っていた。スィッダールトとアーリヤーは晴れて結婚式を挙げる。

 「My Brother… Nikhil」(2005年)や「Bas Ek Pal」(2006年)のオニル監督が送る、ハイセンスな恋愛劇。簡単に言えば、兄のフィアンセに弟が恋してしまってさあ大変という何の変哲もないストーリーなのだが、テレビドラマのように無闇に人間関係をドロドロとさせず、現代的クールさと絶妙なウィットでもって冷静に一家の各人の心情を追っており、近親間略奪愛という一見低俗なストーリーを驚くほど清涼感あるストーリーにまとめ上げていた。その点で高く評価されてしかるべきであろう。

 あらすじでは触れなかったが、この映画で非常に重要な要素となっていたのは、「マー・カサム(母に誓って)」という言葉である。ハルシュとスィッダールトの兄弟は子供の頃、名優ダルメーンドラのファンで、ダルメーンドラが何らかの映画でしゃべった「マー・カサム」という台詞をよく2人で言い合っていた。「母に誓う」ということは、つまりその誓いを破ったら母を失うということである。あるとき、スィッダールトはその誓いを破ってしまったことがあり、ちょうどそのとき母ガーヤトリーが重病になってしまった。幼いスィッダールトは「マー・カサム」のせいでそうなったと考え、以後その言葉を慎重に使うようになった。だから、映画の終盤で、ガーヤトリーの前で母の名においてアーリヤーとは結婚しないと誓ったスィッダールトは、絶対にアーリヤーとは結婚しようとしなかったのである。

 「マー・カサム」という台詞がどの映画で使われていたのかは、映画中特定されていなかったが、それ以外にも「Sorry Bhai!」では過去の名作の名台詞がさりげなく使われていた。例えば「Sholay」(1975年)の「テーラー・キャー・ホーガー・カーリヤー?(お前はどうなるかな、カーリヤー?)」が、「テーラー・キャー・ホーガー・アーリヤー(お前はどうなるかな、アーリヤー?)」となって使われていたり、ハリウッドの傑作「カサブランカ」(1942年)の名台詞「君の瞳に乾杯(Here’s looking at you, kid)」が出て来たりと、注意深く見ていると映画ファンには面白い発見があった。

 スィッダールトが研究中の「全ては生きている」理論がどのようなものかは分からないが、彼が常に携帯する木製の犬は、なかなか面白い効果を出していた。スィッダールトの理論では、脳から一定の周波数を出すとその犬が動き出すのであるが、実験中にその犬が動いたことはなかった。だが、映画中少なくとも2度、おかしなタイミングで犬が動いており、しかもそれに誰も気付いていないところが面白かった。

 だが、この映画の中で監督がもっとも伝えたかったメッセージは、ボーマン・イーラーニー演じるナヴィーンが妻ガーヤトリーに叱責して言う言葉であろう。ガーヤトリーは強気な女性で、家の全てを取り仕切っていた。2人の息子も母親には逆らえなかったし、ナヴィーンも常に彼女に気を遣っていた。だが、スィッダールトとアーリヤーの結婚に反対するガーヤトリーを見てナヴィーンは怒りを爆発させる。「何が本当に子供たちの幸せになるか考えてみろ!お前は自分のことを強いと思っているかもしれないが、本当の強さは、お前たちを自由に行動させながらお前たちのものでいることを受け容れているこの俺だ!」この映画の真の主張は、社会的地位の向上によって傲慢になりつつある女性一般に対する、忍耐強い男性側からの反撃なのかもしれない。

 キャスティングも絶妙であった。演技に定評のある俳優を起用していることもあるが、それよりも、それぞれのキャラクターにピッタリの俳優を起用し、自然な演技をさせていることに、この映画の長所があった。シャバーナー・アーズミーやボーマン・イーラーニーの演技も素晴らしかったが、やはりシャルマン・ジョーシーの成長が嬉しい。「Style」(2001年)の頃はこのまま半分コメディアンの二流男優に留まるのかと思っていたが、「Rang De Basanti」(2006年)できっかけを掴み、「Life In A… Metro」(2007年)あたりで大きな方向転換に成功した。娯楽映画もアート映画もこなせるマルチ男優として脱皮しそうだ。

 「Sorry Bhai!」は全体的にアート映画のオーラをまとっていたが、途中いくつか挿入歌が挿入され、娯楽映画のテイストも取り入れていた。だが、はっきり言って必要はなかった。また、英語映画またはヒングリッシュ映画のようなストーリーであったが、基本言語はヒンディー語である。典型的クロスオーバー映画と言える。

 「Sorry Bhai!」は、ストーリーに目新しいものはないが、ストーリーテーリングにセンスを感じさせられた映画であった。普通のインド娯楽映画ファンが観ても退屈であろうし、インド映画試食の段階の人にも勧められないが、現在のインド映画は決していわゆる「歌って踊って」ではないことを証明する作品のひとつだと言える。