Sholay

5.0
Sholay
「Sholay」

 1975年8月15日に公開されたヒンディー語映画「Sholay(炎)」は、インド人の心に永遠に刻み込まれていくであろう傑作として、インド映画史において他の追随を許さない特別な地位を獲得している。公開から半世紀が過ぎても、その輝きは少しも失われていない。この作品については方々で語り尽くされている感があり、このレビューで新たに何かを加えることはできないだろうが、インド映画を語る上で絶対に避けて通れない作品であり、責務を果たすつもりで、この映画のレビューを書くために筆を取った次第である。

 監督はラメーシュ・スィッピー。1970年代から90年代に活躍した映画プロデューサー、GPスィッピーの息子であり、既に「Andaz」(1971年)と「Seeta Aur Geeta」(1972年)を監督して稼げる若手監督と目されていた。ラメーシュにとって「Sholay」は監督第3作になる。また、GPスィッピーは「Sholay」のプロデューサーを務めている。

 音楽監督は、ヒンディー語映画界でもっとも尊敬される音楽家の一人、RDブルマン、作詞はアーナンド・バクシーである。「Sholay」は映画自体も大ヒットしたのだが、音楽についてもどれも傑作ばかりで、やはりインド人からこよなく愛されている。

 脚本は、当時「サリーム=ジャーヴェード」というデュオ名で活動していたサリーム・カーンとジャーヴェード・アクタル。サリームは「3カーン」の一人サルマーン・カーンの父親、ジャーヴェードは「Bhaag Milkha Bhaag」(2013年/邦題:ミルカ)などのファルハーン・アクタルの父親に当たる。

 オールスターキャストの映画で、まずは当時トップスターだったダルメーンドラと「Seeta Aur Geeta」に主演し人気沸騰中だったヘーマー・マーリニーがメインのヒーロー・ヒロインとしてカップリングされている。この二人は後に結婚する。アミターブ・バッチャンも主演の一人であるが、クレジットでは彼らの下に名前があり、セカンドヒーロー扱いで、「Sholay」公開前はまだそれほどの人気ではなかったことが分かる。ただ、彼もこのとき既に「Zanjeer」(1973年)などのヒット作に主演しており、決して知名度がなかったわけではない。また、セカンドヒロインとしてジャヤー・バードゥリーが起用されているが、彼女は後のジャヤー・バッチャンである。つまり、「Sholay」で共演しカップリングされたカップルは後に本当の夫婦になった。

 忘れてはならないのは悪役である。「Sholay」の悪役ガッバル・スィンはインド映画史に残るキャラとなり、今でも語り継がれている。ガッバルを演じたアムジャド・カーンはこのとき新人であり、大抜擢であった。また、ガッバルの片腕サーンバーを演じたマック・モーハンにとっても、この映画は出世作になった。ただし、彼らについては「Sholay」でのインパクトが強すぎて、その後、この映画を超える活躍はできず、一発屋に等しい存在でもある。

 他に、サンジーヴ・クマール、アスラーニー、AKハンガル、ジャグディープなどが出演している。また、ヘレンがアイテムソング「Mehbooba Mehbooba」にアイテムガール出演している。

 劇場公開版の上映時間は198分だったが、これは中央映画認証局(CBFC)によって暴力シーンなどにカットが入った後のものだったようだ。ビデオ販売時にはディレクターズカット版である204分のものが世に出た。ただ、今回鑑賞したDVDの上映時間は190分であり、それらよりも短いバージョンになる。また、「Sholay」のエンディングには複数のバージョンが確認されているが、鑑賞したのは、暴力的でない方のものである。「Sholay」を語る際には、このような異なるバージョンの存在も頭に入れる必要がある。

 有名な話であるが、「Sholay」は米映画「荒野の七人」(1960年)のリメイクである。ただ、「荒野の七人」自体が黒澤明監督の「七人の侍」(1954年)のリメイクであるため、「Sholay」は間接的に日本映画の影響を受けて作られた作品ということになる。強盗の略奪に悩む農民たちが用心棒を雇うというプロットは共通しているが、用心棒の数が「Sholay」では二人になっており、それをダルメーンドラとアミターブ・バッチャンが演じる。

 北インドの僻地にある農村ラームガルの地主タークル・バルデーヴ・スィン(サンジーヴ・クマール)は、二人の泥棒を探していた。ジャイ(アミターブ・バッチャン)とヴィールー(ダルメーンドラ)である。かつてタークルは警察官をしており、ジャイとヴィールーの勇敢さを目の当たりにしていた。刑務所で懲役をしていたジャイとヴィールーは刑期を終えた後、タークルと会い、ラームガルに呼ばれる。

 ラームガルは、ガッバル・スィン(アムジャド・カーン)という賞金首の恐ろしい盗賊の恐怖にさらされていた。タークルは警察官をしていたときにガッバルを逮捕したが、彼はすぐに刑務所から逃げ出し、復讐としてタークルの家族の大半を殺戮した。タークルも両腕を切り落とされていた。タークルはガッバルへの復讐に燃えており、ジャイとヴィールーに、多額の報酬と引き換えにガッバルを生け捕りにする仕事を与える。

 また、ヴィールーはラームガルの馬車使いバサンティー(ヘーマー・マーリニー)と恋に落ち、ジャイもタークルの亡き息子の妻ラーダー(ジャヤー・バードゥリー)に惚れる。ジャイとヴィールーはそれぞれの恋を育みながら、ガッバルとその盗賊たちと抗争を繰り広げる。

 ガッバルはヴィールーとバサンティーを捕まえるが、ジャイが救出に来て彼らを逃がす。だが、逃亡中にジャイはヴィールーの代わりに命を落とす。怒ったヴィールーはガッバルのアジトに突入し、ガッバルを打ちのめす。だが、とどめはせず、タークルに後は任せる。タークルは足を使ってガッバルを攻撃して圧倒し、最後に殺そうとするが、タークルを慕う警察官に制止され、ガッバルは逮捕される。

 ヴィールーはバサンティーと共にラームガルを去って行く。

 インド娯楽映画のお手本ともいえる作品だ。この中にインド映画に必要な要素は全て詰まっている。3時間を越える長尺の映画ながら、全く長さを感じず、要所にアクション、コメディー、ダンスを散りばめ、最初から最後まで飽きさせない展開になっている。

 あらゆる娯楽要素が詰まっているとはいえ、まずもっとも心に残るのは友情である。ジャイとヴィールーの来歴はあまり明らかになっていないのだが、長らく一緒に軽犯罪に手を染めてきた心優しいゴロツキたちだ。時々小競り合いをしながらも、固い友情で結ばれており、彼らの間のコミカルなやり取りや、アクションシーンでの見事なヒーロー振りには心が躍る気持ちがする。冒頭、ジャイとヴィールーがサイドカー付きオートバイに乗って歌う名曲「Yeh Dosti(この友情)」は、現在までインドの友情賛歌として歌い継がれている。ただ、映画の最後までこのコンビが続くことはなく、残念ながらジャイは命を落としてしまう。それでも、ジャイが自分の命よりも親友ヴィールーの幸せを最優先したことが分かり、観客は友情の尊さを痛感する。

 ジャイとヴィールーの友情を端的に表したアイテムが両面「表」のコインである。序盤の台詞の中で、ジャイとヴィールーの人柄について「偽コインは偽コインだ」、つまり「犯罪者は結局のところ犯罪者だ」と表現したものがあるが、それが伏線になっている。ジャイとヴィールーは何か物事を決めるときにコイントスを行って決めていたが、ジャイが使っていたコインは両面が「表」の「偽コイン」であった。つまり、コイントスで半々の確率で物事を決めていたわけではなく、ジャイが全てを決めており、自分の決断を「表」にしてコイントスをしていたのである。そして無邪気なヴィールーはそれにずっと気付かなかった。命が危険にさらされたときにもコイントスは行われ、ジャイはヴィールーを逃がす道を選ぶ。そして彼は命を落とす。「偽コイン」が最高の友情を象徴するアイテムになっているが、これは「犯罪者は結局のところ犯罪者だ」という序盤の偏見を覆すメッセージにもなっている。

 題名の「Sholay」とは「炎」という意味のヒンディー語単語「शोलाショーラー」の複数形であり、正確に訳すならば「複数の炎」「炎たち」という意味になる。劇中には炎上する場面が複数登場するが、「炎」がもっとも連想させる抽象的な事物は「復讐」であり、「Sholay」は復讐の物語と捉えることもできる。家族をほぼ皆殺しにされ、両腕を切り落とされたタークルのガッバルに対する復讐がもっとも強烈だが、ガッバルも自分を逮捕したタークルへの復讐としてそのような行為を行ったのであり、またジャイを殺されたヴィールーも怒り狂ってガッバルに復讐しようとする。

 だが、決して暴力を手放しで礼賛する映画にはなっていなかった。もし善玉まで復讐に身を任せてしまったら、善玉と悪玉の違いがなくなってしまう。鑑賞した「Sholay」のエンディングでは、タークルはガッバルを殺す直前に元警察官としての使命を思い出し、彼の身柄を警察に委ねるというものになっている。別のバージョンではタークルがそのままガッバルを惨殺するというものもあるようだが、よりストーリーに深みを持たせるのならば、ガッバルが逮捕されるこのバージョンの方が優れている。復讐は復讐の連鎖しか呼ばない。また、どの国の法律も私刑を許していない。どこかで復讐の連鎖に歯止めを掛け、司法の手に犯罪者を委ねなければならない。どうも、ラメーシュ・スィッピー監督の本心はガッバルの死で終幕としたかったらしいが、CBFCの指示を受けて、警察の到着でエンディングを迎えるシーンに変更したとされる。それでも、この非暴力的なエンディングにしたことで、「Sholay」は単なる大衆向け娯楽映画からの脱却に成功したといえる。

 それでも、盲目的に非暴力主義に賛同した映画でもなかった。ラームガルの村人たちは、村で尊敬される盲目のイマーム(イスラーム教指導者)の息子アハマドがガッバルによって殺されたとき、ガッバルに降伏する道を選ぼうとする。これ以上、子供たちが殺されるのに耐えられなかったからだ。そして、その屈服を「非暴力」と呼ぶ村人もいた。それを止めたのがイマーム自身だった。彼は、不正や巨悪にはどれだけの犠牲を払ってでも立ち向かうことを村人たちに訴える。自分の息子の死を「殉死」と呼び、可能ならばさらに多くの殉死を望むとまで言い放つ。その言葉に弱腰だった村人たちは勇気を奮い起こし、ガッバルに立ち向かうことを決意する。

 映画のメインテーマではなかったが、寡婦再婚問題についても触れられていた。インド社会では寡婦の再婚がタブー視されてきた。女性は一度夫を亡くすと、その後はずっと寡婦として、質素に暮らすことを余儀なくされる。この悪習を改善しようとする運動は19世紀から行われているものの、まだまだ寡婦再婚は公に認められていない。「Sholay」では、ラーダーが寡婦であった。そして、ジャイとラーダーの間に恋が芽生える。ラーダーの義父であるタークルも、彼女の幸せのために、ジャイとの結婚を半ば認める。だが、結局ジャイは死んでしまい、ラーダーの再婚は実現しない。この辺りは、社会的な因習に一石を投じたものの、ギリギリのところで本題から逃げてしまっている。

 ヴィールーとバサンティーの恋愛は、「Sholay」の中でもっともカラフルなものだ。陽気なヴィールーと天然ボケのバサンティーの会話自体が面白い。ヴィールーが貯水タンクの上に上がって、バサンティーとの結婚を認めてくれなければ飛び降り自殺すると村人たちを脅すシーンは、これまた「タンキー・シーン」と呼ばれテンプレート化されている。ガッバルに捕らえられたヴィールーの命を救うため、炎天下、ガラスの破片の上で死の踊りを繰り広げる「Haa Jab Tak Hai Jaan」も名シーンである。個人的には一番グッと来る場面である。

 映画の大部分はカルナータカ州南部のラーマナガラで行われた。ゴロゴロした岩の風景はカルナータカ州特有のもので、世界遺産にもなっているハンピーが有名だが、ハンピー以外にも同様の風景は各所で見られる。「Sholay」ロケ地を訪ねてラーマナガラまで行ったことはあるが、現地人はほとんど自分の住んでいる場所が「Sholay」のロケ地であることを知らず、正確な撮影場所の特定はできなかった。

 「Sholay」は、インド映画史に燦然と輝く伝説的な大傑作である。インド娯楽映画を定義付け、アミターブ・バッチャンの人気を不動のものとし、国歌級に愛され続けられる名曲を提供し、多くのパロディーのネタにもなった。興味深いことに、公開当初は批評家から酷評され、興行の滑り出しも悪かったのだが、口コミにより大ヒットに化け、伝説級の映画に成長した。半世紀前の映画ではあるが、古さは感じさせない。間違いなく必見の映画である。