
2026年5月1日公開の「Raja Shivaji」は、マラーター王国の創始者シヴァージー(1630-1680年)の伝記映画である。マラーティー語とヒンディー語のバイリンガルで公開されたが、オリジナルはマラーティー語と考えていいだろう。マラーティー語映画としては過去最大となる7億5千万ルピーの予算を投じて製作され、マラーティー語映画として初となる興収10億ルピー超えを達成した記念碑的作品だ。鑑賞したのはヒンディー語版である。
近年、ヒンディー語映画界では、マラーター王国の英雄たちが次々に映画化されていた。ランヴィール・スィン主演「Bajirao Mastani」(2015年)、アジャイ・デーヴガン主演「Tanhaji」(2020年)、ヴィッキー・カウシャル主演「Chhaava」(2025年)である。どちらも大ヒットになり、映画メーカーたちの注目を集めた。ただ、マラーター王国関連の最大の英雄といえば、「チャトラパティ」の称号を持つシヴァージーだ。シヴァージーの映画が作られるのは時間の問題であり、もはや最大の関心は、いつ誰がどのようにシヴァージーの映画を作るのかであった。その重責を担うことになったのが、リテーシュ・デーシュムクだった。かつてマハーラーシュトラ州の州首相を務めたマラーター人の政治家ヴィラースラーオ・デーシュムク(1945-2012年)の息子で、ヒンディー語映画界で一定の地位を確立している俳優リテーシュは、既に「Ved」(2022年)で監督デビューを果たしているが、今回彼は、プロデューサー、監督、主演を一手に引き受け、歴史エピック映画として「Raja Shivaji」を送り出した。あえてマラーティー語をメインにした戦略からは、近い将来、父親の後を継いで政界に進出しようという意思が見え隠れする。ただし、彼の兄や弟は既にインド国民会議派(INC)の政治家になっている。
また、「Ved」のプロデューサーは、リテーシュの妻ジェネリアであった。リテーシュとジェネリアはヒンディー語映画界切ってのオシドリ夫婦で知られる。「Raja Shivaji」でもジェネリアはシヴァージーの妻サーイーバーイー役を演じており、改めて夫婦仲の良さを見せつけている。
音楽はアジャイ=アトゥル、ヒンディー語歌詞の作詞はマノージ・ムンタシル。マラーティー語の歌詞はアジャイ=アトゥルが書いている。撮影監督はサントーシュ・シヴァンである。
リテーシュ・デーシュムクとジェネリア・デスーザ以外のキャストは、サンジャイ・ダット、アビシェーク・バッチャン、ヴィディヤー・バーラン、マヘーシュ・マーンジュレーカル、ファルディーン・カーン、バーギヤシュリー、サチン・ケーデーカル、アモール・グプテー、ボーマン・イーラーニー、ジテーンドラ・ジョーシー、モーヒト・タカルカル、アショーク・サマルト、スレーシュ・ヴィシュワカルマー、ミール・サルワール、ラージェーシュ・マープースカルなどである。サプライズとして、サルマーン・カーンがラストに少しだけ顔を出す。
これらの顔ぶれは、マラーティー語映画としては異例の豪華キャストであり、たとえヒンディー語映画として見ても普通ではない。リテーシュが業界内に持つ影響力を強く感じさせるキャスティングである。
映画を観る前は、題名にシヴァージーの尊称として、マラーター王国の支配者に特有の称号「チャトラパティ(Chhatrapati)」ではなく、より一般的な称号である「ラージャー(Raja)」が使われているのが気になった。「Raja Shivaji」は3時間を超える長尺映画だが、実はシヴァージーの人生を全て描ききっておらず、続編の製作を視野に入れて作られている。おそらく続編の題名は「Raja Shivchhatrapati」になるはずである。「Raja Shivaji」では、シヴァージーが「チャトラパティ」を名乗る前までを描いており、クライマックスにはプラガープガルの戦いが置かれている。この戦いでシヴァージーは、彼を攻め滅ぼそうとしたビージャープル王国の将軍アフザル・カーンを和平の場におびき寄せて暗殺し、戦局を逆転させた。このエピソードはマラーター人なら誰でも知っている有名なものだ。
デカン地方では、シャージャハーン(ファルディーン・カーン)のムガル帝国、ムルタザー・ニザームシャー(ラージェーシュ・マープースカル)のアハマドナガル王国、ムハンマド・アーディルシャー(アモール・グプテー)のビージャープル王国が群雄割拠し、マラーター人の各豪族はこれらの王国の支配を受けていた。マラーター人の頭領シャーハージー・ボースレー(サチン・ケーデーカル)はアハマドナガル王国に仕えていたが、ムガル帝国から攻撃を受けるとビージャープル王国に寝返り庇護を受ける。シャーハージーはプネーの所有を認められるが居留を認められず、バンガロールに移動する。
シャーハージーには、妻ジージャーバーイー(バーギヤシュリー)との間に長男サーンバージー、通称シャンブー(アビシェーク・バッチャン)と次男シヴァージー(リテーシュ・デーシュムク)がいた。シャーハージーはシャンブーをそばに置き、シヴァージーは母親と共にプネーに住む。成長したシヴァージーは「スワラージヤ(自治)」を実現するため、ビージャープル王国の領地を荒らし回って占領していた。ムハンマド・アーディルシャーは手を焼くが、将軍アフザル・カーン(サンジャイ・ダット)はシャーハージーを捕らえ、幽閉する。シャンブーは父親を救出するためビージャープルへ向かうが、シヴァージーはシャージャハーンの四男ムラード・バクシュを通じてムガル帝国と交渉し、シャーハージーの処刑を止める。ムハンマド・アーディルシャーはシャーハージーの解放を認める代わりに、シャンブーをアフザルの部下にした。その後、アフザルはシャンブーを戦場で騙し討ちし殺害する。
シャンブーの訃報を聞いたジージャーバーイーはシヴァージーにアフザル殺害を命じる。シヴァージーはラーイガルやジャーウラーを占領し、ビージャープル王国に反旗を翻す。ムハンマド・アーディルシャーは死去し、その妻カーディジャー・スルターナー(ヴィディヤー・バーラン)が実権を握る。カーディヤーはアフザルにシヴァージー討伐を命じる。アフザルは大軍を率いてシヴァージーを攻め立て、シヴァージーは退却を繰り返す。シヴァージーはプラタープガルに立て籠もり、アフザルを迎え撃とうとする。だが、そこで雨期が来たため、戦線は膠着する。
シヴァージーの使者パント・ゴーピーナート・ボーキル(ジテーンドラ・ジョーシー)とアフザルの使者クリシュナジー・バースカル・クルカルニー(モーヒト・タカルカル)は交渉し、和平の道を探る。シヴァージーはアフザルをジャーウラーに呼び、アフザルも最終的にはそれを受け入れる。アフザルは和平の場でシヴァージーを刺殺しようとするが、シヴァージーは鎖かたびらを着ていて無事だった。シヴァージーは隠し持っていた武器で反撃し、アフザルを殺す。護衛の兵たちで戦いが起きるが、シヴァージーの軍勢がアフザルの軍勢を圧倒し、勝利する。ただ、ラージガルからは、シヴァージーの妻サーイーバーイーの訃報が伝えられた。
シヴァージーは、マハーラーシュトラ人から特に英雄視され、侵略してきたイスラーム教徒の勢力に立ち向かったヒンドゥー教の守護者として扱われることが多い。マラーター・ナショナリズムとヒンドゥー・ナショナリズムの両面で評価すべき人物である。ただし、デーシュムク家は父親の代から、インド人民党(BJP)のライバルであるINC所属の政治家を輩出している家系であり、昨今のインドを語る際にキーワードとしてよく言及されるヒンドゥー教至上主義の文脈でこの映画を評価するのは適切ではないかもしれない。確かに悪役の多くはイスラーム教徒であったが、イスラーム教徒に対するヘイトを撒き散らすような描写は極力避けられていた。
「Chhaava」でもそうだったが、シヴァージーがしきりに口にするのは「スワラージヤ」だ。これは「自治」を意味する言葉で、現代的な政治用語でいえば主権や民族自決になる。シヴァージー登場前のデカン地方は、ムガル帝国、アハマドナガル王国、ビージャープル王国、ゴールコンダ王国などのイスラーム教政権が群雄割拠が、これらの王朝の支配者層はルーツを北インドに持っていることが多かった。それに対し、地元民は「マラーター」と呼ばれた。「マラーター」とは広義ではこの地域に住み、マラーティー語を話す人々全ての総称であり、「マハーラーシュトラ人」とほぼ同義であるが、狭義では、土着の農民カーストであるクンビーが武装化し、戦士階級のように振る舞うようになった人々のことだ。彼らはほぼヒンドゥー教徒と考えていい。この時点ではマラーターの豪族たちは独立王国を持っておらず、デカン地方で覇権を争う上記のイスラーム教政権に仕え、軍事力を提供する立場にあった。シヴァージーの父親シャーハージーも、時機を見て仕える相手を変えながら勢力を維持・拡大してきた典型的なマラーター人の頭領であった。実際にはそこに宗教の別はほとんどなく、イスラーム教政権にヒンドゥー教徒の将軍や官吏がいるのも普通のことだった。
「Raja Shivaji」では、幼少時のシヴァージーが自分の土地に自分の旗を立てられない不自由さを疑問に感じ、「スワラージヤ」の実現を夢見るようになるエピソードが語られている。シヴァージーも決して宗教で線引きをして、イスラーム教の政権に対抗してヒンドゥー教徒の王国の再興を目指したわけではなく、マラーター人が自存自決できるような独立王国の樹立を目指したのだった。ただ、マラーター人の豪族は内部でお互いに争い合っており、なかなかまとまっていなかった。彼らが別々のイスラーム教政権に仕えていたのも、マラーター人同士の内部抗争と無関係ではなかった。しかしながら、シヴァージーを攻撃したアフザルがヒンドゥー教寺院を蹂躙したため、ヒンドゥー教徒のマラーター人は団結することができた。そのような伝承も存在するが、実際にアフザルがヒンドゥー教を冒涜するような行為を行ったのかは不明である。後世の創作の可能性も高い。ただ、少なくとも「Raja Shivaji」ではその仮説を採用しており、ここで初めて宗教の線引きが行われる。そして、「スワラージヤ」という言葉に、ヒンドゥー教徒が信仰を守れるような、ヒンドゥー教の王国という意味合いが含まれることになる。
シヴァージーというと、ムガル帝国などの強大なイスラーム教政権に軍勢を率いて果敢に立ち向かった軍神的英雄というイメージがあるが、実際には彼はゲリラ戦と策略を駆使して防衛と抵抗を行っており、どちらかといえばチェ・ゲバラのようなゲリラ指導者に近い。「Raja Shivaji」には、アクション映画を求める観客のためにいくつかの戦闘シーンが盛り込まれていたが、より力が込められていたのは権謀術数の方だ。特に、大軍を率い迫り来るアフザルに小規模の軍勢でどう立ち向かうか、策略を巡らせなければ勝ち目はない、終盤のプラタープガルの戦いではそれが顕著だった。アフザルがどのように殺されたのかについては諸説があって定まっていないのだが、「Raja Shivaji」ではもちろん、主人公のシヴァージーに最大限の活躍の場が与えられていた。
シヴァージーはインド中世史における重要人物ではあるのだが、近現代になってナショナリズムが勃興する中で、ヒンドゥー教徒の英雄として神話的な価値付けをされている存在であり、その映画化にはかなりの困難さが伴ったことと思う。下手に矮小化して映画化でもしようものなら深刻な批判にさらされたことだろう。最悪の場合は暴動も引き起こしかねない。リテーシュ・デーシュムクは、監督として、シヴァージーを英雄視する人々の感情に配慮しながら、人間ドラマにも重きを置き、慎重に映画を作り上げたといえる。ただ、そのような束縛と共に作られた映画からは得てして映画的な面白味が失われてしまうもので、「Raja Shivaji」も、最大限バランスを取って作り上げたと評価するのが精いっぱいである。あとは、サルマーン・カーンのサプライズ出演を含む豪華なキャスティングによって華々しさを演出し、観客の満足度をブーストさせていた。
リテーシュ自身は決してヒーロー然とした俳優ではなく、どちらかといえばコメディーなどのライトな演技に定評がある。だが、今回は自らの監督作で主演シヴァージー役を演じ、40代後半になって正統派ヒーローへの脱皮を試したといえる。それは決して失敗しておらず、堂々とした演技だった。ジェネリアとの共演も微笑ましいものだった。
サンジャイ・ダットは最近、悪役俳優として引っぱりダコで、「Raja Shivaji」でもアフザル・カーンを憎々しく、そして力強く演じていた。
脇役陣の中で特筆すべきは、シヴァージーの母親ジージャーバーイー役を演じたバーギヤシュリーと、ムハンマド・アーディルシャー役のアモール・グプテー、そしてその妻カーディヤー役のヴィディヤー・バーランだ。バーギヤシュリーは「Maine Pyar Kiya」(1989年)で一世を風靡した女優だ。最近になって活動を活発化させている。アモールは「Stanley Ka Dabba」(2011年/邦題:スタンリーのお弁当箱)で監督・出演していた人物で、個性的な演技に定評がある。ヴィディヤーは「Kahaani」(2012年/邦題:女神は二度微笑む)などで知られる実力派スター女優で、今回も少ない出番で見事にインパクトを残していた。
ちなみに、映画は以下のような8章構成になっている。
- Blood And Ashes
- The Nemesis
- Destiny’s Choice
- The Elephant’s Move
- King’s Gambit
- Apocalypse
- Who Blinks First
- The Final Face-Off
企画当初から章構成だったのか分からないが、これを見て思い出したのはアーディティヤ・ダル監督の「Dhurandhar」(2025年/邦題:ドゥランダル作戦)だ。ダル監督は細かく章分けしたストーリーテリングが好きだが、これはショート動画やNetflixドラマに慣れたZ世代への配慮だといわれる。「Raja Shivaji」は「Dhurandhar」から何らかの影響を受けているのではなかろうか。キャラクターの初登場時に大きく名前が表示される演出も似ている。もしそうだとしたら、「Raja Shivaji」はポスト「Dhurandhar」時代の到来を証明する一作品だといえる。
「Raja Shivaji」は、マラーター人のプライドかつヒンドゥー教の守護者として崇められる英雄シヴァージーの映画だ。あまりに神格化された存在であるため、安易な気持ちでの映画化は許されなかったが、政界に影響力を持ち映画界でも強力な人脈を持つリテーシュ・デーシュムクは、この困難な企画を完成まで持って行くことに成功した。監督まで自分で務めたことが吉と出たとは思えないが、各所に配慮した、非常にバランスの取れた作品に仕上がっていた。このバランスの良さは、リテーシュの政界入りを見越してのものなのではないかとも感じられる。
