米国では「ボヘミアン・ラプソディ」(2018年)、「ロケットマン」(2019年)、「エルヴィス」(2022年)など、ミュージシャンの伝記映画が盛んに作られている。ヒンディー語映画界でもかなり前から伝記映画の流行が見られたのだが、ミュージシャンの伝記映画はあまり開拓されていないジャンルだった。よって、2024年4月12日からNetflixで配信開始されたパンジャービー歌手アマル・スィン・チャムキーラーの伝記映画「Amar Singh Chamkila」は、もしかしたら「ボヘミアン・ラプソディ」などのヒットに影響されて作られたのかもしれない。
チャムキーラーは1980年代のパンジャーブ州で絶大な人気を誇ったフォークミュージシャンである。妻のアマルジョートと共に、村人たちが好む卑猥な歌詞の歌を、トゥーンビーと呼ばれる一弦の弦楽器と共に歌った。「パンジャーブのエルヴィス」という異名を持つ。しかしながら、スィク教過激派やインテリ層からは毛嫌いされ、卑猥な歌詞の歌を禁じられたりもした。チャムキーラーは1988年3月8日にアマルジョートと共に何者かに銃撃されて命を落とした。犯人はスィク教過激派という説が有力だが、事件の真相は依然として闇の中である。
チャムキーラーの伝記映画「Amar Singh Chamkila」を撮ったのは、音楽を重視した映画作りをすることで知られるイムティヤーズ・アリーだ。監督としては「Love Aaj Kal」(2020年)以来の新作となる。音楽はARレヘマーン。アリーとレヘマーンは過去にも「Rockstar」(2011年)、「Highway」(2014年)、「Tamasha」(2015年)で一緒に仕事をしている。これらの映画は名曲揃いだ。今回はミュージシャンが題材の伝記映画であるため、レヘマーンの力を借りるのは必然だったといえる。
主役チャムキーラーを演じるのは、パンジャーブ地方で大人気の歌手・俳優ディルジート・ドーサンジ。彼はヒンディー語映画にも出演しており、「Udta Punjab」(2016年)や「Good Newwz」(2019年)などで好演してきた。パンジャービーなのでターバンをかぶったスィク教徒の役を演じる機会が多かった。チャムキーラーもスィク教徒ではあり、ステージではターバンをかぶっていたが、普段は一般的なインド人の外観をしていた。ディルジートのそういう姿を見るのは初めてだ。
チャムキーラーの妻でデュエット相手のアマルジート役を演じるのはパリニーティ・チョープラーだ。2023年に国会議員のラーガヴ・チャッダーと結婚したばかりのパリニーティは、今回やたら太って見えたが、懐妊のニュースは入ってきていない。役作りなのか、それとも幸せ太りなのか。
他に、アヌラーグ・アローラー、アンジュム・バトラー、サムエル・ジョン、トゥシャール・ジャグディーシュ・ダット、アピンダルディープ・スィン、ニシャー・バーノー、ウダイビール・サンドゥーなどが出演している。
日本語字幕付きで配信されており、邦題は「チャムキラ」になっている。
1988年3月8日、公演のためにメヘサンプル村を訪れた人気歌手アマル・スィン・チャムキーラー(ディルジート・ドーサンジ)とその妻アマルジョート(パリニーティ・チョープラー)が何者かに射殺された。生き残った弟子たちは二人の遺体をルディヤーナーにあるチャムキーラーの自宅に運んだ。ダルビール・スィン警部はチャムキーラーの自宅を訪れ、弟子たちからチャムキーラーの話を聞く。
チャムキーラーは幼少時から歌を歌ってばかりで歌手になるのを夢見ていたが、家は貧しく、家計を支えるために靴下工場で働いていた。だが、地元歌手のジャティンダル・ジンダー(ウダイビール・サンドゥー)の弟子になり、才能を開花させる。ジンダーは彼の才能を脅威に感じるようになり、彼を冷遇するが、やがてチャムキーラーは独立し、ジンダーの元相方ソーニヤーをデュエット相手にして歌を歌い出す。彼はレコードも出し、パンジャーブ州で次第に有名になる。だが、報酬が不公平だったことに不満を覚え、ソーニヤーとのコンビも解消する。
チャムキーラーはアマルジョートと出会い、彼女と一緒に歌を歌うようになる。やがて二人は結婚するが、実はチャムキーラーは既婚者だったことが分かる。アマルジョートはそれに腹を立てるが、チャムキーラーはアマルジョートとのコンビに固執し、彼女とステージに立ち続ける。二人の間には子供もできる。
チャムキーラーとアマルジョートの人気はうなぎ登りになるが、彼らの歌う歌の歌詞が卑猥だったため、脅しも受けるようになる。一時、チャムキーラーは宗教歌手に転向するが、聴衆は卑猥な歌を求め、チャムキーラーも聴衆の要求には逆らえなかった。チャムキーラーとアマルジョートはバーレーンやカナダでも公演を行い、ファンを熱狂させる。スィン警部はチャムキーラーの人生を知り、彼を再評価するようになる。
翌朝、アマルジョートの家族やチャムキーラーの前妻がやって来る。二人の火葬が行われ、スィン警部は葬儀会場を去る。実はスィン警部もチャムキーラーのファンで、彼のカセットテープを持っていた。家に帰ると息子がチャムキーラーの歌を聴いていた。スィン警部は息子にチャムキーラーの歌を聴くことを許す。
物語が始まってすぐ、パリニーティ・チョープラー演じるアマルジョートが額を銃弾で撃ち抜かれて即死する。それに続いて主人公チャムキーラーも撃たれて倒れる。そんなショッキングなシーンで始まる映画だ。
この映画でまず目立つのは映像効果である。まるでミュージックビデオのような味付けがしてあり、たとえば歌のシーンではパンジャービー語歌詞のヒンディー語訳がスタイリッシュな文字で表示される。このスタイルは、YouTubeで配信される映画音楽の「Lyrical(歌詞付き)」バージョンをイメージしていると思われる。また、所々で映像が突然アニメ調もしくはコミック調になり、変化が付けてある。チャムキーラー本人などが映った実際の記録映像も部分的に織り込まれていた。この辺りの演出の巧さはいかにもイムティヤーズ・アリー監督らしい。
チャムキーラー暗殺シーンが冒頭にあることで、この映画の最大の主題もはっきりしている。チャムキーラーを暗殺したのは誰なのか、真相は闇の中なのだが、「Amar Singh Chamkila」はその謎に迫ろうとしている。チャムキーラーは歌手として成功する過程で多くのファンを獲得したが、同時に多くの敵も作った。たとえば歌手ジンダー(実際はスリンダル・シンダー)は、チャムキーラーの師匠であったが、彼が台頭すると、彼のライバルになった。チャムキーラーの成功を支えてきた太鼓奏者ティッキーも途中で袂を分かち、彼を恨むようになった。また、チャムキーラーの歌が卑猥だと文句を付ける者は多く、特にスィク教過激派は彼を目の敵にしていた。もちろん、映画の中でも答えは出されていないが、可能性のある人物にはそれぞれスポットライトが当てられていたといえる。
「表現の自由」も大きなテーマだ。チャムキーラーの歌は卑猥で社会に有害だと批判されたが、彼は幼少時から自分の目で見て来た大人の行動を歌詞にしていただけだった。彼の歌う歌には社会の現実がそのまま映し出されているのであり、もしその歌詞が卑猥であるなら、社会が最初から卑猥であるということになる。そうであるなら、彼の歌によって社会が改めて害を受けることもない。
また、チャムキーラーは常に大衆の味方であり、大衆が聴きたいものを歌った。表向きは卑猥な歌詞に眉をひそめていた女性たちも、実はチャムキーラーの歌が大好きだった。元々、インドには卑猥な歌を歌う文化がある。むしろ年配の女性たちの方がチャムキーラーの歌を高く評価していた。また、どのパンジャービー歌手も多かれ少なかれ卑猥な歌を歌っていたが、チャムキーラーだけがなぜか槍玉に挙げられていた。
宗教や社会を理由にチャムキーラーの歌を封じ込めようとする者は多く、彼の死の遠因もそこにあったとほのめかされていたが、チャムキーラーは脅迫を受けても歌を歌うのを止めなかった。彼にとって歌は人生そのものであり、歌のない人生は死であった。生きながら死ぬよりは、死と隣り合わせに生きる道を選び、彼は歌い続けたのだった。
現在、モーディー政権下のインドでは言論の自由が大きく損なわれていると警鐘が鳴らされている。「Amar Singh Chamkila」自体は1970年代から80年代のパンジャーブ州を舞台にした映画だが、現在のインドに対する危機感が込められていた作品だと捉えることも可能である。
ちなみに、映画の中では1984年という年が特別扱いされて語られていた。この年にパンジャーブ州で起こった大事件といえばブルースター作戦だ。パンジャーブ州独立を目指すカーリスターン運動の主導者ジャルナイル・スィン・ビンドラーンワーレーがアムリトサルのハルマンディル・サーヒブ(黄金寺院)に武装して立て籠もり、インディラー・ガーンディー首相(当時)が軍に攻撃を命じた。スィク教の聖地ハルマンディル・サーヒブは戦場となり、ビンドラーンワーレーは殺された。この出来事はスィク教徒の心理に大きな影を落とし、後のガーンディー首相暗殺を引き起こしてしまう。
チャムキーラーは、「アマル・スィン」という名前と共に「ダニー・ラーム」とも呼ばれていた。「チャムキーラー(光り輝く)」は彼の芸名である。「アマル・スィン」はスィク教徒らしい名前だが、「ダニー・ラーム」はヒンドゥー教徒的だ。実はチャムキーラーは不可触民であり、映画の中でも彼が差別を受ける場面があった。おそらく父親の代でスィク教に改宗したと思われる。ヒンドゥー教徒コミュニティーの中で受ける差別から逃れるための改宗だっただろうが、差別は続いていた。
スィク教徒は教義によって毛を切らない。チャムキーラーは散髪し髭も剃っていたため、スィク教のタブーを犯している。それ故に父親から叱られていた。
ミュージシャンが主人公の映画なだけあって、歌と音楽に溢れた映画だ。ARレヘマーンが作曲した曲は、モーヒト・チャウハーンやアリジート・スィンなどのプレイバックシンガーたちが歌っている。だが、チャムキーラーが作詞作曲し歌った曲の数々は、ディルジート・ドーサンジとパリニーティ・チョープラーが自分で歌い、再現していた。ディルジートは人気歌手なので歌がうまいのは当然だが、パリニーティも結構歌えていたのには驚いた。実際のチャムキーラーとアマルジョートが歌った音源も一部ではあるが使われていた。
「Amar Singh Chamkila」は、ヒンディー語映画界における名監督の一人イムティヤーズ・アリーが久々に作った映画だ。実在する歌手アマル・スィン・チャムキーラーの伝記映画であるが、アリー監督が作ると一味も二味も違う。映画館で公開されずNetflixでのOTTスルーになったのがもったいないくらいである。だが、おかげで最初から日本語字幕付きで観られる。必見の映画である。