人口減少が続く日本では、人手不足解消のために移民の受け入れを緩和しつつある。だが、移民の流入によって日本が日本でなくなってしまうことへの恐怖感も次第に募りつつある。日本人にとって移民問題とは、日本に移民を受け入れるか否かの問題である。
だが、インドでは視点が逆になることが多い。インドにも近隣諸国からの移民はあり、国境地帯では特に問題になっているのだが、それ以外の地域に住んでいる大半のインド人にとって、移民とは自分がどこかの国に移住することだ。そして多くの場合、移民先は米国、英国、オーストラリアなどの先進諸国になる。それは映画にも如実に反映されており、ストーリーの中に海外への移住や移民が入ってくるものは少なくない。その際、留学、就職、結婚などの手段を採ることがほとんどだが、中には不法移民を扱った映画もある。「Namaste England」(2018年)や「Shiddat」(2021年)などである。日本人として違和感を感じるのは、違法な手段を使って密入国することをこれらの映画があまり悪として描いていないことである。
「3 Idiots」(2009年/邦題:きっと、うまくいく)で有名なラージクマール・ヒラーニー監督の最新作「Dunki」も不法移民を扱った映画である。「Dunki」は「ダンキー」と読むが、これは「ロバ」という意味の英単語「donkey」が訛った形であり、隠語で「不法移民」を指す。インドでは「ロバ」は「馬鹿」の代名詞である。命を落とすかもしれない危険な手段で移民をするため、このように呼ばれているようだ。2023年12月21日に公開された。
主演はシャールク・カーン。ヒラーニー監督は今までサンジャイ・ダットやアーミル・カーンとよく仕事をしてきた。ヒラーニー作品にシャールクが主演するのは本作が初である。きっと、シャールクが熱烈なラブコールを送ったのだろう。プロデューサー陣にはシャールクの妻ガウリー・カーンが名を連ねている。コロナ禍中、主演作が途絶えていたシャールクにとって、2023年は復活の年であり、同時に当たり年でもあった。「Pathaan」(2023年/邦題:パターン)と「Jawan」(2023年)と大いに当ててきており、「Dunki」がそのトリを務めることになった。
ヒロインはタープスィー・パンヌー。2010年代以降、ヴィディヤー・バーラン、カンガナー・ラーナーウトに続き、女性中心映画を主導してきたパワフルな女優であり、いつの間にか彼女との共演を希望する男優がヒンディー語映画界にいなくなってしまった。だが、シャールクは別格だったようだ。さすがにシャールクがタープスィーに食われることはないし、タープスィーもシャールクとの共演は嬉しかったらしい。逆にいえば、タープスィーは地道なキャリアアップにより、シャールクのようなトップスターと共演できるだけの実力を身に付けたのだといえる。天晴れである。
他に、ヴィッキー・カウシャル、ボーマン・イーラーニー、ヴィクラム・コッチャール、アニル・グローヴァー、ジョーティ・スバーシュ、デーヴェーン・ボージャーニー、アマルディープ・ジャーなどが出演している。
1995年、パンジャーブ州の田舎町ラールトゥー。マヌ(タープスィー・パンヌー)は、借金の抵当として取り上げられてしまった両親の家を取り戻すため、ロンドンへ出稼ぎに行くことを決める。だが、ヴィザが下りなかった。同じくラールトゥーに住むバッグー(ヴィクラム・コッチャール)とバッリ(アニル・グローヴァー)もそれぞれの理由からロンドン行きを夢見ていたが、お金も学位もない彼らには到底ヴィザは下りなかった。 ある日、ハーディー(シャールク・カーン)という退役軍人がラールトゥーにやって来る。ハーディーは、1年前にマヌの兄マヒンダルに命を救われており、彼から預かった品物を返そうとマヒンダルを探していた。マヌはハーディーを自宅に案内し両親に引き合わせるが、既にマヒンダルは事故で亡くなっていた。 ハーディーは、マヌが英国ヴィザの取得に悪戦苦闘していることを知り、協力することにする。ハーディー、マヌ、バッグー、バッリの四人は、IELTSに合格して学生ヴィザを取得するため、ギートゥー(ボーマン・イーラーニー)が教える英語塾に通い始める。彼らはそこでスキー(ヴィッキー・カウシャル)と出会う。スキーの恋人ジャッスィーは在外インド人(NRI)と結婚してロンドンに移住してしまった。だが、夫から暴力を受けていることを知り、彼女を助けるためにヴィザを取得してロンドンへ行こうとしていた。 五人の内バッリだけが合格し、ロンドン行きを決める。バッリから送られてきた写真には夢のような生活が写し出されていた。彼らはロンドンにますます憧れるようになる。バッリからはジャッスィーの情報が入ってくる。なんと、夫からの暴力に耐えかねて自殺してしまったとのことだった。夢破れたスキーは灯油をかぶって焼身自殺をしてしまう。 ハーディーは、マヌとバッグーをロンドンに連れていくため、ギートゥーに手配を頼み、「ダンキー」の手段を採ることにした。同じ塾に通っていたグラーブ、チャメーリー、パンピーも道連れになり、まずはパーキスターンへ密入国した後、アフガーニスターン、イラン、トルコを通って、海路でロンドンへ向かった。途中でグラーブ、チャメーリー、パンピーは殺されてしまった。 ハーディー、マヌ、バッグーはようやく英国に着き、早速ロンドンへ行く。そこでバッリと再会するが、写真のような驕奢な生活はしておらず、南アジア諸国からの不法移民たちと共に地獄のような毎日を送っていた。彼らは移民専門弁護士プル・パテール(デーヴェーン・ボージャーニー)と出会い、英国の市民権を得ようとする。マヌが英国人と結婚して市民権を獲得し、その後に彼女がハーディーたちと次々に結婚すれば市民権の増殖ができるとのことだった。ところがこのときまでにハーディーはマヌに恋してしまっていた。たとえ偽装であってもマヌが他の誰かと結婚することは許せなかった。偽装結婚式の日にマヌは大暴れしてしまい、彼らは警察に逮捕されてしまう。 プルは彼らに亡命を勧める。そのためにはインドで命の危険にさらされていると宣言しなくてはならなかった。元軍人だったハーディーにはそれができず、彼はインドに強制送還されてしまう。残ったマヌ、バッグー、バッリは亡命が認められ英国に住むことになる。 それから25年後。マヌは脳腫瘍になり余命1ヶ月と診断された。死ぬ前にインドに帰りたいと思ったが、英国に亡命した以上、インド大使館からはヴィザが下りなかった。そこでマヌは25年振りにハーディーに電話をし、彼をドバイに呼ぶ。そしてマヌはバッグーとバッリと共にドバイへ渡る。 マヌ、バッグー、バッリはドバイでハーディーと再会する。ハーディーはマヌの病状を知り、彼女を何としてでもインドに返すことを約束する。ハーディーはギートゥーに連絡を取り、ドバイにいる「ダンキー」エージェントを紹介してもらう。彼らはわざと警察に捕まり、インド人だと信じ込ませた上で、インドへの強制送還を勝ち取る。 ラールトゥーに帰り着いたマヌは、ロンドンの出稼ぎにより家が取り戻されていること、そして屋根の上にビッグ・ベンの模型が載っているのを目にする。ハーディーはマヌにプロポーズをするが、その直後にマヌは息を引き取ってしまう。
ヒラーニー監督の作品には、どうしても「3 Idiots」と同レベルかそれ以上のものを求めてしまう。残念ながら「Dunki」は、ヒラーニー作品に特徴的なユーモアが詰め込まれているものの、「3 Idiots」に比肩する映画とはいえない。現代の導入部から過去の回想シーンに移り、十分に過去の出来事が語られた後は再び現代に戻って来る構成は「3 Idiots」と同じであるし、機転の利く主人公が物事を解決する流れも「3 Idiots」と共通している。「3 Idiots」があまりに傑作すぎて、自身が過去に作った作品を超えられない苦悩が感じられる映画であった。
それに加えて、やはり不法移民に対する感覚の違いが気になってしようがない。上で挙げた他の不法移民映画と同じく、「Dunki」においても移民に関して遵法精神が希薄で、不法移民は犯罪ではなくむしろ武勇伝として扱われていた。さらに、この映画を観て初めてインド人の移民に対する考え方が分かった。曰く、かつて英国はインドに勝手に上がり込んで支配したのだから、インド人が英国に移住することを止める権利はない、というものだった。
中国、韓国、北朝鮮などの国々は、かつて日本の支配を受けたことを今でも蒸し返し、賠償金の請求をしたり、反日感情を煽ったりして、政治的に利用している。インドは英国の支配を受けたものの、その過去をあからさまに政治利用するようなことはしていない。しかしながら、その代わりに移民を無制限で受け入れろというのがインド政府の主張だとしたら、これもまた厄介なことである。
「Dunki」は、違法な手段を使って移民しようとする者が命を落としている現状を指摘しながら、経済力や教育などによって選別する移民制度を厳しく糾弾しており、万人に国境を開くべきだという驚きの主張をしている。たとえば米国のトランプ元大統領がメキシコ国境を閉鎖し密入国を厳しく取り締まったことがあったが、ヒラーニー監督にいわせれば、それは困窮する人々を迫害する深刻な人権侵害ということになるだろう。彼の主張の先には、国境の撤廃やヴィザの自由化などがあると思われる。「3 Idiots」が取り上げた教育問題は日本人にとっても取っつきやすいものだったが、果たして「Dunki」が主張するこの国境開放は万人に受け入れられるだろうか。
映画が発信するメッセージに戸惑いはあったが、コメディー映画としての質は上々だ。特に、主要な登場人物たちがIELTSの面接試験を受けるシーンは抱腹絶倒モノであった。たどたどしい英語で面接官の質問に答えるのだが、それぞれおかしな答えをしている。「3 Idiots」で一番人気の、チャトゥルのスピーチに匹敵するコミックシーンであった。
ロマンス映画としても成立させようという努力が見られた。ハーディーは「ダンキー」を共にしたマヌを25年間愛し続けており、結婚をしなかった。マヌも未婚のまま25年間過ごした。25年振りにマヌと再会したハーディーは、彼女をインドに連れ戻し、プロポーズをする。気の遠くなるような長い時間を隔てて成就する恋愛は「Veer-Zaara」(2004年)を思い起こさせるものだった。だが、「Dunki」ではロマンスの部分に十分な時間が割かれていたとはいえず、中途半端に感じた。
現代のシーンではハーディーもマヌも老人の姿になっていた。25年前の1995年のシーンでは彼らは若者の設定だった。そうすると、1995年のシーンで彼らは何歳で、今は何歳なのか、分からなくなる。現代のシーンから察するに60歳以上といったところだが、その25年前となると35歳~40歳ということになる。さすがにそれでは年が行き過ぎているように感じる。現代のシーンで、彼らをそこまで老人にしなくてもよかったのではなかろうか。
今回、シャールク・カーンが演じたのは、「ダンキー」を使って英国に密入国した後に強制送還されてしまった元軍人のインド人ハーディーだ。ハーディーは、移民して成功した成金の在外インド人(NRI)に恋人をかっさらわれてしまった過去を持つ。ハーディーをシャールクが演じるのは、セルフパロディーとも受け止められる。なぜなら出世作「Dilwale Dulhania Le Jayenge」(1995年/邦題:シャー・ルク・カーンのDDLJラブゲット大作戦)で彼が演じたのはNRIの青年だったからだ。ヒンディー語映画界では一時期、NRIを主人公にした映画が流行したが、それはまだまだ欧米諸国で働いた方が裕福になれたからだ。現在インドは大国の道を歩んでおり、むしろ世界がインドに注目をしている。そんな時代に、不法移民や亡命の手段を使って海外に移民したNRIがインドへの帰郷を切望するという「Dunki」のような映画が出て来たのは象徴的だ。
確かに「Dilwale Dulhania Le Jayenge」にも強い望郷の感情が込められていた。だが、望郷の先にあったのは、いつまでも変わらない古き良きインドの農村であった。「Swades」(2004年)も帰郷の映画であったが、それは海外で高度な技能を身に付けたNRIが故郷の発展に寄与する筋書きであった。それらに対し「Dunki」では、25年振りにインドに戻ったマヌは発展した故郷の姿を目の当たりにする。過去四半世紀でインド映画が描く「故郷」は一変してしまったことを感じる。
「Dunki」は、ヒンディー語映画界最高峰の映画監督として誉れ高いラージクマール・ヒラーニー監督の最新作である。初めてシャールク・カーンとタッグを組んだ上に、インド人の視点から不法移民問題に切り込んでいる。監督の主張に付いて行けないところがあり、また、彼の最高傑作ともいえないのだが、ヒラーニー監督の持ち味は十分に発揮されており、楽しく鑑賞することができる。興行的にも成功しており、これをもって2023年のシャールクはハットトリックを達成した。過度の期待をせずに観るのをお勧めする。