シングルスクリーン館の復活

 インドの映画館はマルチプレックス(Multiplex)とシングルスクリーン館(Single-screen theatre)に大別できる。

 後者は昔ながらの映画館だ。ひとつの映画館にひとつのスクリーンがあり、客席の収容人数は1,000人規模であることが多い。日本語には「単館」という言葉があり、字面からすると同じものを指しているように見えるが、日本語の「単館」は「単館系映画」という熟語の影響で異なったイメージが含まれてしまっており、混乱を招く恐れがあることから、意図的にこの言葉への置き換えを避け、「シングルスクリーン館」と呼んでいる。昔から娯楽映画の人気を支えてきたと同時に、インド映画のフォーマットを決定してきた原動力でもある。1,000人規模の客席を埋めるためには常に大衆娯楽映画を必要とし、それが芸術映画の商業的な成功を抑制してきたのである。

 それに対し前者は1997年にインドに初めて導入された比較的新しい形態の映画館である。ひとつの映画館に複数のスクリーンがあるが、その代わり、各シアターの客席数はシングルスクリーン館に比べると少なくなる。日本でいう「シネマコンプレックス」またはその略称「シネコン」とほぼ同じものだと考えていい。マルチプレックスの登場は2000年代のインド映画に大きな変化をもたらした。マルチプレックスには最新の映像・音響設備、快適な空調設備や客席が備わっている代わりに、そのチケット代はシングルスクリーン館の何倍にもなる。マルチプレックスの客層は都市在住の富裕層・教養層が主流であり、その変化にもっとも敏感だったヒンディー語映画界の映画メーカーたちを中心に、マルチプレックスに特化した映画作りが行われるようになったのだ。そのおかげで映画の質が向上し、上映時間が短縮され、海外市場でも受け入れられやすくなったが、その代償として、従来の娯楽映画を支えてきた大衆層が疎外されることになった。

 当初、マルチプレックスはデリーやムンバイーなどの大都市部を中心に数を増やしていったが、2010年代に入ると、地方の中小都市にも拡大していった。マルチプレックスの隆盛はシングルスクリーン館の経営を圧迫し、立ちゆかなくなって閉館する映画館も増えていった。2020年から2022年にかけてのコロナ禍は映画業界全体に大打撃を与えたが、もっとも煽りを食ったのは、元々経営基盤が脆弱だったシングルスクリーン館であった。コロナ禍中、シングルスクリーン館の閉館がさらに加速した。

 ただし、マルチプレックスが特にヒンディー語映画のコンテンツを変貌させた裏で、シングルスクリーン館も映画業界のトレンドに一定の影響を与えていたであろうことが推測される。シングルスクリーン館の客層は大衆娯楽映画を求めている。だが、マルチプレックス拡大の影響で、ヒンディー語映画界が大衆向けの娯楽映画をあまり作らなくなった。シングルスクリーン館は最新のヒンディー語映画では自身の客層を呼び込めなくなり、別の映画を掛けざるをえなくなった。代替の映画にはいくつか選択肢があった。昔のヒット映画であったり、コテコテの娯楽映画を作り続けているボージプリー語映画であったりしたが、もっともはまったのが南インド映画のヒンディー語吹替版だった。南インドではまだまだシングルスクリーン館が健在で、大衆向けの娯楽映画を作る文化が残っていた。ボージプリー語映画に比べて製作費の規模も大きく、見応えがある。ヒンディー語映画界で売れなかった俳優が南インド映画界に活路を見出している例もあり、顔見知りの俳優がいることもあった。コロナ禍前後から北インドでも急速に南インド映画の人気が高まり、その主要因としてはOTTプラットフォームが挙げられることが多いが、他方では経営に困ったシングルスクリーン館が苦肉の策で南インド映画のヒンディー語吹替版を掛け続け、南インド映画スターたちの知名度上昇に貢献していたことも考慮すべきであろう。

 とはいってもマルチプレックスに比べてシングルスクリーン館が劣勢に立たされていることには代わりがない。だが、2023年はどうもシングルスクリーン館に復調の兆しが見られる年になっているようだ。

 2023年8月27日付けのタイムズ・オブ・インディア紙に「Picture abhi baaki hai: Single-screen theatres get a fresh lease of life(映画はまだ続く:シングルスクリーン館が再生しつつある)」という記事が掲載されていた。

 まず、この記事が書かれたのは8月下旬だったということに注目したい。8月11日にはインド全国で4本の話題作が同時公開された。ヒンディー語映画「Gadar 2」と「OMG 2」、テルグ語映画「Bhola Shankar」、タミル語映画「Jailer」である。「Gadar 2」は大ヒット作「Gadar: Ek Prem Katha」(2001年)の続編、「OMG 2」は大ヒット作「OMG: Oh My God!」(2012年)の続編、そして南インド映画2本はそれぞれ、メガスターのチランジーヴィとスーパースターのラジニーカーントの主演作だ。さらに、ヒンディー語映画界ではその前にカラン・ジョーハル監督の「Rocky Aur Rani Kii Prem Kahaani」、その後にアーユシュマーン・クラーナー主演の「Dream Girl 2」などのヒット作が公開されている。また、9月にはシャールク・カーン主演の期待作「Jawan」が控えていた。

 記事は、「Gadar 2」の記録的な大ヒットの描写から始まる。デリーの老舗映画館デライトの支配人が「Gadar 2」の好調な興行を語る。「私たちの映画館には客席が1,000席あるが、ほぼ全ての回が満席だ。(主演の)サニー・デーオールも想像できなかっただろう。」

 2023年、インドの映画業界にとって最初の朗報は、シャールク・カーン主演「Pathaan」(2023年/邦題:PATHAAN パターン)の大ヒットだった。マルチプレックス時代特有の洗練されたアクション映画ではあるが、大衆からも受け入れられる分かりやすい娯楽性があり、シングルスクリーン館も多くの客を呼び込むことができた。北インドでは「Pathaan」の上映に合わせて、コロナ禍に閉館したシングルスクリーン館が25館ほど再開館したという。

 「Pathaan」公開時のお祭り騒ぎが再来したのが8月11日だった。南北インドで4本の話題作が同時公開され、この週末の全国の興行収入は40億ルピーに達し、過去最高を記録した。「Pathaan」のときに業務再開を躊躇した映画館も、この成功を見て考えを改めはじめているという。

 「Pathaan」、「Gadar 2」、「OMG 2」などはマルチプレックスでも最大限に上映されたが、北インドのシングルスクリーン館ではそれ以上に歓迎された。ある統計によると、「Gadar 2」の興行収入への貢献度は、シングルスクリーン館とマルチプレックスで1:1に達しているという。シングルスクリーン館の方がチケット代が安いことを勘案すると、観客動員数はシングルスクリーン館の方が圧倒的に多いことになる。

 ビハール州プールニヤー県にある映画館の支配人はこう語っている。「大衆を無視してはならない。もし経済力が問題であったら、タミル・ナードゥ州やアーンドラ・プラデーシュ州でシングルスクリーン館は生き残っていない。シングルスクリーン館の閉館はビハール州やウッタル・プラデーシュ州で多く起こっており、この状況はコロナ禍が始まる遥か前からあった。問題は、観客を疎外するコンテンツにあった。過去10年間、ヒンディー語映画業界は都市部だけに集中していればビジネスが成り立つと考えるようになった。映画はエリート主義になり、大衆から切り離された。『Pathaan』や『Gadar 2』の成功を見て目を覚ます必要がある。」

 近年、特定の映画の興行収入に占めるマルチプレックスの貢献度は6割に達していた。これが、映画メーカーたちがマルチプレックス層向け映画に集中する原因となっていた。だが、コロナ禍を経て、従来マルチプレックスで映画を鑑賞していた客層がOTTプラットフォームに移行した。そこで映画メーカーたちはシングルスクリーン館の客層に再び注目するようになったのである。これは、ヒンディー語映画界の今後を占う上で非常に重要な指摘で、「Gadar 2」などの成功がそれを強力に裏付けている。

 同記事では、シングルスクリーン館の進化についても触れられていた。シングルスクリーン館については、どうしても場末の映画館というイメージが強い。空調がないため扇風機が空しく館内の空気をかき回し、椅子は壊れかけで南京虫の住処になっており、スクリーンの映像は不鮮明で、音も割れている。そんなシングルスクリーン館は既に過去のものとなりつつあるようだ。今時のシングルスクリーン館の大半はアップデートが完了しており、デジタルシネマパッケージ(DCP)、リクライニングシート、最新の音響設備が導入されているという。デリーからウッタル・プラデーシュ州に掛けての地域では、90%近くのシングルスクリーン館が空調を完備しており、残りの映画館も順次後に続いている。それでいながら、チケット代は70-190ルピーとリーズナブルであり、ポップコーンの値段は30ルピーに抑えられている。この辺りも、シングルスクリーン館が復調している大きな要因であろう。

 記事は、ビハール州パトナーにある映画館リージェントの支配人スマン・スィナーのこんな発言で占められている。「民主主義と同様に、私たちのようなシングルスクリーン館は、大衆の大衆による大衆のための映画館だ。私たちはそれを守るために何でもする。私たちが必要としているのは、大衆の趣向も理解する映画だ。」

 今後、ヒンディー語映画界は再び大衆娯楽志向に回帰していく可能性が高い。