Salaam Venky

3.5
Salaam Venky
「Salaam Venky」

 安楽死や尊厳死を主題にしたヒンディー語映画というと、サンジャイ・リーラー・バンサーリー監督の「Guzaarish」(2010年)が有名だ。リティク・ローシャン演じる手品師イーサンは、手品の失敗により首下麻痺になり、尊厳死を求めて訴訟を起こしていた。結局裁判所から尊厳死は却下されるのだが、映画が公開された2010年のインドでは、まだ安楽死が認められていなかった。

 2022年12月9日公開の「Salaam Venky」も尊厳死を主題にした映画である。ただし、「Guzaarish」は完全なフィクションだったが、この「Salaam Venky」は実話に基づいたストーリーだ。主人公のヴェンカテーシュ・クリシュナンはデュシェンヌ型筋ジストロフィー(DMD)という先天的な難病を患っている。発症すると足腰から筋力の低下が始まり、やがて筋力低下が全身に回って呼吸ができなくなり死に至る。ヴェンカテーシュは実在の人物で、臓器移植のための尊厳死を求めながら叶わず、2004年に25歳で死去した。この映画は、ヴェンカテーシュの生涯を綴ったシュリーカーント・ムールティ著「The Last Hurrah」(2005年)を原作にしている。

 監督はレーヴァティー。南インド映画界を中心にインド全土で活躍する女優であると同時に、各言語で何本もの映画も撮っている。ヒンディー語では「Mitr: My Friend」(2002年)や「Phir Milenge」(2004年)が有名だ。

 主演はカージョル。他に、ヴィシャール・ジェートワー、ラージーヴ・カンデールワール、ラーフル・ボース、アーハナー・クムラー、プラカーシュ・ラージ、アナント・マハーデーヴァン、プリヤマニ、カマル・サーダナー、リディ・クマール、アニート・パッダーなどが出演している。レーヴァティー監督自身もカメオ出演しているのだが、さらに驚くべきことに、アーミル・カーンが特別出演している。アーミルとカージョルの共演は「Fanaa」(2006年)以来である。

 ヴェンカテーシュ・クリシュナン、通称ヴェンキー(ヴィシャール・ジェートワー)はデュシェンヌ型筋ジストロフィー(DMD)を患っていた。医者からは10代半ばまで生きられれば御の字だと診断されていたが、母親のスジャーター(カージョル)はヴェンキーを必死になって育て、彼は24歳になっていた。夫のクルネーシュ(カマル・サーダナー)は早死にすることが確定しているヴェンキーに投資しようとせず、それが原因で離婚していた。スジャーターはヴェンキーを連れて家出をし、クルネーシュは娘のシャールダー(リディ・クマール)を育てた。シャールダーは母親から捨てられたと聞かされて生きてきたが、実は父親が母親を追い出したのだと知って、父親を捨てて母親の元に身を寄せていた。

 病気が進行し寝たきり状態になっていたヴェンキーは母親に、臓器移植をして他の患者の命を救いたいとの希望を打ち明け、尊厳死を求めた。これまで必死になって彼を生かしてきたスジャーターは絶対に承諾できなかったが、彼の死が目前に迫ったことを察知し、息子の尊厳死を支持し始める。しかし、インドの法律は尊厳死を禁止していたため、スジャーターは法廷で戦うことを決意する。ヴェンキーの主治医シェーカル・トリパーティー(ラージーヴ・カンデールワール)の友人で弁護士のパルヴェーズ・アーラム(ラーフル・ボース)がスジャーターとヴェンキーの代理人となる。

 正攻法で攻めては訴訟の受理もしてもらえないため、パルヴェーズはニュース番組のジャーナリスト、サンジャナー(アーハナー・クムラー)にヴェンキーの訴えをニュースにしてもらう。訴状が受理され、裁判が行われることになった。裁判長はアヌパム・バトナーガル(プラカーシュ・ラージ)、検察官はナンダー(プリヤマニ)であった。

 ナンダーは、尊厳死を合法化したら違法な臓器売買を助長するとして棄却を求める。それに対しパルヴェーズは、死ぬための権利ではなく、臓器として生きる権利を強調する。バトナーガルは尊厳死の訴えを棄却するしかなかったが、ヴェンキーに対し、法律を改正すると約束する。間もなくヴェンキーは息を引き取る。

 ヴェンキーの目は、彼の恋人で盲人のナンディニー(アニート・パッダー)に移植され、彼女は視力を回復する。

 本筋の部分は、死にゆく主人公を巡る感動物語である。死や難病をテーマにした映画は感動作になりやすく、その部分は差し引いて考えなければならない。また、ヒンディー語映画に限っても、同様の映画は数多く作られている。「Salaam Venky」の中には過去の名作へのオマージュが織り込まれていたが、その中に「Anand」(1971年)や「Kal Ho Naa Ho」(2003年)のような、死が主題の感動映画も含まれていた。あくまでそれらの作品を踏まえた上で、レーヴァティー監督は新しい物語を提示しようとしたのだろう。

 「Salaam Venky」は実話に基づくストーリーだが、完全に事実をなぞった映画ではないようだ。モデルになったヴェンカテーシュがデュシェンヌ型筋ジストロフィー(DMD)を患い、尊厳死を求めて訴訟を起こしたことは事実だが、彼は判決が出る前に亡くなっている。「Salaam Venky」では、ヴェンキーは判決を聞いた後に息を引き取っている。大きな違いである。ただ、大部分は事実だといえるので、作られた感動ではないことが、まずこの映画のユニークな点だといえるだろう。

 また、「Salaam Venky」の物語は、難病を患ったヴェンキーの闘病のみならず、母親スジャーターの戦いでもあった。彼女はヴェンキーを少しでも生き長らえさせるため、あらゆる手段を講じた。理解のない夫とも離婚し、娘の親権を諦めることになった。そして、そんな宝物のような息子に尊厳死を与えるために法廷闘争までする。息子には生きて欲しい、でも、息子の最期の願いも叶えてあげたい。そんな葛藤に苛まれながらも常に力強く生きる母親の姿をカージョルは見事に演じ切っていた。

 単なる病気の映画ではなく、尊厳死という法学的に扱いが難しい問題に切り込んだ映画であることで、感動作だけに留まらない深みのある映画になっている。尊厳ある生は尊厳ある死と表裏一体という理論も一理ある。だが、どんな法律も悪用される恐れがあり、もし尊厳死が合法化されると、その悪用によって、臓器の密売など、さらに多くの犯罪への扉を開いてしまうことにもなりかねない。非常に難しい議題である。

 ヴェンキーの件では、彼は尊厳死を認められなかった。実在の彼は2004年に死去するが、その後、インドでも尊厳死は段階的に認められるようになった。尊厳死に関してヴェンキーの訴訟よりも有名なのはアルナー・シャーンバーグの訴訟だ。1973年以降、意識不明の状態にあったアルナーの尊厳死が彼女の友人に提起され、その裁判が長らく続けられた。2011年に出た判決でもアルナーの尊厳死は認められなかったが、尊厳死のガイドライン作成が支持され、インドは尊厳死の合法化に向かい始めた。インドにおいて消極的安楽死が認められたのは2018年のことである。厳しい条件つきではあるが、その条件を満たせば、脳死や植物人間状態に陥った患者の生命維持を止めることができるようになった。

 レーヴァティー監督らしい、登場人物の心情描写を丁寧に手掛けた感動的な作品になっていたが、映画としての完成度は今ひとつであった。一番残念だったのは、時間が足りなかったことだ。彼女が描こうとしていたストーリーはもっと壮大だったはずである。ヴェンキーは難病を患っていながらチェスの名人で、かつ思いやりのある人物であった。だが、映画が始まるや否や彼は病院に担ぎ込まれて寝たきりになってしまい、彼のそんな素顔が紹介される時間がほとんどなかった。父親クルネーシュと娘シャールダーの関係、そしてシャールダーと母親スジャーターの関係も、もっと時間を掛けて描写するに値するものだったはずだ。さらに、アーミル・カーンが演じていた謎の男性が、謎の男性のまま終わってしまっていた。どうもスジャーターの妄想の中の人だったようなのだが、説明が少なすぎる。法廷のシーンも、弁護士と検察官の間の緊迫感溢れる弁論の応酬みたいなものがなく、拍子抜けだった。心情描写には優しいタッチでじっくり時間を掛けていたが、それ以外の部分にも悪い意味で優しさが染み出てしまっており、メリハリがないように感じた。

 歌の使い方も少し変に感じた。歌詞の内容は良かったし、映画のストーリーともよくマッチしていたが、ソングシーンへの入り方が唐突であった。ヒンディー語映画界で培われてきた文法とは異なる使い方だ。

 「Salaam Venky」は、デュシェンヌ型筋ジストロフィーに冒され死期を目前に控えた青年とその母親の闘病物語であると同時に、尊厳死を勝ち取るための法廷劇でもあった。レーヴァティー監督らしい、優しいタッチの感動作だが、欠点がなかったわけではない。カージョルとアーミル・カーンの久々の共演は大きな見所だ。観て損はない映画である。