Fanaa

4.0
Fanaa
「Fanaa」

 今日はPVRバンガロールで、2006年5月26日公開の新作ヒンディー語映画「Fanaa」を観た。題名の「Fanaa」とはスーフィズムの専門用語で、自我の消滅と神との合一を達成した「消融」の状態を表す。ヒンドゥー教のモークシャ(解脱)や仏教のニルヴァーナ(涅槃)などと似た言葉である。転じて、文学上ではこの言葉は「愛のために命を捧げること」、「愛における破滅」を指す。

 プロデューサーはアーディティヤ・チョープラー、監督は「Hum Tum」(2004年)のクナール・コーリー、音楽はジャティン・ラリト。キャストは、アーミル・カーン、カージョル、リシ・カプール、タッブー、キラン・ケール、シャイニー・アーフージャー、ラーラー・ダッター、シャラト・サクセーナー、サティーシュ・シャーなど。

 盲目のカシュミール人女性ズーニー・アリー・ベーグ(カージョル)は、1月26日の共和国記念日式典でパフォーマンスをするため、両親(リシ・カプールとキラン・ケール)を故郷に残し、友人たちとデリーに来ていた。デリー滞在中のツアーガイドを務めていたのが、キザな詩人、リーハーン・カードリー(アーミル・カーン)であった。ズーニーはリーハーンに恋するようになり、パフォーマンスが終わった後に彼に告白する。だが、リーハーンは快い返事をしなかった。それでもリーハーンは彼女にデリー滞在の最後の夜を人生で最も素晴らしい時間にすることを約束し、彼女と一夜を過ごす。翌朝、ズーニーはプラットフォームでリーハーンと別れを告げてカシュミールへ去って行く。泣き崩れるズーニー。だが、リーハーンは列車の中まで乗り込んで来ていた。リーハーンはズーニーを連れて列車を降り、そのまま二人は結婚することにした。ズーニーの両親も急遽デリーに来ることになった。

 また、ズーニーはデリーの病院で目の手術を受けることになった。医学の進歩により、ズーニーの目は治療が可能であることが分かったからである。結婚、そして視力の回復。ズーニーの身に次々と訪れる幸せ。しかし、その幸せは不幸のどん底の予兆に過ぎなかった。

 ズーニーが目の手術をしている間、大統領官邸近く、共和国記念日式典が行われた会場で爆弾テロが発生した。ズーニーは、そこの警備員のスィク教徒ジョニー・グッド・スィンと仲良くなっており、目の回復と結婚を一緒に祝うため、リーハーンに彼を呼びに行かせていた。リーハーンは爆発に巻き込まれ、死んでしまう。視力を回復したズーニーの目の前には、初めて見る父親と母親の顔があったが、それと同時に彼女は、リーハーンの遺体の確認作業をさせられることになった。遺体はグチャグチャになっており、判別は不可能だった。しかし、持ち物は確かにリーハーンのものだった。ズーニーは、その顔を見ることなしに夫を失ってしまった。

 それから7年後・・・。インドとパーキスターンからカシュミールの完全独立を要求するカシュミール分離派IKFのテロが過激さを増していた。インド政府テロ対策本部(シャラト・サクセーナーやタッブー)は、7年前からIKF所属のあるテロリストを追っていた。その男こそリーハーンであった。インド政府は、IKFが核兵器を入手したとの驚愕の情報を得た。だが、その核兵器は「トリガー」がなければ利用は不可能である。トリガーはインド各地の軍施設に保管されていた。政府は、そのトリガーをデリーに集める命令を出す。

 カシュミールの駐屯地にもひとつのトリガーが保管されていた。そのトリガーをデリーに護送する役割を追った部隊(シャイニー・アーフージャーなど)の中に、インド軍兵士になりすましたリーハーンの姿があった。リーハーンはヘリによるトリガー護送中に兵士たちを毒殺してトリガーを奪取し、パラシュートで雪山に着地すると、逃走を始めた。追っ手をかわしながら仲間との合流地点を目指したが、腹と腕に深い傷を負ってしまう。それでも何とか追っ手を振り切ることに成功したリーハーンは、雪山の中にあった一軒家の戸を叩く。中から出て来たのは、なんとズーニーであった。しかも彼女には、リーハーンという息子までいた。それを見てリーハーンは意識を失ってしまう。

 ズーニーの看病により一命を取り留めたリーハーンは、ズーニーの母親が数年前に死んだこと、リーハーンという名の男の子は自分の息子に間違いないことを知り、苦悩する。この家を逃げ出そうにも、外は猛吹雪で身動きが取れない状態だった。IKFの仲間とも連絡がつかなかった。また、ズーニーはその男に何か懐かしい感覚を感じ始める。リーハーンはその家で数日過ごす内に次第にズーニーや息子と打ち解けるようになり、遂にズーニーや父親に自分がリーハーンであることを明かす。最初はその事実を受け容れられなかったズーニーだったが、立ち去ろうとする彼を見て思わず抱きしめる。改めてリーハーンとズーニーの結婚が父親の前で行われた。

 だが、TVでリーハーン指名手配の報道が流されたことにより、リーハーンがテロリストであることがばれてしまう。いち早く気付いたのは父親で、彼を警察に引き渡そうとするが、リーハーンは父親を崖から落としてしまう。ズーニーもすぐにリーハーンの正体に気付き、息子を連れて逃げ出す。ズーニーはテロ対策本部と連絡を取って、リーハーンの居場所を教える。リーハーンはズーニーに弁解するが、ズーニーは聞かなかった。やがてそこには、IKFの仲間がやって来る。リーハーンはトリガーを持って仲間のところへ行こうとする。だが、ズーニーは彼を銃で撃ち、そして彼を抱きしめて涙を流しながら最期を看取る。

 クナール・コーリー監督の前作「Hum Tum」とは打って変わったシリアスな作品。前半は洒落たセリフのやり取りとボーイ・ミーツ・ガール的な明るい展開から「Hum Tum」調が見受けられるが、後半は前半の雰囲気を忘れてしまうくらいどんどん沈んで行く。後味もいいとは言えなかった。「Fanaa」は2006年の期待作の一本であり、興行的にもヒットしそうだが、脚本、映像、編集などに雑な部分が散見され、細かい部分で首を傾げざるをえない部分がいくつかあった。

 この映画は、題名の「Fanaa」が暗示するような破滅的恋愛を描いているとは言えない。むしろ、男女の恋愛と国家への愛の葛藤を描いた映画と考えた方がいいだろう。映画の冒頭では、イクバール作詞の愛国歌「Hindustan Humaara」が流れたり国旗掲揚のシーンがあったりするし、国歌「Jana Gana Mana」に関するシーンもあった(カシュミール分離派テロリストのリーハーンは、インド国歌を歌うことができない)。そして、冒頭のシーンにおけるズーニーの母親のセリフ、「正しい道と間違った道を区別するのは難しいことではない。2つの正しい道からより正しい道を選ぶこと、そして2つの間違った道からより間違っていない道を選ぶこと、この2つが人生を決定する」は、そのままクライマックスのズーニーがリーハーンを銃で撃つシーンにつながって来る。愛する夫を匿うことと、国の脅威となるテロリストを殺すことは、どちらも正しいことだ。また、愛する夫を殺すこと、国の脅威となるテロリストを匿うことは、どちらも間違ったことだ。ズーニーは、その2つの正しい道、もしくは2つの間違った道から、どちらかを選ばなければならなかった。そして彼女はリーハーンに向けて引き金を引いた。愛国主義映画というバイアスからこの映画を観るならば、主人公はカージョール演じるズーニーであり、この映画が観客に送るメッセージは、「いくら愛している人でも、その人が国家に対して危険人物であったら、匿うべきではない」ということになる。そして敢えて都合よく解釈するならば、現代インドにおける「ファナー」とは、己を捨てて国に尽くすこと、ということか。このような見地に立って「Fanaa」を見ると、政治的メッセージが色濃すぎて、おそらくその評価はとても低くなることだろう。それに、インドではもし自分の愛する人がテロリストだと分かっても、そのまま愛し続ける方が普通だと思う。それこそが「ファナー」ではないのだろうか?テロをやめるように説得したりすることはあれど、いきなり逃げ出したり、警察に引き渡そうとしたり、射殺したりするのは現実的ではない。よって、終盤のズーニーの行動はあまり理解ができなかった。一般に何らかの形でインド政府に不満を持っているカシュミール人が、インドの統一性を主張したり、インドのために尽くすようなプロットも違和感があった。

 だが、アーミル・カーン演じるリーハーンに感情を移入させて見ると、もう少し違った見方もできる。リーハーンは初めから、テロリストと普通の女の子の恋愛は不可能だと知っていた。だからズーニーの告白を断ったのであり、彼女のデリー滞在最後の日に現れなかったのだ。しかし運命は二人を結びつけてしまった。カシュミールへ去ろうとするズーニーをデリーに引き留めたのはリーハーンであったが、やはりテロリストとしての義務感から、大統領官邸爆弾テロのついでに自分の死の偽装工作をし、ズーニーに自分を無理矢理忘れさせるしかなかった。「ファナー」を「自己の破滅」と定義するなら、この偽装工作は「第1のファナー」である。

 しかし7年後、リーハーンはズーニーと運命の再会を果たしてしまう。そして、彼女が今でも自分のことを愛しているばかりか、自分の息子まで生んでいたことが分かってしまう。最初はその現実を拒絶するリーハーンであったが、次第に現実を受け止め、遂には積極的に7年前の失われた幸福を取り戻そうとする。そして自分がリーハーンであることも明かしてしまう。だが、一度テロリストの道を歩んだ者に安住の地はなかった。一方で政府当局の捜索が強化され、他方でテロリスト仲間たちからのプレッシャーがかかった。核兵器のトリガーを仲間に届けたら、テロリストを辞めてズーニーと幸せな家庭を築くことを一旦は決意するが、しかし自分がテロリストであることがズーニーにばれ、しかもテロ対策本部の捜査官たちが間近に迫った状況ではどうすることもできなかった。リーハーンを射殺したのはズーニーであったが、それはリーハーンの自殺でもあった。愛する人に愛する人の目の前で殺されること、それこそがリーハーンの「第2のファナー」であり、そして彼が選んだ「究極の恋愛」であった。それは、死の間際に彼がズーニーに言うセリフ、「俺がお前を愛しているくらい、お前は俺を愛してくれていないな」にも表れている。破滅的恋愛において、死こそが最大の愛の証なのである。

 映画の最大の転機は、リーハーンがテロリストであることが発覚するインターミッション直前であろう。だが、心情的に最も丁寧に描かなければならないのは、7年後にリーハーンがズーニーと再会し、自分がリーハーンであることを明かすシーンだ。そのために、ズーニーは盲目だったためにリーハーンの顔を知らないという巧妙な伏線が張られていた。だが、リーハーンはちょっといい雰囲気だったアンタークシャリー(歌しりとり)の後に、かなり唐突にズーニーに正体を明かしてしまった。しかも、それをさっきまで酔っ払っていたはずの父親が盗み聞きしているという、まるで低予算TVドラマのような展開が続き、残念であった。「Fanaa」の最大の欠点はこの部分に尽きるであろう。

 この映画は、カージョル復帰作としても重要である。90年代後半のヒンディー語映画界で大活躍したカージョルは、アジャイ・デーヴガンとの結婚を機に銀幕から遠のいていた。最後に映画に出演したのは「Kal Ho Naa Ho」(2003年)の特別出演。本格的出演に限定すると、最後は「Kabhi Khushi Kabhie Gham」(2001年)になる。よって、5年振りの復帰と言っていいだろう。もっとも、去年あたりからアジャイ・デーヴガンと共にTVCMに出演したりしていたので、インド在住の人々にとってはカージョルはそれほど久し振りでもない。今回盲目のカシュミール人の女の子を演じたカージョルは、改めて高い演技力を証明したと言っていい。「Black」(2005年)で同じく盲目の少女を演じたラーニー・ムカルジーと比べて、自然な演技が光っていた。

 数年に一本の映画にしか出演していなかったアーミル・カーンだが、今年は既に2本目の出演作である。今回演じた役柄には、40歳を過ぎた彼はもはやおっさん過ぎるような気もしたが、そこは演技力でカバーしていた。だが、リーハーンのキャラクター設定の詰めが甘かったため、その演技力が生かされていなかった部分があった。特に終盤、リーハーンがトリガーを奪って逃げたズーニーを追って雪道を走っているシーンは、まるでターミネーターが迫ってくるような怖さがあったのだが、いざズーニーの前に表れたリーハーンは何だか間抜けな表情をしていた。この追いかけシーンで完全にリーハーンは悪役になってしまったのかと思ったが、やっぱり主人公なのでその後の行動との脈絡が少なくなってしまっていた。これらは演技力云々ではなく、脚本の問題であり、アーミルもどういう表情をしたらいいのか分からない場面だっただろう。

 リシ・カプール、キラン・ケールなどはいい演技をしていた。タブーやシャイニー・アーフージャーはあまり活かされていなかった。前半でラーラー・ダッターが一瞬だけ特別出演していたのだが、全くの蛇足であった。アイテムナンバーが用意されていたけどカットされてしまったとか、そういう類のミスであろうか?

 音楽はジャティン・ラリト。口笛のメロディーが印象的な「Chand Sifarish」は、クトゥブ・ミーナールのミュージカルシーンで使われていた。アーミル・カーンは肩を揺らすだけの脱力系踊りを踊っていた。この歌は「Fanaa」のタイトルソング扱いとなっている。後半、リーハーンとズーニーの7年後のロマンスのシーンに流れる「Mere Haath Mein」も、「僕の手に君の手、それだけで天国の全てが僕のもの・・・」という美しい歌詞の歌である。「Fanaa」のCDは買いであろう。

 「キザで詩人なツアーガイド」のリーハーンが大活躍する前半は、ウルドゥー詩のオンパレードとなる。よって、ウルドゥー語彙と詩が理解できるだけの語学力がないと付いていくのはつらいであろう。映画中、最も重要な役割を果たす一節は以下の通りである。ズーニーは母親からこの詩を聞き、そしてリーハーンに聞かせる。

Tere Dil Mein Meri Saanson Ko Panah Mil Jaaye
Tere Ishq Mein Meri Jaan Fanaa Ho Jaaye

あなたの心に安息できますように
あなたの愛に破滅できますように

 他にも美しい詩がいくつも出て来て、映画の詩情を盛り上げている。「Mere Haath Mein」から2つの詩を抜粋。

Rone De Aaj Humko, Tu Aankhein Sujane De
Baahon Mein Le Le Aur Khud Ko Bheeg Jaane De
Hai Jo Seene Mein Qaid Dariya, Woh Choot Jaayega
Hai Itna Dard Ki Tera Daman Bheeg Jaayega

今日は泣かせてくれ、涙を流させてくれ
腕に抱いてくれ、そして涙に沈ませてくれ
胸に閉じ込められた河、堰を切って流れ出すだろう
これだけの痛み、お前のスカートを濡らすだろう

Adhoori Saans Thi
Dhadkan Adhoori Thi
Adhoore Hum
Magar Ab Chand Poora Hai Falak Pe
Aur Ab Poore Hain Hum

不完全な息を吐いていた
鼓動も不完全だった
そして不完全な俺たち
でも今は月は満ちている、天空に
そして今、俺たちは完全だ

 アクションシーンはハリウッドと比べても遜色のないものがいくつかあった。特にリーハーンがトリガーを奪ってヘリコプターから飛び降りるシーンはとても迫力があった。だが、ズーニーの父親が崖から落ちるシーンはちょっと稚拙だった。ヘリコプターがやたら炎上して墜落するのもやり過ぎだと思った。

 リーハーンがズーニーらのツアーガイドを務める前半では、デリーの観光名所や有名スポットがかなり網羅されていた。クトゥブ・ミーナール、フマーユーン廟、トゥグラカーバード砦、大統領官邸、インド門、鉄道博物館、メディカル・フライオーバーなどなど。また、カシュミールのシーンの大半はポーランドで撮影されたようだ。当初はジャンムー&カシュミール州ロケが予定されていたようなのだが、テロを恐れるカージョルが難色を示したらしい。エンドクレジットから察するに、マナーリーでも部分的にロケが行われた可能性がある。

 「Fanaa」はインド映画には珍しいアンハッピーエンドの映画である。愛国主義的臭いもプンプンするが、決してそれだけではない映画だ。少し雑な部分もあるが、映画館まで観に行く価値のある映画だと言える。美しい雪山の風景は、酷暑期向け避暑用映画としての付加価値もあるだろう。映画は丸々3時間あるので、気合を入れて観ていただきたい。