Samrat Prithviraj

4.0
Samrat Prithviraj
「Samrat Prithviraj」

 2014年にヒンドゥー教至上主義を掲げるインド人民党(BJP)が中央政府の政権を握り、ナレーンドラ・モーディーが首相に就任して以降、ヒンディー語映画界は時勢に乗って、イスラーム教徒や英国人などの外敵に対峙したヒンドゥー教徒の歴史的英雄が主人公の愛国主義的な映画を盛んに作るようになった。「Bajirao Mastani」(2015年)、「Padmaavat」(2018年/邦題:パドマーワト 女神の誕生)、「Manikarnika: The Queen of Jhansi」(2019年/マニカルニカ ジャーンシーの女王)、「Panipat」(2019年)などである。

 2022年6月3日公開の「Samrat Prithviraj」もその種の映画に数えられる。映画の主人公になっているのはプリトヴィーラージ・チャウハーン。12世紀にデリー周辺を支配した実在の王である。1191年、ガズニー(現アフガーニスターン)を拠点とするムハンマド・ガウリーがインドに侵略し、プリトヴィーラージは勇敢に戦って撃退した。しかし翌年にも再び侵略を受け、このときはプリトヴィーラージが敗れ、殺害された。ムハンマド・ガウリーはデリーに腹心の奴隷軍人クトゥブッディーン・アイバクを置いてガズニーに帰った。やがてアイバクは独立して自分の王朝を樹立した。これがいわゆる奴隷王朝であり、デリー・サルタナト朝の始まりである。以降、ムガル朝の崩壊まで、デリーの支配者はほぼ切れ目なくイスラーム教徒であった。

 デリーをインドの政治の中心とし、ヒンドゥー教徒の立場から見た一方的な歴史観では、プリトヴィーラージが最後のヒンドゥー教徒の王になる。彼がムハンマド・ガウリーに敗れて殺害されて以降、インドは約750年間、まずはイスラーム教徒の、次に英国人の支配を受け、ヒンドゥー教徒は長い受難と屈辱の時代を耐え忍ぶことになった。よって、歴史上の重要人物である以上に、ヒンドゥー教の守護者として半ば神格化された存在になっている。

 ただし、プリトヴィーラージの死以降もインド亜大陸各地にはヒンドゥー教の王国は残っており、ヒンドゥー教徒の王が途絶えてしまったわけではない。デリーの支配者をインド亜大陸の支配者とみなす北インド人に都合のいい歴史観が、プリトヴィーラージを最後のヒンドゥー教徒の王たらしめているだけである。

 また、この映画の公開を機に、プリトヴィーラージがどのカーストに属するのかという議論が沸き起こった。一般的にはラージプートだと考えられていると思うが、グルジャル(グッジャル)だとの主張もある。「Samrat Prithviraj」では、この不毛な議論に巻き込まれないために、敢えてカーストには触れられていない。

 プリトヴィーラージの英雄譚は、「プリトヴィーラージ・ラーソー」という叙事詩に綴られ、ラージャスターン地方を中心に語り継がれ愛されることになった。ヒンディー語文学史では、最初期のヒンディー語文学作品として必ず言及される。「プリトヴィーラージ・ラーソー」の作者はプリトヴィーラージの宮廷詩人チャンド・バルダーイーだとされている。「プリトヴィーラージ・ラーソー」にはチャンド・バルダーイー自身も登場し、ムハンマド・ガウリーによってプリトヴィーラージと共に殺害されている。よって、チャンド・バルダーイーが「プリトヴィーラージ・ラーソー」を作ったのが本当だとすれば、この作品は12世紀まで遡ることになる。ただ、ほとんどの学者はそれを認めておらず、一般的にはもっと時代が下った後に成立したと考えられている。

 「Samrat Prithviraj」は「プリトヴィーラージ・ラーソー」を原作にしている。元々題名は単に「Prithviraj(プリトヴィーラージ)」だったが、プリトヴィーラージを神格化している団体から、彼の呼び捨てはけしからんという物言いがあり、公開1週間前になって突然、「皇帝」という意味の称号である「Samrat」が加えられた。

 プロデューサーはアーディティヤ・チョープラー。ヤシュラージ・フィルムスにとって野心的な歴史大作であり、製作費は15億ルピーとも30億ルピーともいわれている。監督は「Pinjar」(2003年)や「Mohalla Assi」(2018年)などのチャンドラプラカーシュ・ドゥイヴェーディー。文学作品を原作にした映画を好んで作っている。

 主演はアクシャイ・クマールと新人のマーヌシー・チッラル。マーヌシーは2017年のミス・インディアであり、当時から女優デビューが噂されていたが、ようやくこの「Samrat Prithviraj」でお披露目となった。本来ならばこの映画は2020年に公開される予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大が深刻化して撮影が中断してしまい、ようやく2022年に公開となった。マーヌシーは次代を担う女優として注目されており、彼女のデビューの遅れは残念である。

 その他のキャストは、サンジャイ・ダット、ソーヌー・スード、マーナヴ・ヴィージ、アーシュトーシュ・ラーナー、サークシー・タンワル、マノージ・ジョーシー、ラージェーンドラ・グプターなど。

 プリトヴィーラージ・チャウハーン(アクシャイ・クマール)はアジメールの王だった。ガズニーの王ムハンマド・ガウリー(マーナヴ・ヴィージ)と仲違いして亡命してきたミール・フサインを庇護したことでムハンマドと敵対し、戦争に発展する。だが、プリトヴィーラージは見事な戦略でムハンマドの軍隊を蹴散らし、彼を生け捕りにする。プリトヴィーラージの忠臣カーカー・カーナー(サンジャイ・ダット)は処刑を主張するが、プリトヴィーラージは寛容さを見せ、ムハンマドを釈放する。

 デリーの王は後継者にプリトヴィーラージを指名する。だが、カンナウジの王ジャイチャンド(アーシュトーシュ・ラーナー)はそれに反発し、プリトヴィーラージにデリーの半分をよこすように要求する。プリトヴィーラージはそれを断る。今度はジャイチャンドは娘サンヨーギター(マーヌシー・チッラル)のスワヤンヴァル(花婿自選式)を行おうとする。実はプリトヴィーラージとサンヨーギターは文通をしており、恋仲にあった。ジャイチャンドはプリトヴィーラージの像を作って無理矢理スワヤンヴァルを強行するが、サンヨーギターは花輪をその像にかけ、プリトヴィーラージを夫に選ぶ。そこへプリトヴィーラージが現れ、サンヨーギターを連れ去っていく。プリトヴィーラージとサンヨーギターの結婚式が行われる。

 ジャイチャンドはプリトヴィーラージの支配下にあるガウリープル城を攻め落とす。カーカー・カーナーはガウリープル城を取り戻すために反撃するが、そこで命を落としてしまう。

 次にジャイチャンドは、親しい貿易商サウダーガル(マノージ・ジョーシー)をガズニーに送り、ムハンマドと密約を交わす。ムハンマドはデリーに攻め込む。長期戦となるが、ムハンマドは夜襲を掛けてプリトヴィーラージを捕らえ、宮廷詩人チャンド・バルダーイー(ソーヌー・スード)やその他の兵士たちと共にガズニーに連れて行く。アジメールではサンヨーギターは他の女性たちと共にジャウハルを行う。

 ガズニーでムハンマドはプリトヴィーラージの両目を潰してしまう。しかし、プリトヴィーラージはムハンマドと決闘をし、目が見えないにもかかわらず正確にムハンマドを射抜き、彼を殺す。プリトヴィーラージとチャンド・バルダーイーはムハンマドの部下たちに殺されてしまうが、捕らえられた兵士たちは釈放される。

 まず明確にしておかなければならないのは、「プリトヴィーラージ・ラーソー」は歴史書としては信憑性が低い文献とされていることだ。そもそも異本がいくつもあり、どれがもっとも正確なのかを特定するのも困難である。そして「Samrat Prithviraj」は結局のところ娯楽映画だ。原作をそのまま映画化するだけでは娯楽映画として成立しない。また、プリトヴィーラージの敗北を描かなければならないため、ヒンドゥー教徒観客の心情を損なわないために、その描写には慎重を期さなければならない。その結果、「Samrat Prithviraj」は、「プリトヴィーラージ・ラーソー」をかなり自由にアレンジした映画になっていた。映画の細かい部分を取り上げて、史実との違いや時代考証の不足をあげつらうのは野暮であろう。むしろ、この歴史フィクションからどんなメッセージが発信されているのかを読み取るのが重要である。

 予想通り、ヒンドゥー教徒側を善とし、イスラーム教徒側を悪とした、分かりやすい構造になっていた。プリトヴィーラージはダルマ(法)を遵守し善政を敷く君主として描かれ、戦場でも機知を利かすことができ、圧倒的な武勇を誇る最強の戦士である。そして、この時代にありながら女性を尊重するジェントルマンだ。それに対しムハンマド・ガウリーは、女性を蔑ろにし、姑息な手段を使って戦争に勝つことを厭わない、まるで取り柄のない完全な悪役である。プリトヴィーラージはムハンマド・ガウリーに一度は勝利するものの、二度目の戦いでは敗北してしまう。だが、それはムハンマドがルール違反の夜襲を掛けたからであり、正々堂々と戦うことを戦士として最上の徳とするプリトヴィーラージは騙し討ちされたのだった。このように理由づけることで、プリトヴィーラージの敗北は本当の敗北ではないと主張されていた。また、一度捕らえたムハンマドを逃がしてしまったことも、プリトヴィーラージの寛容さを示す美談として扱われていた。

 最終的には侵略者に敗北したヒンドゥー教徒の為政者を正当化して描くには、騙し討ちされたということにするのが一番都合がいい。「Padmaavat」でも、ヒンドゥー教徒の王ラタン・スィンはイスラーム教徒の侵略者アラーウッディーン・キルジーとの一騎打ちにて騙し討ちによって負けていた。それと全く同じ構造である。

 また、12世紀にヒンドゥー教徒の王朝がイスラーム教徒の侵略者によって滅ぼされた一因に、ヒンドゥー教徒の諸侯が一致団結できなかったことが挙げられることが多い。この映画において、ムハンマドの他にもう一人の悪役がいる。それはジャイチャンドだ。彼はプリトヴィーラージの義父にあたるのだが、ひたすらプリトヴィーラージを敵視しており、あろうことかムハンマドをインドに呼び入れてしまった。確かにそれによってプリトヴィーラージを消し去り、彼の王朝を崩壊に導くことができたが、その後、イスラーム教の王朝がインドに根付くことを助けてしまった。インドが瀬戸際に立たされたとき、インド人同士が結束して事に当たることの重要性が、教訓として提示されていた。

 いかにも現代的だと感じたのは、女性の権利や男女の平等が強調されていたことである。つまり、フェミニズム映画としての性格を持っていた。「Padmaavat」は題名からして女性が主人公の映画だったため、時代劇にフェミニズムを持ち込むことへの問題を強く感じなかったが、「Samrat Prithviraj」は男性が主人公の映画だ。それにもかかわらず、サンヨーギターが極端に目立っていた。サンヨーギターは、夫を自ら選ぶことを当然の権利と主張し、父親に背いて、選択肢になかったプリトヴィーラージを結婚相手に選ぶ。プリトヴィーラージは会議の場においてサンヨーギターを同席させるが、そこでサンヨーギターは出席する男性たちの前で、男女の同権を声高らかに宣言する。そして、サンヨーギターは戦争での夫の敗北を知るや否や、戦争で死ぬのは男性だけではないと言わんばかりに、踊りながら火の中に飛び込んでジャウハルを行う(参照)。フェミニズムを意識したサンヨーギターのこれらの行動は、12世紀の中世インドを舞台にしたこの映画の中ではやり過ぎの感があり、映画のバランスを著しく欠いていた。

 ちなみに、原作「プリトヴィーラージ・ラーソー」で描かれているサンヨーギター(もしくはサンユクター)は、どちらかといえば男性を籠絡させる妖艶な女性であり、フェミニズムの対極にある種類の女性だ。「パドマーワト」の主人公パドマーワティー(もしくはパドミニー)やシャージャハーンの愛妻ムムターズ・マハルと並んで、インド史を彩る絶世の美女として知られている。実は、プリトヴィーラージはサンヨーギターとの結婚後、彼女との情事に溺れてしまい、しばらく政治が疎かになってしまったと記述されている。プリトヴィーラージにとってもサンヨーギターにとっても都合の悪いそのようなシーンは「Samrat Prithviraj」では割愛されていた。もっとも、サンヨーギターの実在は不明であるし、当然のことながら、彼女がジャウハルした歴史的な証拠もない。

 だが、サンヨーギターを演じたマーヌシー・チッラルは良かった。ミス・インディアの美貌に加え、自立した女性を思わせる強さが顔に滲み出ており、十分に今後のヒンディー語映画界を背負って立てる人材だと感じた。

 アクシャイ・クマールは、時代劇においても、王を演じても、持ち前のお茶目さが出ており、それがいいところでもあり悪いところでもあった。もっと威厳のある演技をした方が良かったかもしれない。ムハンマド・ガウリーを演じたマーナヴ・ヴィージやジャイチャンドを演じたアーシュトーシュ・ラーナーなど、悪役陣は奮闘していた。チャンド・バルダーイーを演じたソーヌー・スードは持て余し気味に感じた。インド史的な観点からいえば、奴隷王朝を樹立したクトゥブッディーン・アイバクがムハンマド・ガウリーの部下としてちゃんと登場していたのがポイントが高かった。

 音楽監督はシャンカル・エヘサーン・ロイである。インドの時代劇は、大予算を掛けた豪華絢爛なコスチュームダンスが見所のひとつになることが多い。しかしながら、「Samrat Prithviraj」の楽曲はどれも無難にまとまってしまっており、印象に残る曲がなかった。

 前述の通り、時代考証などの細かい部分に突っ込みを入れることはしないが、一点だけ気になったのは台詞である。プリトヴィーラージなどのヒンドゥー教徒キャラがしゃべる台詞の中にアラビア語・ペルシア語由来の語彙が多くあり、あまり中世インドのヒンドゥー教徒という感じがしなかった。普通はもっとサンスクリット語の語彙を交ぜるはずだが、敢えて分かりやすさの方を取って、台詞の語彙にこだわらなかったのだろうか。それともうっかりミスであろうか。

 「Samrat Prithviraj」は、ヤシュラージ・フィルムスが過去最大規模の予算を掛けて作った野心的な時代劇映画である。ヒンドゥー教至上主義や愛国主義がトレンドになっている今のインドで、プリトヴィーラージ・チャウハーンを題材に選んだ着眼点も悪くなかった。昨今の汎インド映画化の流れに乗って、ヒンディー語と同時にタミル語とテルグ語の吹替版も同時公開された。しかし、観客には気に入ってもらえず、今年のヒンディー語映画界最大の失敗作の烙印を押されてしまった。大失敗作というほど酷い映画ではなかったが、必要以上にフェミニズムを意識しているところなど、時代劇としてバランスを欠いていたと感じた。2010年代は女性中心の映画が受けたが、2020年代に入り、どうも揺り戻しがきているようで、男性中心のマッチョな映画が受けている。もっとプリトヴィーラージの武勇伝を強調して作ることもできただろうが、残念ながら「Samrat Prithviraj」は時代の流れに乗り遅れてしまっている。個人的にはとても楽しめたのだが、市場の評価は残酷である。インド史やヒンディー語文学が好きな人には間違いなくオススメできるが、それ以外の人の琴線には触れないかもしれない。