Pinjar

4.5
Pinjar
「Pinjar」

 今日はPVRアヌパム4で、2003年10月24日公開の新作映画「Pinjar(鳥かご)」を見た。女流作家アムリター・プリータムの同名小説が原作で、印パ分離独立時が舞台となっている。2001年大ヒット作「Gadar: Ek Prem Katha」を想起させるストーリーである。インド映画業界にしては大冒険の、パーキスターン・ロケを敢行したことで話題だ。キャストはウルミラー・マートーンドカル、マノージ・バージペーイー、サンジャイ・スーリー、サンダリー・スィナー、プリヤーンシュ・チャタルジー、イーシャー・コッピカル、リレット・ドゥベー、クルブーシャン・カルバンダー、ファリーダー・ジャラール、アーローク・ナート、スィーマー・ビシュワースなどなど。主役はちょっと癖のある俳優2人、準主役は最近売り出し中の若手俳優数人、脇役はベテラン俳優ばかりという布陣である。監督はチャンドラプラカーシュ・ドゥイヴェーディーという人で、元々TVドラマなどの監督をしている人のようだ。

 1946年、パンジャーブ地方。アムリトサルに住むヒンドゥー教徒のプーロー(ウルミラー・マートーンドカル)は結婚相手を探すため、家族と共にアムリトサルから父親モーハンラール(クルブーシャン・カルバンダー)の田舎へ来ていた。縁組はとんとん拍子で進み、プーローは地元の名士シャームラールの長男ラームチャンド(サンジャイ・スーリー)と結婚することに決まった。同時にプーローの兄トリローク(プリヤーンシュ・チャタルジー)と、ラームチャンドの妹ラージョー(サンダリー・スィナー)の結婚も決まった。

 ところがある日プーローは、モーハンラールの家に恨みを抱いていたムスリムの家の息子ラシード(マノージ・バージペーイー)に誘拐される。トリロークは警察に届け出て彼女を捜索することを主張するが、父親は承知しない。娘が誘拐されたとあっては家名を汚すことになるからだ。両家はプーローの誘拐を隠し、プーローの妹ラッジョー(イーシャー・コッピカル)をラームチャンドと結婚させることに決めた。こうしてラームチャンドとラッジョー、トリロークとラージョーの結婚式が行われた。

 一方、プーローはラシードの家に監禁されていた。プーローを誘拐したのは父親の命令であったが、彼はそれ以前に彼女に一目惚れをしていた。プーローは毎日泣き暮らしていた。ある夜こっそり逃げ出して家に戻るが、両親は彼女を受け入れなかった。もはやプーローは死んだことになっており、今さら帰って来てももはや家に住む場所はなかった。プーローは泣く泣くラシードの元へ帰り、彼と結婚することになった。彼女はハミーダーというムスリム名を名付けられ、腕に刺青を入れられた。

 プーローとラシードは彼の田舎へ引っ越した。ラシードはプーローを誘拐したものの、彼女をひどく扱うことはしなかった。半年ほどは泣き暮らしていたが、次第に自分の運命を受け入れるようになっていた。この間、彼女は自分の夫となるはずだったラームチャンドに一度出会っている。

 1947年8月15日、インドとパーキスターンはイギリスから分離独立を果たした。この分離独立によってヒンドゥー教徒・スィク教徒とイスラーム教徒の間に深刻な暴動が発生し、特にパンジャーブ地方ではインドに向かうヒンドゥー・スィク教徒と、パーキスターンに向かうイスラーム教徒の間で血で血を洗う殺戮が繰り広げられた。

 プーローとラームチャンドの家はパーキスターンの領土になった。ラームチャンドの家族はインドへ向かうことになったが、途中でムスリムの暴徒たちに襲われ、ラームチャンドの両親や妻は殺害され、妹のラージョーが誘拐されてしまう。途中、プーローと偶然出会ったラームチャンドは、彼女にラージョーを探すよう頼む。

 プーローはラームチャンドの旧家で使用人として働かされていたラージョーを発見し、ラシードの助けを借りて彼女を救い出す。その頃パーキスターンとインドの国境の町ワーガーでは、行方不明になった身内を探すために両国からたくさんの人が来ていた。ラシード、プーロー、ラージョーはワーガーへ行き、ラームチャンド、トリロークと再開する。

 トリロークはプーローに、インドへ来るよう説得する。しかしプーローは承知しなかった。既に彼女の心はラシードと共にあった。彼女はラシードと共にパーキスターンに住むことに決めたのだった。彼女の決意を尊重したラームチャンド、トリローク、ラージョーはインドへ帰っていた。

 興行収入の観点から見たら、2001年の「Gadar」は成功した作品だったと言えるだろう。しかしストーリーには不満点が残った。特にラストシーンは普通のインドのアクション映画とあまり変わらなくて、力づくでごりおしされていた感が強かった。しかも全ての問題が解決されておらず、結果的に「Gadar」の脚本は破綻していたと言っていいだろう。その「Gadar」と同じく、印パ分離独立の時代をテーマにしたこの映画、もちろん「Gadar」の二番煎じとの声が挙がるのは避けられないが、僕は「Gadar」よりも数段上の作品だと自信を持って言える。たとえ興行的に失敗したとしても、「Pinjar」は2003年必見の映画のひとつに数えられるだろう。

 時は1946年。英国からの分離独立が現実のものとなって見えてきて、どのような形で独立するかの議論が盛んに交わされていた時期だった。そんな混迷の時代に、アムリトサルに住むプーローは、まるで空を飛び回る小鳥のように自由気ままな生活を送っていた。その様子は冒頭のパンジャービー語ソング「Maar Udari」で「飛べ飛べ小鳥よ」と歌われている。

 結婚が決まり、幸福の絶頂にいたプーローを一転して不幸が襲う。彼女はラシードによって誘拐され、幽閉されてしまう。その後彼と結婚したプーローは、家族とも離れ離れになって、ムスリムとして生活することを余儀なくされる。これが題名「Pinjar(鳥かご)」の比喩するところであることは言うまでもない。だが、彼女が幽閉されたシーンの直後に、鳥かごに入った鳥の映像が映し出されるのはあまりにステレオタイプに思えた。

 日本人には、娘プーローを誘拐されたモーハンラールのとった態度が理解できないだろう。僕もあまり納得できなかった。普通娘が誘拐されたら捜索するだろう。しかし彼は「娘が誘拐されたとあっては家名が穢れる」として、娘は死んだものとして扱い、その事件を世間に公表しなかった。そういうものなのだろうか。

 1947年の印パ分離独立時に起こった大混乱、大殺戮は、現在に至るまでインド人に語り継がれており、度々話題にのぼる。この映画でもその描写はすさまじく、ヒンドゥーもムスリムも大勢の人々が暴徒に襲われて命を落とした上に、女性たちは誘拐され、レイプされ、奴隷とされた。プーローは暴動から逃れてきたヒンドゥーの女の子を助け、さらに誘拐された兄の嫁ラージョーを何とか探し出してインドに帰す。この映画の隠れた主題は、「女性問題」だった。

 ラストシーンで、プーローはインドに帰らず、パーキスターンに住み続けることを決心する。この展開は、おそらくインド映画をたくさん見ている人にとっては心地よく、あまり見ていない人には「なぜ?」と納得がいかないものかもしれない。誘拐されて無理矢理結婚させられた女性がいたとし、自分の家族の元に帰るチャンスがやって来たとしたら、普通は帰ろうとするだろう。北朝鮮に拉致された日本人の例を見ても明らかだ。しかしプーローは夫と共にパーキスターンに残った。これはインド映画の不文律「結婚は絶対である」に則っていると考えられる。インド映画の中で、一度結婚してしまった男女は、どんなにお互い憎みあっていても、別の好きな人がいても、別れないようにできている。その内お互いに惹かれあってめでたくハッピーエンドとなることがほとんどだ。たとえ離婚しても、ラストシーンではまた再婚したりする。「Haan Maine Bhi Pyar Kiya」(2002年)が記憶に新しい。僕はいかにもインドの道徳に沿った、悲しいが心地よい終わり方に思えた。

 ウルミラー・マートーンドカルは「Bhoot」(2003年)に引き続き、ヒステリックな演技が随所に見られた。このままこの路線で行くのだろうか?ウルミラーはどちらかというと二流のイメージが強いので、そろそろ独自の路線を確立した方がいいかもしれない。マノージ・バージペーイーは「Road」(2002年)で演じたような気味の悪い悪役の再演かと思いきや、繊細な感情を持った不器用な男役を迫真の演技で演じ、やはり只者ではないと感じさせられた。どちらかというと、プーローよりもラシードの方が重要な役柄だったかもしれない。もう少しラシードの心情描写があれば、もっといい作品になったと思う。

 プーローの父モーハンラールを演じたクルブーシャン・カルバンダーは、「Lagaan」(2001年)でマハーラージャー役をやっていた俳優だ。あのイメージが強かったので、彼がスクリーンに登場したときは「ジャイ・マハーラージ!」と言いそうになった。

 端役だったが、スィーマー・ビシュワースがパグリー(狂女)役で出演していた。この女優はいつも変な役を演じるので、個人的に注目している。パグリーは男児を生んで野垂れ死ぬが、その子供をプーローは育てようとする。パグリーはヒンドゥー、プーローはムスリム(にさせられた)だったから、村の長老の反対にあって子供を取り上げられる。

 音楽は大ヒットCD「Gadar」を作曲したウッタム・スィン。アップテンポの音楽から、ゆるやかな祈りの音楽まで、幅広い音楽が「Pinjar」のCDに入っている。なんとウッタム・スィンは映画にも特別出演している。

 2001年の「Lagaan」、「Gadar」の二大ヒットからインド映画も時代劇に手を出すようになってきた。この映画もその流れから作られた時代劇と言えるだろう。時代劇というと、精密な時代考証と美術・衣装スタッフなどの腕が問われる。しかしなんだか肝心なセットが安っぽくて、重厚な雰囲気が出ていなかったのが残念だ。おそらく本物の当時の自動車やバスなども登場したが(コレクターなどから借りたのだろう)、それだけ本物っぽくて、周りの雰囲気にあまり溶け込んでいなかったように思えた。パーキスターンのワーガーでロケを行ったそうなのだが、ワーガーのシーンも、別にワーガーで撮影しなくても撮れるような中途半端な環境だった(逆に言えば、国境の町ワーガーの限られた場所でしかロケが認められなかったのかもしれない)。物語の重要なシーンではあったのだが、言われなければそこが本当にワーガーだとは気付かず、その価値が分からない。ラホールのアーラムギーリー門でも映してくれればパーキスターンでロケをしたと一発で分かるのだが。ここは、「パーキスターンでロケを行ったという事実がとりあえず重要だ」としておこう。パーキスターンではインド映画の上映が禁止されているようなのだが、この映画くらいは上映されてもいいかもしれない。両国の映画業界もこれをきっかけに是非歩み寄ってもらいたい。

 この映画から推し量られたのだが、独立前のインドの町の看板などは、全部ウルドゥー語で書かれていたようだ。デーヴナーグリー文字が初めて表れるのは、ラストシーンのワーガーだったように記憶している。独立前のインドはヒンディー語よりもウルドゥー語の方が主流だったのだろう。