アンチINCの映画

 インドの中央政府は2014年からインド人民党(BJP)が政権を担っており、ナレーンドラ・モーディーが首相を務めている。その前の10年間はインド国民会議派(INC)が与党で、マンモーハン・スィンが首相だった。

 2014年以降に公開されたヒンディー語映画には、明らかにINCをバッシングするような内容の映画が増えている。それと同時に、親モーディー首相、親BJPと取れる映画も見つかる。一部ではあるが、政治的イデオロギーに駆られた映画作りが行われるようになったと感じられる。

 そもそも、INCは伝統的に映画というメディアに対し冷たかった。1947年の独立以来、INCは長きに渡ってインドを代表する全国政党として中央の政治を握って来たが、INCが与党の間、インドの映画産業は、賭博などと並ぶ社会悪として冷遇され続けて来た。これが何を意味するかと言えば、例えば、映画製作のために銀行から融資を受けることができなかったのである。そのため、インド映画業界にはブラックマネーが流れ込み、マネーロンダリングの温床となっていた。

 インド映画が「産業」として正式なステータスを得たのは2000年だったが、そのときの与党はBJPであった。BJPのこの英断のおかげで、映画産業を巡る法整備が進み、業界にクリーンな資金が流れ込むこととなって、インド映画は急速に発展した。

 果たしてインド映画業界内にBJPに対して恩を感じている人々がどのくらいいるのか分からないが、少なくとも2014年にBJPが政権を奪取してからは、INCの暗部に切り込むような作品が作りやすくなったことは確かである。

 特に槍玉に挙がるのが、初代首相ジャワーハルラール・ネルーの娘インディラー・ガーンディーだ。インディラーは1966年から77年、そして80年から84年まで首相を務めた。長期に渡って政権を握っただけでなく、「内閣の中の唯一の男」と称されるほど強権的な政治を行った。現在、INCで指導的な立場にあるラーフル・ガーンディーは、インディラー・ガーンディーの孫に当たる。INCは「ネルー・ガーンディー王朝」「家族所有政党」と揶揄されるほど、この一家の権力が強い政党である。よって、たとえ過去の人であっても、ガーンディー家の歴代メンバーを貶める内容の映画を作ることで、その末裔ラーフル・ガーンディーのイメージダウンにもつながり、INCの力をそぐことができるという寸法である。

インディラー・ガーンディー

 以下に挙げる作品の中には、必ずしもアンチ国民会議派のイデオロギーが感じられないものもあるが、国民会議派にとっては都合の悪い映画であることには変わりないため、同様に取り上げている。

非常事態宣言

 インディラー・ガーンディー政権時代を批判的に取り上げようと思った場合、最も主題となりやすいのは、1975年から77年までの非常事態宣言である。総選挙で敗北しそうになったインディラー・ガーンディー首相が自暴自棄になって発令したとの見方が一般的だ。非常事態宣言発令によって憲法が停止されたことで、ガーンディー首相による独裁体制が敷かれることになった。このとき、多くの強権的な政策が実行に移されたが、特に人々の脳裏に残っているのは、「ナスバンディー」と呼ばれる精管切除手術(パイプカット)である。人口抑制のため、半ば強制的に貧困男性のパイプカットが行われた。

 非常事態宣言を主題にした映画、もしくは非常事態宣言が時代背景として使われている映画には以下のものがある。

シャーストリー首相客死

 インディラー・ガーンディーが首相に就任する前、第2代首相をラール・バハードゥル・シャーストリーが務めていた。農業や畜産の改革を矢継ぎ早に行い、それらの生産性を飛躍的に高めた上に、核開発にも着手し、国防強化にも貢献した有能な政治家であった。だが、シャーストリー首相は1965年の印パ戦争を受けた平和条約調印のためにウズベキスタンのタシケントを訪れた際に心臓発作を起こして死亡した。しかしながら、その死には謎が多く、暗殺説も唱えられている。

ラール・バハードゥル・シャーストリー

 彼の死の謎を追った作品が「The Tashkent Files」(2019年)である。名指しは避けられているものの、シャーストリー首相の死によって最も利益を被った人物が真犯人だとされており、それは他ならない、彼の跡を継いで首相に就任したインディラー・ガーンディーのことだと考えざるを得ない。

スィク教徒虐殺

 1984年10月31日、インディラー・ガーンディー首相がスィク教徒の護衛に暗殺されるという大事件が起こった。ガーンディー首相は同年6月に、スィク教総本山ゴールデン・テンプルに立て籠もった分離派活動家ジャルナイル・スィン・ビンドラーンワーレーを攻撃して殺害しており、その報復であった。だが、ガーンディー首相暗殺の報が市井に広まると、今度はスィク教徒に対する虐殺が始まった。虐殺は4日間に渡って続き、数千人が殺されたとされている。

 このスィク教徒虐殺を、国民会議派の政治家たちが扇動もしくは組織したと言われている。だが、一人として罰を受けた者はいない。

 スィク教徒虐殺を取り扱った映画としては、以下のものが挙げられる。

カシュミーリー・パンディト問題

 カシュミール地方には元々カシュミーリー・パンディトと呼ばれるヒンドゥー教徒ブラーフマンが住んでいたが、1980年代にジャンムー&カシュミール州では政情が不安定となり、州内で多数派を占めるイスラーム教徒からカシュミーリー・パンディトが迫害されるようになった。それに耐えきれず、多くのカシュミーリー・パンディトが故郷を捨てて逃げることになったのだが、特に1990年には大規模な移動があった。

 当時、中央政府はINCが政権を担っており、インディラー・ガーンディーの息子ラージーヴ・ガーンディーが首相を務めていた。また、ジャンムー&カシュミール州の州首相ファールーク・アブドゥッラーはINCと懇意にしていた。彼らはカシュミーリー・パンディトの救済をせず、問題を拡大させたとの批判を受けることがある。カシュミーリー・パンディト問題は時々ヒンディー語映画の主題になるが、そこにアンチINCのイデオロギーが入りこむことがある。典型例は「The Kashmir Files」(2022年)である。

ソニア・ガーンディー

 2004年の下院総選挙でINCは勝利し、BJPから政権を奪取したが、その功労者はソニア・ガーンディーであった。ソニアは、インディラー・ガーンディー首相の息子ラージーヴの妻に当たる。イタリア出身であるが、インドに帰化し、ヒンディー語もマスターした。INC内部には、イタリア人かつ女性のソニアを党首にすることに対して反感を抱く者もいたが、2004年の勝利によって彼女のリーダーシップに異を唱える者はいなくなった。しかも賢いことに彼女は自ら首相に就任せず、学者肌のマンモーハン・スィンを傀儡の首相に据え、影で実権を握った。首相よりも与党党首の方が権力を持つ時代が2014年まで続いた。ソニアの悲願は、息子のラーフル・ガーンディーを首相にすることだ。だが、ラーフルに母親ほどの政治力は見出せず、彼の迷走によってINCの衰退は加速し、未だに彼の首相就任は遠い夢だ。

ソニア・ガーンディー

 初代首相ジャワーハルラール・ネルーから始まるこの王朝政治を真っ向から批判した映画が、「The Accidental Prime Minister」(2019年)である。題名となっているのはマンモーハン・スィン首相のことだが、彼を批判する内容ではなく、むしろ黒幕となって彼を動かしていたソニア・ガーンディー党首とINC内にはこびる王朝政治を糾弾する作品となっている。この映画でマンモーハン・スィンを演じた男優アヌパム・ケールは熱烈なBJP支持者として知られている。

ボースの死

 非暴力の抵抗運動によって独立を勝ち取ろうとしたマハートマー・ガーンディーに対し、ネータージ・スバーシュ・チャンドラ・ボースは武力による独立達成を志し、日本軍と連携してインパール作戦を決行した。この作戦は失敗し、日本の敗戦に伴って、ボースは日本の領土からの脱出を試みたが、1945年8月18日に台湾にて飛行機事故に遭い、死亡したとされている。だが、その死には疑問が多く、ボースはその後も生きていたと信じる人もいる。

 ボースの死はINCにとって非常にセンシティブな問題である。なぜなら、もしボースが生きていたならば、独立インドの首相にはボースが選ばれていたかもしれないからだ。ボースの人気は圧倒的で、初代首相ジャワーハルラール・ネルーは、ボースの帰還を何よりも恐れていた。もしボースが生き残っていたとしても、その後、彼の生存が公表されなかったのは、ネルーを初めとしたINCの幹部が必死に彼の帰還を止めていた可能性がある。

 ボースの伝記映画には「Netaji Subhas Chandra Bose: The Forgotten Hero」(2005年)があるが、これはどちらかと言えば彼の生前の活躍を追った作品である。それに対し、ボースの死の謎に迫ったベンガル語映画「Gumnaami」(2019年)は、INC批判が色濃く感じられる内容となっている。