Amu

4.0
Amu
「Amu」

 今日はPVRアヌパム4で、2005年1月7日公開の新作ヒングリッシュ映画「Amu」を鑑賞した。「Amu」はPVRアヌパム4で1日1回だけ限定公開されている特殊な映画だ。監督はソーナーリー・ボース。彼女は1965年カルカッタ(現コルカタ)出身、ムンバイーで育ち、デリー大学の名門ミランダハウス・カレッジで歴史学学士を取得後、ニューヨークのコロンビア大学で政治学修士を取得した。その一方で、学生時代一貫して演劇と政治活動に取り組み、ロサンゼルスの映画学校を卒業後、監督、脚本、製作を自ら行って作ったのがこの「Amu」であった。映画館は満席状態で、チケットが手に入ったのは奇跡に近かった。ちょうど僕がチケットを買っているときに、隣で1枚チケットをキャンセルしているおばさんがいたので、それを譲ってもらえたのだった。なぜ無名監督によるこの映画がこれほど注目されているかと言えば、1984年10月の暴動をテーマにしているからだ。

 1984年10月、インディラー・ガーンディー首相(当時)がスィク教徒のボディーガードに暗殺されるという大事件が起きた。一国の首相が暗殺されたのだから大事件に違いないのだが、この暗殺はインド全土に暴動を引き起こし、さらに深刻な大事件を引き起こしてしまった。インディラー・ガーンディー首相がスィク教徒に暗殺されたことを知ったヒンドゥー教徒は暴徒と化し、手当たり次第にスィク教徒を殺害し始めたのである。特に印パ分離独立後に多くのスィク教徒が流入した首都デリーでは多くのスィク教徒が殺害された。その数は5千人とも1万人とも言われている。スィク教徒はターバンを巻き、長い髭をたくわえているため、一目でそれと分かってしまう。助かるためにはターバンを取り、髪や髭を切らなければならなかった。だが、人前でターバンを脱ぐこと、髪や髭を切ることはスィク教の戒律に反していた。現在インドにはターバンを巻いたスィク教徒と、ターバンを巻かないスィク教徒の2種類が見受けられるが、後者の多くは、このときに自らの命を救うためにターバンを取った人々である。だが、この映画が最も問題にしているのは、1984年の暴動自体ではなく、暴動があったことが若い世代に隠されていることである。

 キャストは、コーンコナー・セーンシャルマー、アンクル・カンナー(新人)、ヤシュパール・シャルマー、ブリンダー・カラト(新人)、チャイティー・ゴーシュなど。コーンコナー・セーンシャルマーは有名な女優・監督アパルナー・セーンの娘で、ヒングリッシュ映画最高傑作と言っても過言ではない「Mr. and Mrs. Iyer」(2002年)に出演していた女優である。言語は基本的に英語だが、ヒンディー語、ベンガリー語、パンジャービー語が入り乱れる。ベンガリー語とパンジャービー語のセリフには英語字幕が付く。

 米国在住のインド人、カジュー(コーンコナー・セーンシャルマー)は、従姉妹トゥキー(チャイティー・ゴーシュ)の家族を訪ねてデリーに来ていた。カジューはインド生まれだった。だが、カジューの両親は伝染病で死去しており、カヤー(ブリンダー・カラト)が養女として育てていた。カジューは自分が生まれた村を訪れるが、いまいち思い出せなかった。

 カジューはトゥキーの友人カビール(アンクル・カンナー)と出会う。カジューはカビールと共に、大学のそばのダーバー(安食堂)の店主ゴービンド(ヤシュパール・シャルマー)の家を訪ねる。ゴービンドはスラムに住んでいたが、彼の家族はカジューを温かく迎える。だが、カジューはスラムの風景に不思議な感覚を覚える。「この風景・・・見たことがある!」ゴービンドらの話により、このスラム一帯は1984年の暴動のときに焼き払われたことを知る。

 カジューの後を追ってカヤーもデリーにやって来た。カジューは自分の出身地や両親のことを尋ねるが、カヤーははっきりとした言葉を返さなかった。カジューは祖父の部屋から自分が養女となったときに作成された書類を見つけ、カビールと共に自分の本当の親と生い立ちを捜し求め始める。遂に二人は、カジューの父親と思われる人物を見つける。その男の名はキシャン・クマール。その辺りでは有名なゴロツキで、オートリクシャーの運転手をしていた。

 カジューはキシャン・クマールに自分が娘であると打ち明けようと一人彼のもとへ行くが、カヤーはそれを引き止める。そしてカヤーはカジューの本当の親のことについて打ち明ける。

 カジューはスィク教徒の家に生まれた。父、母、兄がおり、名前はアムリト、ニックネームはアムーだった。1984年の暴動のときに父親は暴徒に殺され、兄は焼け死んでしまった。母親はその場にいた警察や政治家たちに助けを求めたが無視された。行き場のない彼らを救ってくれたのはグルドワーラー(スィク教寺院)だった。グルドワーラーで救援活動を行っていたカヤーは、アムーと出会い、仲良くなる。だが、やがてアムーの母親はアムーをカヤーに託して自殺してしまう。カヤーはアムーを引き取り、母親の遺言に従って、アムーに悲劇を思い出させないよう気を遣って育てて来たのだった。

 「Mr. and Mrs. Iyer」に次ぐほどの傑作。どちらかというとドキュメンタリー映画に近いタッチであり、「Mr. and Mrs. Iyer」ほど登場人物の感情の機微を巧妙に描写していたわけではないが、映画が持つメッセージ性はより強烈であった。確かにこの映画が主張するように、1984年の暴動はインドではあまり大っぴらに語られていない。言わばタブーとなっている。1947年の印パ分離独立時の大惨事や1999年のカールギル紛争は繰り返し映画化されるにも関わらず、である。映画館にはなぜか映画のプロデューサーも来ており、映画上映後、簡単に挨拶していた。プロデューサーの話によると、「Amu」はベルリン国際映画祭に出品されるそうだ。

 だが、最もこの映画が雄弁に物を語っていたのは、検閲により音声がカットされた部分である。カットされたセリフは、同映画のウェブサイトによると、「Minister hee to the. Unhee ke shaye pe sab hua(大臣がやったんだ。大臣の指図で行われたんだ)」「Saare shamil the… police, afsar, sarkar, neta, saare(みんなグルだった・・・警察、官僚、政府、政治家、みんな)」などである。この他にもいくつかのセリフがカットされていた。つまり、1984年の暴動は暴徒によって自然に起こったのではなく、権力者たちの思惑に従って起こったということを伝える、反政府的セリフが全てカットされていた。しかも、若者たちに真実を知ってもらいたいという映画制作者の意図を打ち砕くように、この映画は「A」認証、つまり成人向け映画とされてしまった。政府は映画制作者たちに対し、「なぜ忘れ去られた過去の出来事をわざわざ蒸し返そうとするのだ」と問いかけたというが、上記のセリフが、1992年のバーブリー・マスジド破壊事件や、2002年のグジャラート暴動などにもつながるメッセージを秘めているため、特に神経質になったのだと思われる。だが、検閲され、無声となったセリフが、20年経った今でもタブーをタブーのまま隠し通そうとする政府の体質を皮肉にも余計露にしてしまっていた。

 主演のコーンコナー・セーンシャルマーは、女優にしては肌の色が黒くて、顔も身長も平均的なインド人女性という感じだが、演技力は申し分ない。僕は「Mr. and Mrs. Iyer」の人妻役の方がいい演技をしていたと思うが。ヤシュパール・シャルマーは、「Lagaan」(2001年)などに出演していた男優。この男優はなぜか裏切り者役が多く、こいつが出てくると裏切るんじゃないかと不安になってくる。やはり「Amu」でもその例に漏れず、微妙に裏切り者キャラだった。ゴービンドは叔父さん(スィク教徒)のダーバーで修行をしていたが、1984年の暴動のとき、ゴービンドは暴徒に脅されて、隠れていた叔父さんの居所を教えてしまったのだった。カビール役のアンクル・カンナーは中の下くらいか。外見は細身でジャニーズ系みたいである。コーンコナー・セーンシャルマーとアンクル・カンナーはなぜかヒンディー語が下手だった。

 舞台はデリー。よってデリーの風景がたくさん出てくるが、お世辞にも美しい風景ではない。特にスラムの汚なさは現実そのままである。しかし、逆にそれがこの映画を魅力的にしていた。ここまでデリーの本当の姿を正直に見つめた映画は今までなかった。デリーの住民がどんなところに住んでいるのか、スクリーンを通して観察することができる貴重な映画である。デリー大学のミランダハウス・カレッジも出ていた。

 インド映画はいろいろな理由から馬鹿にされることが多いが、「Amu」はその見解を覆すだけの力がある傑作である。だが、映画の筋を理解するには、1984年に起こった出来事をある程度知っておく必要があるだろう。インドの政治学や社会学に関心がある人には必見の映画と言っていい。