Rubaru Roshni

4.0
Rubaru Roshni
「Rubaru Roshni」

 ヒンディー語映画のスター俳優であるアーミル・カーンは、2012年から14年の間に「Satyamev Jayate」というTV番組のプレゼンターを務め、インド社会の数々の問題を取り上げて、人々の間に意識改革を促した。国内外で大きな反響があったものの、「Satyamev Jayate」自体は2014年の第3期を最後に製作が止まってしまっている。

 2019年1月26日にスター・ネットワークで放送され、その後、HotstarとNetflixで配信もされたドキュメンタリー映画「Rubaru Roshni」は、「Satyamev Jayate」のスタイルを受け継いでる。それもそのはず、監督のスワーティー・チャクラヴァルティー・バトカルは、「Satyamev Jayate」の監督であるサティヤジート・バトカルの妻であり、同番組の共同監督も務めていた人物なのである。「Satyamev Jayate」と同じく、アーミル・カーンがプレゼンターを務めている上に、彼が妻のキラン・ラーオと共にプロデューサーになっている。題名の「Rubaru Roshni」とは、「光に向かって」という意味である。

 「Rubaru Roshni」では3つのエピソードが順に語られる。それらの共通するテーマは「許し」である。

 第1話の「罪人と孤児」では、1984年のインディラー・ガーンディー首相暗殺とその後の反スィク教徒暴動を背景として、両親を殺された人物と、その両親を殺した人物の心の交流が語られる。

 ランジート・スィン・ギル、通称クーキーは、1984年当時、米国留学を志す学生だったが、インディラー・ガーンディー首相の指揮の下にインド陸軍が、スィク教の総本山であるアムリトサルの黄金寺院に立て籠もった分離主義派リーダー、ジャルナイル・スィン・ビンドラーンワーレーを殺害した事件、いわゆるオペレーション・ブルースターを受けて、スィク教の過激派活動に関わるようになった。1984年10月31日にインディラー・ガーンディー首相がスィク教徒の護衛に暗殺されると、その報復として同年11月上旬には反スィク教徒の暴動が発生し、多くのスィク教徒が殺された。

 クーキーは、事件の報告書で、暴動を煽った人物として名前が挙げられていた、国民会議派の政治家ラリト・マーカンの標的に定め、1985年7月31日、彼とその妻を自宅で殺害した。

 ラリト・マーカンの娘アヴァンティカーは、その後、孤児として生きるようになった。ただ、彼女の祖父シャンカル・ダヤール・シャルマーは1992年に大統領に就任しており、アヴァンティカーは一時期、大統領官邸で暮していたこともあるようである。アヴァンティカーは国民会議派の学生組織であるNSUIでリーダーシップを取るなど、自身も政治家の道を歩み始める。

 一方、ラリト・マーカンとその妻を殺したクーキーは、潜伏の後に1986年に米国に逃亡し、翌年には米国当局に逮捕される。その後、14年間、留置所に留め置かれる。米国在住のスィク教徒コミュニティーの支援もあり、彼は釈放されるのだが、クーキーは自ら決意し、インドに戻る。そして2000年にデリーのティハール刑務所に収容される。そして、2003年には無期懲役の判決を言い渡された。

 2004年にクーキーの母親が危篤状態になったことで、彼は一時的に釈放される。このとき、クーキーはアヴァンティカーに会いに行く。アヴァンティカーは決して両親を殺した人物を許していなかった。だが、実際に顔を合わせてみたら、両親の殺人犯は、想像していたような人物ではなかった。とても人を殺すような性格には見えなかったという。しかも、自分が孤児となって苦労したのと同じように、クーキーの家族も苦労しているのが分かった。また、反スィク教暴動に父親が関わったことをアヴァンティカーは知らなかった。アヴァンティカーはクーキーを許すことを決め、政府にも働きかけを行うようになる。こうしてクーキーは2009年に晴れて完全に自由の身となった。

 政治が引き起こした混乱の中で復讐の連鎖が起こり、アヴァンティカーもクーキーも、そして周辺の人々も、苦難の人生を歩むことになったが、実際に顔を合わせて話し合い、お互いの気持ちをぶつけ合い、そして謝罪と赦免のプロセスを経ることで、歴史的な不幸を乗り越えることができた好例であった。

 第2話の「一人の農民と一人の尼」は、第1話よりももっとローカルなエピソードである。ケーララ州出身のシスター、ラーニー・マリアは、マディヤ・プラデーシュ州ウダイナガル周辺の農民たちの支援に献身していた。乾燥した大地に水を引き農業の生産性を上げたり、高利貸しへの借金に苦しむ人々に銀行融資の存在を教えたりした。だが、その活動が地主や高利貸しに目を付けられた。シスターたちが農民たちをヒンドゥー教からキリスト教に改宗させているという噂も広められた。1995年2月25日、ウダイナガル郊外でラーニー・マリアはバスで移動中に、地主や高利貸しから指令を受けた農民サムンドラらによって殺害される。サムンドラらはすぐに逮捕され、終身刑を言い渡される。

 ラーニーの妹セールミーもシスターであり、姉の死以来、キリスト教の教えに従って、サムンドラを許すための心の準備を始める。だが、なかなかサムンドラたちを許す勇気が沸かなかった。それを助けたのが、ヒンドゥー教の僧侶スワーミー・サダーナンドであった。スワーミーは、「息を吸うことも吐くことも、昼も夜も、暑さも寒さも、全てが等しい。喜びも悲しみも等しく、敵と友も等しい」と言って、セールミーとサムンドラの面会を補助する。そして、ヒンドゥー教のラクシャーバンダン祭のときに二人を引き合わせ、兄妹の契りを結ばせる。

 セールミーはサムンドラ釈放のために動き、2006年に彼は自由の身となった。以後、毎年サムンドラはラクシャーバンダン祭の日になるとセールミーを訪ね、兄妹の契りを新たにしている。ラーニーとセールミーの家族も、サムンドラを家族の一員として認めている。

 これも、類い稀な許しの物語だった。自分の姉を殺した人物を義理の兄とする。しかも出身地域も宗教も全く異なる。この種類の許しが存在するならば、世の中の多くの問題が解決するのではないかという希望を抱かせられる。

 だが、第3話はインド人にとって非常に重い課題である。なぜなら取り上げられているのは、2008年11月26日のムンバイー同時多発テロだからである。語り手となっているのは、米国人女性キアである。題名は「テロと一人の母親」。

 キアの一家は、シンクロニシティーというヨーガ団体の一員で、2008年11月26日に、彼女の夫、アランとナオミはヨーガのキャンプに参加するためにムンバイーのオーベローイ・トライデントに宿泊していた。そのとき、テロリストの攻撃を受け、二人とも殺されてしまう。

 しばらくは何も手に付かない状態が続いたが、事件から2年後の2010年、インドを訪れることを決意し、事件のあった11月26日にオーベローイ・トライデントで開催された平和の祭典に参加する。そこで、許すということを公言する。ムンバイー同時多発テロに関わった10人のテロリストの内、1人以外は殺されていた。また、生け捕りにされたアジマル・カサーブにしても、釈放は困難であった。キアの許しは、テロの実行犯や首謀者への直接的な許しではなく、自分の中に残る負の感情からの解放であった。

 キアは、毎年11月26日になるとムンバイーを訪れるが、それだけでなく、現地で貧困層の子供たちに教育を提供するボランティアや、平和を訴える活動に従事している。

 インドは常にテロの脅威にさらされた国であり、特にモーディー政権になって以降、テロに対して強硬に反撃する姿勢を貫いている。1980年代や1990年代に起きた不幸な事件について、今、許そうとすることはまだ容易かもしれない。だが、今正にインドが直面している問題について、インド社会の中に寛容と許容を広げることは難しいといわざるを得ない。この許しは非常に重い。それでも、とても考えさせられる内容のドキュメンタリー映画であった。