
「Tikli and Laxmi Bomb」は、2017年9月10日にカルカッタ国際カルト映画祭でプレミア上映され、2018年7月31日からNetflixで配信開始された作品である。ムンバイーの売春婦たちが、男性たちの支配するシステムに対して小さな反乱を起こす物語だ。
監督は新人のアーディティヤ・クリパラーニー。脚本や音楽もクリパラーニー監督自身が担当している。
キャストは、ヴィバーワリー・デーシュパーンデー、チトラーンガダー・サタルーパー、スチトラー・ピッライ、ウペーンドラ・リマエー、マユール・モーレー、サハルシュ・クマール・シュクラー、クリティカー・パーンデー、ディヴィヤー・ウンニ、ラーキー・マンシャー、ミア・マエルツァー、バーゲーシュリー・ジョーシーラーオ、マナスィー・バワールカルなどである。
ムンバイーのSVロードを縄張りにする売春婦たちを束ねる、この道20年、40歳のベテラン売春婦ラクシュミー・マルワンカル(ヴィバーワリー・デーシュパーンデー)は、彼女たちからみかじめ料を得ているポン引きのマートレー(ウペーンドラ・リマエー)から、新人として22歳のバングラデシュ人売春婦プトゥル(チトラーンガダー・サタルーパー)を預かる。プトゥルはラクシュミーの家に居候することになる。
プトゥルの性格は寡黙で内向的なラクシュミーと正反対で、世間のあらゆる常識に歯向かう気概を持っていた。プトゥルは、マートレーや警察にみかじめ料を払いながらも彼らの暴力に抑圧されている売春婦たちの現状に疑問を抱き、ラクシュミーに自分たちのシステムを作り上げることを提案する。当初はプトゥルに「世の中は男性によって支配されている」と世の条理を諭していたラクシュミーであったが、結局現在の仕組みでは自分たちがいつまでも搾取され続け不安定なままだと気付き、プトゥルの反乱を支持するようになる。プトゥルはすぐに売春婦仲間たちから一目置かれるようになり、「ティクリー」というニックネームを得た。
売春婦たちの中では、年長のマンダー(スチトラー・ピッライ)と彼女のシンパがラクシュミーやティクリーの仲間に加わらなかったが、ツァムチョー(クリティカー・パーンデー)、シャランニャー(ディヴィヤー・ウンニ)、ヒーラー・モーティー(ラーキー・マンシャー)、カラー(ミア・マエルツァー)、レーカー(バーゲーシュリー・ジョーシーラーオ)、カイルンニサー(マナスィー・バワールカル)などが賛同した。彼女たちはマートレーや警察へのみかじめ料支払を止め、自分たちで自分たちの身を守り、稼ぎを全て自分のものにするようになる。マートレーはチンピラを送り込んで脅そうとするが、返り討ちに遭っていた。いつしか彼女たちは「ティクリー&ラクシュミー・ボム・ギャング」と呼ばれるようになった。
ギャングが大きくなるにつれてラクシュミーはシステムの中で安全を確保する必要性を感じ、マートレーのボスであるシンデー議員に直接みかじめ料を支払うようになる。しかもマートレーの2倍の金額を支払った。シンデー議員の庇護下に置かれたラクシュミーやティクリーは、マンダーのグループも引き入れ、さらに強大化する。彼女たちはとうとうマートレーから仕事を奪ってしまった。
ところが、マートレーからみかじめ料を取れなくなったシンデー議員がラクシュミーに対して、その分までみかじめ料を要求してくる。ラクシュミーとティクリーはシンデー議員に交渉に行くが、激昂したティクリーがシンデー議員に刃物を突き付けたため、事態は急変する。ラクシュミーとティクリーは逃げ出すが、仲間たちを次々に殺され、二人も最後には殺されてしまう。
だが、彼女たちが起こした小さな反乱は抑圧された女性たちに新しい波をもたらしていた。
これまでムンバイーの性産業を描いた作品がいくつも作られてきた。「Salaam Bombay!」(1988年/邦題:サラーム・ボンベイ!)、「Chandni Bar」(2001年)、「Chameli」(2004年)、「Rajjo」(2013年)、「Love Sonia」(2018年)、「Gangubai Kathiawadi」(2022年)などである。これらの中には名作の誉れが高い作品もある。ムンバイーの路上で、いわゆる立ちんぼをする女性たちを描いた「Tikli and Laxmi Bomb」は、それらに勝るとも劣らない傑作である。
アーディティヤ・クリパラーニー監督の視点は、決して売春婦たちに同情的ではない。だから、映画に登場する売春婦たちは悲劇的に描かれていない。彼女たちは確かにそれぞれ何らかの悲劇を抱えていると思われるが、弱音を吐くことはほとんどない。むしろ、暴力が支配する夜のムンバイーを稼ぎ場として、抑圧され搾取されながらも何とかしぶとく生き抜こうとする女性たちをなるべく生のまま映し出そうとしている。
物語の中心になるのはチトラーンガダー・サタルーパー演じるプトゥルだ。彼女は途中から「ティクリー」と呼ばれるようになるので、ここでもニックネームの方で彼女を呼びたい。上に挙げた映画の中では、人身売買によって売春宿などに売り払われた不幸な女性たちがよく主人公になるのだが、ティクリーは春をひさぐことに何の引け目も感じていないばかりか、男性たちを手玉に取る方法をよく心得ている。しかも、おかしいことにはおかしいと言える度胸を兼ね備えていた。ティクリーの世話役を任されたボス格のラクシュミーは、男性たちによって作り上げられたシステムの中で慎ましく生きることを学んでいたが、ティクリーはそれに反旗を翻す。自分の身体を使って稼いだ金は自分が得るべきだというのが彼女の考えであり、売春婦からみかじめ料を取っているにもかかわらず彼女たちを守らないばかりか暴力を振るうポン引きや警察は切り捨て、自分たちの独自のシステムを作り上げるべきだと宣言する。
ティクリー役を演じるチトラーンガダーの演技力が圧倒的である。チトラーンガダーがティクリーを演じているのではなく、彼女がティクリーそのもののように見えてくる。確かに生意気で跳ねっ返り娘だが、どこか愛嬌もあって、瞳の奥にある悲しみも時折見せることに成功している。「Tikli and Laxmi Bomb」では、まずティクリーのキャラクターに引き込まれてしまう。ティクリー役を演じたチトラーンガダーの演技に引き付けて止まない力があるからこその吸引効果だ。
もちろん、これまで秩序を守ってきた男性たちがティクリーの反乱を許すはずがない。彼らはあの手この手でラクシュミーとティクリーの妨害をしようとする。彼女たちは何度も命を危険にさらされ、レイプもされた。そして実際、仲間の一人をマートレーに殺された。だが、無法地帯の路上で身体を売る彼女たちには、そんなことでクヨクヨしている余裕などなかった。みかじめ料の支払いを止めたということは、自分たちの身を自分たちで守らなければならないということだった。ティクリーが中心になって対策を練り、自分たちだけの安全保障を作り出していく。思わず応援したくなってしまう。
だが、彼女たちのギャングが大きくなるにつれて、自分たちだけで安全を確保するのは困難になる。沈着冷静かつ深謀遠慮なラクシュミーは、マートレーや警察を飛び越えて、その上でムンバイーのアンダーワールドに睨みを利かせている地元政治家の庇護下に入ることを決める。曰く、「システムを変えるためにはシステムの中に入らなければならない」とのことだった。
果たしてこの決断が正しかったのかどうか。映画は決してジャッジしていない。確かにマートレーの2倍のみかじめ料をシンデー議員に支払ったことで一時的に彼女たちは自由を謳歌できるようになるが、彼も天使や救世主ではなかった。ラクシュミーは結局彼からみかじめ料を追加で求められるようになり、手に負えなくなる。短気なティクリーがシンデー議員に刃物を突き付けたことで束の間の平和は崩れ去り、彼女たちはシンデー議員の手下たちに命を狙われる立場になってしまった。そして、彼女たちは皆殺しにされてしまう。急な勢力拡大が彼女たちの寿命を縮めたといえる。
ただ、彼女たちのこの小さな反乱は無駄ではなかった。SNSなどを通して彼女たちが手にした自由は多くの女性たちの共感を呼んだ。ラクシュミーやティクリーの死後にもムンバイーの路上には次から次へと新たな女性たちが供給されてきており、この状況に変化はなかったが、しかし世代が変わっていた。彼女たちはラクシュミーやティクリーのことを知っており、システムに立ち向かうことを学んで路上に出てきていた。これから大きな変革が起こることを予期して映画は終わる。
映画の中で印象的に使われていた曲が「Mumbadevi De Mujhko」だ。ラクシュミーが何度か口ずさむ場面があるし、伴奏が入って男声で歌われる場面もある。「ムンバー女神(Mumbadevi)」とは、「ムンバイー」という地名の由来になった女神である。ムンバー女神寺院はムンバイー南部のブーレーシュワル地区にあり、信仰を集めている。歌詞の冒頭は「ムンバー女神、私を許しておくれ、あなたに恐ろしい罰を与えてしまった」という内容である。劇中ではムンバイーは「女性」として扱われており、しかも抑圧された全ての女性たちの象徴と見なされている。映画全体の主題がこの一曲に込められていた。
インド映画テレビ学校(FTII)卒のクリパラーニー監督は当然のことながら映画好きのようで、「Tikli and Laxmi Bomb」の中にもいくつかのヒンディー語映画へのオマージュが捧げられていた。中でも「Rang De Basanti」(2006年)への言及が重要である。「Rang De Basanti」では、汚職にまみれた政治を打倒するために武力革命を起こした若者たちが描かれたが、彼らは結局治安部隊に殺されてしまう。ティクリーは反乱を始めたときにその行動を「Rang De Basanti」になぞらえていたが、それを聞いたラクシュミーは「映画の結末を知っているのか」と聞く。「Tikli and Laxmi Bomb」でも反乱の結末は死であった。だが、それは無意味な死ではなかった。「Rang De Basanti」での若者たちの死も無意味だとは評価されていなかった。「Tikli and Laxmi Bomb」は、「Rang De Basanti」の精神を受け継いだ映画だといえる。
「Tikli and Laxmi Bomb」は、圧倒的な才能のデビュー監督と、圧倒的な才能のほぼ無名女優が出会い、そのケミストリーによって作り上げられた奇跡の作品だ。ムンバイーの性産業を題材にした名作は数あれど、無法地帯となる夜のムンバイーでもがきながらも生き抜こうとする売春婦たちの姿をこれほど生々しく描いた作品は今までなかったのではないかと思われるほどである。あまり話題になっていないのが不思議なくらいの名作だ。
