Liar’s Dice

3.0
Liar's Dice
「Liar’s Dice」

 なら国際映画祭2014で日本未公開のインド映画が2本公開されると聞き、奈良に来ている。どちらも全くノーマークだった映画で、メインストリーム映画ではないため、これを逃したら観る機会はないかもしれないと思い、奈良の観光がてら、映画祭を楽しむつもりである。

 まず観たのは「Liar’s Dice」というヒンディー語映画だ。「嘘つきのサイコロ」とでも訳そうか。そういう名前のゲーム(日本では「ブラフ」と呼ばれているようだ)があり、おそらくそこから題名が取られている。劇中でもサイコロ賭博が登場する。だが、そのルールはブラフとは異なる。よって、直訳して「嘘つきのサイコロ」とした方がいいだろう。監督はギートゥー・モーハンダース。主にマラヤーラム語映画界で活躍していた女優で、本作は監督第2作。彼女にとってヒンディー語映画の監督は初となる。主演はなんとナワーズッディーン・スィッディーキー。言わずと知れた、現在最も勢いのある演技派男優だ。共演するのはギーターンジャリ・ターパーで、他に子役としてマーンニャー・グプターが出演している。ギーターンジャリと、撮影監督のラージーヴ・ラヴィ(ギートゥー監督の夫)は国家映画賞を受賞している。ラージーヴは「Dev. D」(2009年)や「Gangs of Wasseypur」(2012年)の撮影監督で、アヌラーグ・カシヤプ監督の関係者だ。言語は主にヒンディー語ではあるが、ヒマーチャル・プラデーシュ州東部キンナウル地方が舞台となっており、当地の言語であるキンナウリー語も出て来る。この言語はチベット・ビルマ系であり、ヒンディー語とは全く系統を異としている。

 2013年のムンバイー映画祭でプレミア上映が行われており、サンダンス国際映画祭などでも上映されている。インドではまだ一般公開されていない。現時点では2014年11月公開予定となっている。

 キンナウル地方チトクル村に住むカムラー(ギーターンジャリ・ターパー)は、出稼ぎに出掛けたハールードの帰りを待ち続けていた。夫と連絡が途絶えてから既に5ヶ月が過ぎていた。心配になったカムラーは、娘のマーンニャー(マーンニャー・グプター)を連れて夫を探しに出掛けることを決める。

 カムラーは、まず夫に仕事を斡旋したラーケーシュに会いに行くことにする。ラーケーシュはシムラーに住んでいた。だが、マーンニャーが子ヤギを連れて来てしまったため、バスへの乗車を拒否される。そこでカムラーは、途中で出会った謎の男ナワーズッディーン(ナワーズッディーン・スィッディーキー)に助けを求める。ナワーズッディーンは500ルピーと引き替えに仕事を請け負う。

 カムラーはナワーズッディーンの助けもあって、子ヤギを連れたままバスに乗り込むことに成功し、シムラーに辿り着くが、ラーケーシュには会えなかった。だが、夫がデリーで働いていることを知っていたため、今度はデリーに向かうことにする。ナワーズッディーンはカムラーの腕輪を報酬として取り上げ、一緒にデリーに行く。

 デリーに着いた二人はオールドデリーの安宿に投宿する。やはり子ヤギを連れて泊まるのは渋られたが、余分にお金を払うことで何とか許された。ナワーズッディーンは、カムラーから渡された住所メモを頼りにカムラーの夫を探す。

 ところが成果はなかなか上がらなかった。その内、宿からも追い出されてしまい、子ヤギは宿賃として取り上げられてしまう。とうとう野宿する羽目になったカムラーだったが、ひょんなことから夫が既に死んでいることを知ってしまう。出稼ぎ先の工事現場で死亡したのだが、カムラーのところには何の連絡もなかったのだった。

 舞台はチトクル村からシムラーへ、そしてチャンディーガルを経由して最終的にデリーへと移動する。それに従って、雪深いヒマーラヤ山脈奥地の光景から、人で溢れかえるオールドデリーの光景へと劇的に変化し、インドの発展のギャップが浮き彫りにされる。そして、都市の発展の裏で、無数の無名の労働者たちが命を落としていることが明かされる。都市に乱立する高層マンションやショッピングモールは、カムラーの夫のような貧しい村人たちの安い命と引き替えに建っているのだということが静かに物語られていた。

 同様のテーマの映画としては真っ先に「Peepli Live」(2010年)が挙げられるだろう。主人公ナーターは、最終的には都市部で建設中の高層マンションの労働者となっており、「Liar’s Dice」のエンディングと重なる。だが、「Liar’s Dice」では、労働者の妻の視点でこの問題が語られていたのが新しかった。出稼ぎに出た夫の帰りを待ちわびる妻たちは、きっとカムラーのような不安を抱えて生活しているのだろう。5ヶ月間も連絡がないと、無事なのか、現地で女を作っていないか、不安になるのは当然だ。そしていざ夫の身に何かあった場合、遺族に対しては何の補償もない。夫の死すら知らされておらず、斡旋業者は姿をくらまして責任逃れをする。妻の視点だからこそ、このような問題の描写が可能となったと言える。

 一方、ナワーズッディーンのキャラには謎が多かった。銃を持っていたことなどから、軍関係者と予想は付くが、終盤になってようやくインド・チベット国境警備隊の隊員だったことが明かされる。だが、それだけだ。なぜインド・チベット国境警備隊から逃げ出したのか、については語られていない。ただ、彼のバッグには彼の家族と思われる写真が入っており、家族に何らかのことがあったのではないかと推測は可能だ。デリーの後はコルカタやムンバイーに行く用事があると言っていたので、彼ももしかしたら妻子を探すために旅をしていたのかもしれない。

 題名の「Liar’s Dice」は、このナワーズッディーンのことであろう。バスの中や街頭で彼はサイコロを使った賭博を主宰し、荒稼ぎしていた。彼は「種も仕掛けもない」と言う宣伝文句で野次馬たちから掛け金を募っていたが、おそらく何か仕掛けがあるのだろう。だから彼は絶対に負けず、観客から掛け金を奪い続けたのだろう。だから「嘘つきのサイコロ」なのだ。そして、この「嘘つき」には、カムラーの夫の死をカムラーに伝えなかったことも含まれているのだろう。しかしながら、それは悪意のあるものではなく、カムラーに対する思いやりからだと解釈するのが妥当である。

 ナワーズッディーンの気持ちについても、多くは語られないが、映像などからヒントは得られる。まず、確実に彼はカムラーに対して好意を抱いていたと言える。カムラーを度々じっと見つめていること、カムラーの夫ハールードについて何度も質問すること、また所々でカムラーやマーンニャーに対して親切が垣間見えることなどがその根拠だ。彼が、ヘルプのために金を要求したのも、照れ隠しか、あるいは金を介した関係の方がかえってやりやすいと考えたのであろう。

 ナワーズッディーンがカムラーに好意を抱いていると前提して、ハールードの死を知った後の彼の心情は非常に複雑になるだろう。カムラーの夫が死んでいたということは、ナワーズッディーンがカムラーを手に入れるチャンスが生まれたということで、彼にとっては悪くない展開だ。だが、それを悪くない展開だと考えられるほどナワーズッディーンは卑劣でなかったし、カムラーへの愛情も高次の段階に来ていたと言える。また、夫の死をカムラーに伝えることで、この関係が終わってしまうとの怖れもあったことだろう。彼は、なるべく時間を掛けてカムラーに夫の死を悟らせようとしたに違いない。それが全ての関係者にとって一番いい道になり得たのだから。しかし、カムラーは夫の死を知ってしまう。

 ただ、カムラーについても、所持金についてナワーズッディーンに対して嘘を付き続けており、「嘘つき」の範疇から外れる訳ではない。ブラフというゲームは、複数のプレーヤーが嘘を付きつつ勝利を目指すようなルールらしく、その駆け引きを登場人物同士の駆け引きに重ね合わせたのが題名の真意なのかもしれない。

 その後、ナワーズッディーンとカムラーがどうなったのか。ナワーズッディーンについては、工事現場で労働をしているシーンが最後にあり、そのままデリーに留まったことが示唆されている。だが、カムラーは?マーンニャーは?雪深いチトクル村の光景が最後に映し出されたということは、村に帰ったと考えるのが最も可能性が高い。すると、ナワーズッディーンは何のために働いているのか?カムラーのため、という解釈も可能であろう。カムラーは、デリーの工事現場で働く夫を探しに出掛け、その死を知るが、その途中で会った人とまた同様の関係となり、出稼ぎして働く男性を待つ身に戻ったと言う訳である。

 ところで、登場人物の名前が多少気になった。インドでは名前に多くの情報が含まれている。名前を聞いただけで、宗教、カースト、出生地などの大方の予想が付く。カムラーはヒンドゥー教徒であったが、その夫ハールードや、ナワーズッディーンはイスラーム教徒の名前だ。キンナウル地方はヒンドゥー教と仏教が習合しているユニークな地域だが、イスラーム教との習合は聞いたことがない。これらの名前について何か特別に意図したものがあったのだろうか?

 今回、映画祭でこの作品が上映されたことに関して多少の不安も感じた。この映画はインドの貧困と後進性をことさらに強調している面がある。それはまあ十中八九くらいは事実であるし、監督はインド人なので文句の付けようがないのだが、こういう映画が好んで映画祭上映作品に選ばれるというのは、日本人がインドをこのように見たいと願っているということはないだろうか。映画は不幸を楽しむものではない。本質は娯楽である。そしてインド映画はそれを忘れていない。インド映画の強みはここにある。残念ながら「Liar’s Dice」はその種の作品ではなかった。もちろん、この作品自体には罪がないが、この作品をわざわざ選んだことについては、何か漠然とした不安を感じる。ただ、インドの旅の様子が赤裸々に映像化されていたので、その点で異国情緒があり、外国で上映するのに向いていたということもあるかもしれない。

 「Liar’s Dice」は、都市部の発展に寄与する肉体労働者たちとその家族が置かれた悲惨な状況を、女性の視点からロードムービー風に仕上げた作品である。ナワーズッディーン・スィッディーキーが出演しているだけで映画の質は保証されたようなものだが、全体的には救いの見えない暗い映画であり、人を選ぶだろう。