Chitrangada (Bengali)

4.5

 2012年オシアンス・シネファン映画祭のクロージング作品はリトゥパルノ・ゴーシュ監督の「Chitrangada」であった。チケットが手に入ったのでこのベンガリー語映画も鑑賞することが出来た。

 リトゥパルノ・ゴーシュと言えば、インド映画界で最も審美眼に長けた映画監督で、彼の作る映画には繊細な情感と詫び寂びのある美しさに満ちていて独特である。ベンガリー語映画が主なフィールドであるが、「Raincoat」(2004年)はヒンディー語、「The Last Lear」(2007年)は英語の映画だ。他にアイシュワリヤー・ラーイ主演の「Chokhar Bali」(2003年)や、ラーイマー・セーンとリヤー・セーン姉妹が出演する「Naukadubi」(2010年/ヒンディー語版題名:Kashmakash)なども基本的にベンガリー語映画でありながら全国的に有名である。また、リトゥパルノ・ゴーシュは「トランスジェンダー」に分類される人物で、男性と女性の狭間におり、彼の性別を明言することは難しい。生まれたときの性は男性で、現在では女性ような姿をしているが、性転換手術を受けた訳ではなく、中間性であることを楽しんでいるようである。

 「Chitrangada」の題名ともなっているチトラーンガダーとは、「マハーバーラタ」に登場するマニプラ王国の姫である。放浪中のアルジュンと出会い、結婚して、バブルバーハナという息子を生む。ラビンドラナート・タゴールは1892年にこのチトラーンガダー姫を題材に「Chitrangada」と言う戯曲を書いており、リトゥパルノ・ゴーシュ監督のこの映画も、「マハーバーラタ」のチトラーンガダーではなく、タゴールの戯曲を部分的にベースとしている。タゴールのチトラーンガダー姫は、女性として生まれながら、国王から男性として育てられた人物として描かれている。チトラーンガダー姫は勇猛な戦士に育つが、アルジュンに一目惚れし、彼と結婚するために女性への回帰を望む。チトラーンガダーは愛の神カームデーヴの恩恵を受け、美しい女性に変身する。アルジュンは彼女のその美貌を見て恋に落ちる。ところがチトラーンガダーはアルジュンに、あるがままの自分を受け容れてもらいたいという願望を心の奥底で持っていた。そのときマニプラ王国を侵略者が襲う。チトラーンガダー姫は国民を救うために再び戦士の姿となり、侵略者を撃退する。アルジュンは美女としてのチトラーンガダー姫ではなく、戦士としてのチトラーンガダー姫を気に入り、彼女と結婚する。

 タゴールのこの戯曲からも分かるように、チトラーンガダー姫は性同一性の問題を抱えており、リトゥパルノ・ゴーシュ監督が映画「Chitrangada」でテーマとしたのも性同一性である。監督自身が男性と女性の狭間にいるため、彼自身の性の葛藤をそのまま映画化した作品とも言える。しかも主演はリトゥパルノ・ゴーシュ自身である。

監督:リトゥパルノ・ゴーシュ
制作:シュリーカント・モホター、マヘーンドラ・ソーニー
音楽:デーボジョーティ・ミシュラー
出演:アンジャン・ダット、ディーパーンカル・デー、ジーシュー・セーングプター、アナスヤー・マジュムダール、ラーイマー・セーン、リトゥパルノ・ゴーシュ
備考:スィーリー・フォート・オーディトリアム1で鑑賞。オシアンス映画祭。

 コルカタに住む舞踊家ルドラ・チャタルジー(リトゥパルノ・ゴーシュ)は、生物学的には男性として生まれたものの、ジェンダー的には幼い頃から女性であり、恋愛対象も男性であった。ルドラはタゴールの戯曲「Chitrangada」の公演のために準備をしていた。

 演劇にはパーカッショニストが必要だった。「Chitrangada」で主演のカストゥーリー(ラーイマー・セーン)は友人のパルトー(ジーシュー・セーングプター)を紹介する。ところがパルトーは酷いヘロイン中毒者で、まともに練習もしなかった。ルドラはパルトーを追い出すが、その晩パルトーはルドラの家を訪ねて来る。実はパルトーにも同性愛の趣味があった。パルトーはルドラを誘惑し、二人は恋人同士となる。

 瞬く間にルドラはパルトーにのめり込み、将来を考え始める。パルトーが子供好きであることを知ったルドラは、パルトーと結婚し、養子をもらうことを計画する。しかしインドの法律では同性のカップルは養子をもらえない。そこでルドラは性転換手術を受けることを決断する。パルトーは当初から性転換に反対であったし、両親もなかなか息子のその決断を受け容れられなかった。だが、ルドラはドクター・ショームの監督の下、半年に及ぶ手術を受け始める。

 まずルドラは乳房移植の手術を受ける。だが、この頃からルドラは睡眠薬に頼るようになり、コンサルタントのシュボ(アンジャン・ダット)に不安を打ち明けるようになる。パルトーも、乳房の付いたルドラの身体を受け容れず、彼の元を去って行ってしまう。さらにパルトーは、しばらく後に、カストゥーリーを妊娠させてしまったことを明かし、そして子供を産んで育てるために金を無心に来る。ルドラはパルトーに金を渡し、追い出す。

 女性器形成手術の1日前になった。ルドラの不安は極限まで達していた。シュボとの会話の中で、ルドラは性転換の決断を翻す。ドクター・ショームに電話をし、性転換手術の中止と、移植した乳房の除去をお願いする。

 今回の映画祭でベンガリー語映画の世界にかなり衝撃を受けた。何しろインドを代表する世界的な映画監督サティヤジト・ラーイ(サタジット・レイ)を輩出した映画界であり、リトゥパルノ・ゴーシュ監督の映画も何本か観て来ており、今までベンガリー語映画を評価していなかった訳では決してないのだが、最近のベンガリー語映画の動向については全く無知であった。だが、蓋を開けて見れば、「Gandu」(2010年)や「Cosmic Sex」(2012年)など、性描写で全く妥協しない映画が作られており、おそらくこの方向性においては全インド映画で最も先進的な実験が行われている。この「Chitrangada」も、過激な性描写こそなかったものの、ジェンダーという複雑な問題を非常に丁寧に、巧みに、そしてインドの文脈において描いており、素晴らしい映画だった。

 性は生物学的にも心理学的にも、男性・女性と明確に区別できるものではなく、その間にはグラデーションが存在することはよく知られている。インドでもヒジュラーという、表向きは両性具有者、実際は性同一性障害者のコミュニティーがあり、伝統的にトランスジェンダーの人々の受け皿になって来た。だが、英領時代にインド刑法377条によって同性愛は犯罪とされ、それが独立後も維持されて来た。インドにおいて同性愛が合法化されたのは2009年のことであるが、それもデリーのみ有効のデリー高等裁判所による判決であり、まだまだインドはトランスジェンダーに厳しい国となっている。同性愛者やその他の中間性の人々に対する一般人の偏見も根強い。

 「Chitrangada」は、リトゥパルノ・ゴーシュ監督自身の性に対する考え方を映画化した作品だと言える。主人公ルドラの生物学的な性は男性であるが、恋愛や性の対象は男性であり、服装や言動も女性である。だが、彼は性転換をして女性になることまでは望んでいなかった。彼のこの微妙な性の立ち位置が、映画全体を通して説明されたと言っていいだろう。

 だが、映画のより大きなテーマは、性同一性を越えて、自己同一性の問題だと言える。ルドラは、恋人のパルトーと結婚し、養子をもらうために、女性に性転換することを決断する。パルトーは子供好きだったが、パルトーと結婚することで当然のことながら彼は子供を生むことができなかった。養子はひとつの選択肢であったが、インドの法律下では同性のカップルは養子をもらえない。そこでルドラは一大決心をしたのだった。

 しかしながら、ルドラは男性から女性になることに大きな不安を感じ始める。乳房移植をしてからは、その不安はより大きくなった。彼の性は、あくまで生物学的な男性性の上に築かれた心理学的な女性性であり、性転換手術はその土台を崩すものであった。しかも恋人のパルトーは、部分的に性転換したルドラを捨ててしまう。結局ルドラは女性器形成手術をする前に性転換の決断を翻し、乳房を除去して、元の身体に戻ることを決める。乳房の除去が可能だと知ったとき、ルドラは初めて笑顔を見せる。

 何かを得るためには何かを捨てなければならない。だが、自分を捨ててまでそれを得る価値があるのか?我々は常にそれを考えなければならない。ありのままの自分を愛して欲しいという願望は誰にもあるもので、それは化粧や嘘や手術で塗り固められた美や性質では得られないものである。なぜならそのような見せ掛けだけの手段で手に入れた愛は、本当の自分まで届かないものであるからだ。ルドラを通して、自分が自分であり続けることの大切さが主張されていた。

 巧みだったのは、タゴールの戯曲「Chitrangada」とクロスオーバーさせてルドラの心情を映像化していたことである。ルドラの感情が揺れ動く有様を、ルドラ自身が演出した演劇のシーンによって表現する。光と影が織り成す演劇の光景は非常に美しく、映画に幻想的なタッチを加えていた。

 ルドラが妄想の中で会話をするシュボというコンサルタントの存在も面白かった。ルドラはシュボと会話することで、自分の考えを吐露し、整理し、そして最終的な決断まで至る。シュボと会話をしている中で、ルドラの携帯電話には見知らぬ番号から3つのメッセージが届く。それらも妄想の産物であろうが、ひとつひとつがルドラの決断に影響していた。ひとつめは「飲酒運転が禁止ならば、酒場にはなぜ駐車場があるのか?」、ふたつめは「皆天国へ行きたがっているが、死にたがらないのはなぜ?」、みっつめは「建物(building)が、完成した後も建設中(building)と呼ばれるのはなぜ?」。みっつめの問いにシュボは答える。「なぜなら変化は決して終わらないからだ」。この言葉が、ルドラを性転換手術中止へと導く。

 映画監督として名を知られるリトゥパルノ・ゴーシュが俳優としてカメラの前に立つのはこれが初めてではない。「Naukadubi」(2010年)などでも出演している。だが、自身の心理を投影したような映画に自身で主演するのはこれが初めてであろう。男性なのに女性のような装いをしたリトゥパルノ・ゴーシュのことを変人だと考えていたが、彼の性に対する考え方が「Chitrangada」を通してよく分かった。やはり性というのは一筋縄ではいかない問題で、この映画は男性と女性の中間に位置する映画監督がその問題に自ら取り組んだ野心作だと評価できる。リトゥパルノ・ゴーシュの演技も他のプロの俳優に比べて全く遜色ないものであった。

 ラーイマー・セーンはヒンディー語とベンガリー語の映画によく出演しており、全国的に名の知られた女優だ。しかし「Chitrangada」の中ではそれほど目立った役ではなかった。より重要だったのは、パルトーを演じたジーシュー・セーングプター、シュボを演じたアンジャン・ダット、ルドラの父親を演じたディーパーンカル・デーなどである。ジーシュー・セーングプターはベンガリー語映画界の人気スターであり、リトゥパルノ・ゴーシュ監督の過去の作品にも出演している。アンジャン・ダットは本業は歌手で、俳優としてもいくつかの有名な作品に出演している。

 「Chitrangada」は、リトゥパルノ・ゴーシュが監督・主演しているばかりか、彼の独白的な作品となっており、性同一性の問題、さらには広く自己同一性の問題にまで踏み込む傑作である。男性と女性の間にある複雑な中間性の実態をよく映像化している。タゴールの戯曲「Chitrangada」とクロスオーバーしたストーリー・演出も見事。リトゥパルノ・ゴーシュ監督の最高傑作と言ってもいいだろう。