Shanghai

2.5
Shanghai
「Shanghai」

 現在ヒンディー語映画界においてアヌラーグ・カシヤプ監督に並んで果敢に実験的かつ先進的な映画を作り続けているのがディバーカル・バナルジー監督だ。「Khosla Ka Ghosla!」(2006年)、「Oye Lucky! Lucky Oye!」(2008年)とユニークなヒット作を飛ばし、2010年には突然、野心的な問題作「Love Sex aur Dhokha」を送り出して世間をアッと驚かせた。これまで彼は低予算型の非スター型映画を作って来たが、これらの作品の成功により、ようやくまとまった予算とスターキャストが揃った映画の制作・監督を許されるようになった。それが本日(2012年6月8日)公開の「Shanghai」である。典型的なスター俳優ではないものの、名前だけで十分客を呼べるだけの知名度を持ったイムラーン・ハーシュミーを主演に据え、お気に入りのアバイ・デーオール、フランス系インド人女優カルキ・ケクランなども起用した、今までのディバーカル映画の中ではもっとも豪華なキャスティングの作品となっている。

 映画の題名を聞いて真っ先に思い浮かべるのが中国の上海であろう。もちろんこの題名は同都市から付けられている。しかしながら、「Shanghai」は上海が舞台の映画ではないし、劇中で上海が重要なキーワードとなっている訳でもない。むしろ、インドの架空の小都市バーラトナガルを舞台にした映画であり、インドの土の臭いに満ちた映画だ。この映画のキーワードは「発展」。上海はその「発展」のメタファーとして使われている。政治家が有権者に対して「あなたたちの町を上海のようにする」と言って発展を約束する場面を想像してもらえれば理解は易しいだろうが、面白いことに劇中にそのような場面はない。

 また、あまり表立って宣伝されていないが、「Shanghai」はギリシア人作家ヴァシリス・ヴァシリコスの小説「Z」を原作としている。1963年の王制下に起きた自由主義者グレゴリス・ランブラキス暗殺事件を描いた作品で、1969年にはコスタ・ガブラス監督によって映画化もされている。

 劇中の挿入歌「Bharat Mata Ki Jai(インド女神万歳)」の歌詞が、愛国心を毀損する内容であり不適切であるとして物言いも入ったが、公開直前に裁判所から「表現の自由」のお墨付きも出て、どうにかスケジュール通り公開に漕ぎ着けた。今年の期待作の一本である。

監督:ディバーカル・バナルジー
制作:ディバーカル・バナルジー、アジャイ・ビジュリー、サンジーヴ・K・ビジュリー、プリヤー・シュリーダラン
原作:ヴァシリス・ヴァシリコス「Z」(1966年)
音楽:ヴィシャール・シェーカル
歌詞:ディバーカル・バナルジー、アンヴィター・ダット、クマール、ニーレーシュ・ミシュラー、ヴィシャール・ダードラーニー
衣装:マノーシー・ナート、ルーシー・シャルマー
出演:イムラーン・ハーシュミー、アバイ・デーオール、プロセーンジト・チャタルジー、カルキ・ケクラン、スプリヤー・パータク・カプール、ティロッタマー・ショーメー、ピトーバーシュ・トリパーティー、ファールーク・シェーク
備考:PVRプリヤーで鑑賞。

 マハーラーシュトラ州では州議会選挙が間近に迫っていた。地方都市バーラトナガルでは経済特区インターナショナルビジネスパーク(IBP)の建設計画が進んでおり、州首相(スプリヤー・パータク・カプール)は選挙前にその計画のゴーサインを中央政府から得ようとしていた。しかし、貧困者を住んでいる土地から追い出して「発展」を追求する政府の手段に反対する活動家ドクター・アハマディー(プロセーンジト・チャタルジー)は、住民を説得しIBP計画を止めるためにバーラトナガルに降り立った。それを出迎えたのが、地元に住む若き女性活動家シャーリニー・ピアソン・サハーイ(カルキ・ケクラン)であった。米国留学時代にシャーリニーはアハマディーから教えを受けており、二人は師弟関係以上の仲にあった。シャーリニーはメイドからアハマディーの命が危ないとの警告を受けており、終始彼の身を案じていた。

 アハマディーは、与党ワーカーたちの妨害に遭いながらもバーラトナガルで住民向けに演説会を行う。ところがそれが終わった直後にアハマディーは暴走するトラックに轢かれて瀕死の重傷を負ってしまう。運転手ジャッグー(アナント・ジョージ)は逮捕される。ちょうどその時、バーラトナガルでビデオ屋を営むジョーギンダル・パルマール(イムラーン・ハーシュミー)は事故の現場に居合わせる。デリーからアハマディーの妻アルナー(ティロッタマー・ショーメー)が飛んで来て、事故の調査を訴える。州首相は子飼いの高級官僚TAクリシュナン(アバイ・デーオール)を調査委員会の委員長に任命する。

 州首相の筆頭書記官カウル(ファールーク・シェーク)はクリシュナンに、適当に調査をして報告書をまとめるように言う。酔っ払った運転手による事故だとされており、警察の警備に手抜かりがなかったかを調べればいいと言われていたものの、クリシュナンは警察の報告に矛盾を見つけ、事件の真相に徐々に迫って行く。一方、シャーリニーも独自に、アハマディーの事故は事故ではないと証明しようと動き出す。事故の前にアハマディーの死を予告したメイドが何かを知っているはずだったが、彼女は何も語ろうとしなかった。そこで次に鍵を握っていたのがジョーギンダルであった。彼は、事故の前後に映したビデオを持っていた。また、与党ワーカーに彼の同僚が惨殺される事件があり、他にも何か証拠を掴んでいそうだった。シャーリニーはジョーギンダルとコンタクトを取る。ジョーギンダルは、事故前後のビデオに映っている複数の人物が与党ワーカーであることを突き止める。また、事故を起こしたトラックの荷台に乗っていた男バッグー(ピトーバーシュ・トリパーティー)の特定にも成功する。シャーリニーとジョーギンダルはクリシュナンのところへ行き、証拠が入ったCDを手渡す。

 翌日、トラック運転手ジャッグーは釈放されるが、同時にジョーギンダルのタレコミによって、アハマディーの事故に与党ワーカーの関与が疑われることが新聞に掲載される。それに憤った与党ワーカーたちはバーラトナガルで暴動を起こし、町には戒厳令が敷かれる。クリシュナンの家やジョーギンダルのオフィスも与党ワーカーたちの襲撃を受ける。シャーリニーとジョーギンダルは一旦バーラトナガルから脱出するが、シャーリニーはメイドから電話を受け、彼女を訪ねるために再びバーラトナガルへ舞い戻る。実はそのメイドの夫こそがジャッグーであった。ジャッグーは大金を積まれてアハマディー暗殺を実行したことを明かす。また、ジョーギンダルは死んだ同僚がハードディスクに何らかのデータを保存していたことを思い出し、オフィスへ駆けつける。オフィスからPCごと持ち出し、シャーリニーと共にクリシュナンを訪ねる。その中には、州首相がアハマディー暗殺を指示する内容のやり取りが記録されていた。

 クリシュナンはその前に州首相と面会しており、犯罪部による再捜査を提案していた。クリシュナンはストックホルムへの赴任や出世も約束されていた。しかしながら州首相の関与が明らかになったため、クリシュナンはカウルと会い、中央政府内務省に報告して州首相を告発することを提案した。カウルも州首相の一味であったが、政治的な判断により、それを渋々受け容れる。

 その後・・・。瀕死の状態にあったアハマディーは病院で息を引き取る。クリシュナンはストックホルム行きを断り、州首相の捜査を強行する。シャーリニーはアハマディー暗殺に関する本を書くが禁書処分となり、その本はインドで出版されなかった。ジョーギンダルはポルノ映画を撮影した容疑で指名手配されるが、既に行方をくらましていた。アルナー・アハマディーは政治家になっており、IBP推進派の一人となっていた。IBP計画は実行に移され、ジャッグーは建設予定地に立つ家々を取り壊すブルドーザーを運転していた。

 原作「Z」は未読なのだが、おそらくもっと大きな背景の中で動く政治劇を描いた小説なのだろう。2時間弱の映画である「Shanghai」の中では、とてもでないが全てを描写し切ることが出来ていなかった。とある大長編の物語の一部を切り取ったような作品で、一本の映画の中で物語が完結していなかった。シャーリニーの父親のこと、シャーリニーとアハマディーの関係、ジョーギンダルがジョードプルからバーラト・ナガルに来るまでの話、アルナー・アハマディーの存在、クリシュナンの家族など、主要登場人物がそれぞれより大きなバックグランドを持っていながら、劇中ではそれらが断片的にしか示唆されない。もちろん、叙事詩的な巨大な世界観を匂わせながら、ミクロなストーリーを描くことが必ずしも映画の質を下げることにつながらない。しかしながら、結局劇中で描かれていたのは、ありきたりな政治の陰謀劇であり、特にそれらの背景に興味を引かれるような魅力を醸し出せていなかった。あらすじは一言でまとめることが可能だ。州政府が主導する開発計画に反対する活動家が事故で瀕死の重傷を負い、最終的に死んでしまうが、それは実は事故ではなく、仲間の活動家たちが主張していたように、州首相を筆頭とする与党政治家による陰謀だった、というものである。それに踏み込むのが、インド人と米国人のハーフ女性、何でも屋のビデオグラファー、そしてインド高級官僚(IAS)のトリオである点が幾分目新しいだけであり、基本的なプロットは陳腐かつ退屈であった。よって、「Shanghai」には個人的に多大な期待を寄せていたのだが、正直言って残念ながら期待外れの出来であった。

 それでも、ディバーカル・バナルジー監督が今回選んだテーマは非常にタイムリーだった。おそらく西ベンガル州スィングルにおけるターター・ナノ工場建設を巡る反対運動が大きなインスピレーション源となっていたと思われる。また、州首相の人物像からは、ウッタル・プラデーシュ州の元州首相マーヤーワティーやタミル・ナードゥ州の現州首相ジャヤラリターなどが思い起こされる。そして与党のスローガン「ジャイ・プラガティ(発展万歳)」からは、「ジャイ・マハーラーシュトラ(マハーラーシュトラ州万歳)」の連想からマハーラーシュトラ州が脳裏に浮かぶ。以上の州においては発展の名の下に様々な開発計画が進められており、周辺住民や立ち退きを求めらた住民たちとの間に大きな摩擦が生じている。具体的には、西ベンガル州はスィングル問題であるが、ウッタル・プラデーシュ州では例えばヤムナー・エクスプレス・ハイウェイ建設計画、タミル・ナードゥ州ではクーダンクラムの原発建設問題、マハーラーシュトラ州ではジャイタープル原発問題などである。ちなみに劇中ではインターナショナル・ビジネス・パーク(IBP)という経済特区建設を巡って、推進派の与党と反対派の活動家たちによる戦いが繰り広げられていた。

 しかし、それらの大規模な建設計画を持ち出さなくても、「Shanghai」が提示した「発展の代償」の問題はもっと身近なものだ。例えばインドでは多くの外国人がゲーテッド・コミュニティーと呼ばれる高級マンションコンプレックスに住んでいる。それらのコンプレックスには異国情緒溢れる名前が付けられ、その敷地内にいれば確かにまるでインドではないかのような快適な生活が約束される。ゲーテッド・コミュニティーの住民は間違いなく富裕層であり、そこに住むために多額の金を支払っている。しかし「発展の代償」は彼らが支払う高額の家賃・住宅費のことではない。元々その土地に住んでいた人々の人生、生活、尊厳についてである。彼らは住み慣れた土地を追い出され、収入源だった農地を奪われ、その代わり元々彼らが住んでいた土地にやって来た富裕層の下でガードマンや運転手など、社会的地位の低い仕事をして生計を立てるようになる。今までインドのメインストリーム経済から半ば独立した暮らしをしていた人々は、否応なしにその中に取り込まれ、それと同時に自身が社会の底辺に立っていることを思い知らされる。こういう状況を「発展」と名付けていいのか、ディバーカル・バナルジー監督がこの映画で主張したかったことのひとつであろう。

 しかしながら、バナルジー監督自身が語っているように、「Shanghai」は決してそのような「発展」に真っ向から反対する作品ではない。冒頭において、アハマディーの声を借りて、「発展」に対する疑問を提示してはいるが、ストーリーはすぐにそのメッセージから離れ、単なるスリラーとなる。そして一連の出来事が終わった後には、何事もなかったかのように、IBPは実行に移されるのである。この種の「発展」はもう止められない。良きにしろ、悪きにしろ、「発展」し続けて行くしかない。僕はバナルジー監督が最終的に達した結論はこれだと感じた。その中で一般庶民が何をしていけるのか、それを問う映画だった。

 だが、最後に筆頭書記官カウルがクリシュナンに「波風を立てなければインドは中国になれるのに」みたいな意味の言葉をつぶやいたのも気になった。インドも中国のような著しい発展が出来るのに、という意味である。だが、中国が一党独裁体制と情報統制によって人民を押さえつけて急速に開発を推し進めて来たことは周知の事実である。劇中で与党が採った、反対派を暗殺し、開発計画を推し進める手法は正に中国的な方法論だ。しかも、与党は民主主義の礎である選挙を有利に進めるために、「発展」の名の下に、非民主主義国家である中国の方法を採るのである。選挙をするだけでは民主主義国家としては不十分なのだ。そしてその種の排他的・強圧的な「発展」の先にあるのは中国という独裁国家の姿だ。そう考えると「Shanghai」という題名もかなり生きて来る。しかし、インドにはクリシュナンのような正義感溢れる官僚もおり、州首相の不正や犯罪に対しても声を上げる勇気を持っていた。おかげで「発展」のスピードは遅れるかもしれないが、それは決して否定的なことではない。そこにバナルジー監督がインドに対して抱いている信頼感や誇りも感じた。ただ、最後の最後でシャーリニーの本が発禁処分となったことが簡単に語られており、やはり油断しているとインドでもどんどん表現の自由が削られて行ってしまうという警鐘が鳴らされていたと思う。

 総じて、映画自体はとても退屈な出来であったが、行間からバナルジー監督がこの映画で言わんとしていることを読み取る努力をすると、現代のインドにとって非常に意義のある作品になっていたと思う。惜しむらくは、そのメッセージをうまく娯楽映画のフォーマットに載せて語ることが出来なかったことだ。その点では「3 Idiots」(2009年/邦題:きっと、うまくいく)のラージクマール・ヒラーニー監督などにはまだ今一歩及んでいない。

 主演格三人の演技はどれも素晴らしかった。イムラーン・ハーシュミーは今までのイメージに乗っかりながらも、それを払拭するシリアスな演技を見せていた。彼は常に自然な演技が出来る希有な才能を持った男優である。今までバット・キャンプのB級娯楽映画出演が多かったが、シリアスな役も十二分に演じ切れることが「Shanghai」によって証明されたと言える。イムラーンのキャリアにとって非常に重要なターニングポイントとなるだろう。

 アバイ・デーオールはタミル人高級官僚役。タミル語を特訓し、劇中ではタミル語の台詞もいくつかしゃべっている他、彼のしゃべるヒンディー語はタミル訛りになっている。インド映画において官僚は冷たい存在として描かれることが多いのだが、彼は新しい視点からインド人官僚像を定義し直したと言える。

 カルキ・ケクランもベストの演技を見せていた。間の取り方が非常にうまい。彼女のヒンディー語は時々聴き取りにくいこともあるのだが、それをネックとは感じさせない好演であった。

 他にアハマディーを演じたプロセーンジト・チャタルジーはベンガリー語映画界で活躍する名優であり、ヒンディー語映画に出演するのは珍しい。ほとんど序盤のみの出演であったが、非常に力強い演技で、映画全体を覆う存在感を示していた。カウルを演じたファールーク・シェークも巧みな演技。だが、ピトーバーシュ・トリパーティーを再びスクリーンで見られたことが嬉しい。「Shor in the City」(2011年)で一躍注目を浴びた俳優で、今回もバッグーというおいしい役を演じていた。また、アルナーを演じていたティロッタマー・ショーメーは、「Monsoon Wedding」(2001年)でメイド役を演じていた女性である。出番は少なかったが、非常にシャープな演技をする女優だと感じた。

 音楽はヴィシャール・シェーカル。ダンスシーンはストーリーに巧みに組み込まれており、問題の「Bharat Mata Ki Jai」も前半の盛り上がりにうまく使われていた。アイテムナンバー「Imported Kamariya」ですらもアイテムナンバーであることを感じさせない挿入の仕方であった。この2曲は圧倒的なパワーを持っているが、サントラCDに収録されている他の曲は並以下の出来だ。

 撮影はマハーラーシュトラ州のラートゥールとバーラーマティーで行われたようだ。インド地方都市の典型的な景色がストーリーをさらに深めていた。

 「Shanghai」は、ヒンディー語映画界の牽引役ディバーカル・バナルジー監督の最新作。そのメッセージは「インド」が「バーラト」を無残に呑み込もうとする現状への強い警鐘となっているが、巨大なストーリーの一部を切り取ったような内容であり、プロット自体には特に目新しいところはなく、どちらかというと退屈である。一定の意義は持った映画だが、純粋に娯楽映画として観た場合は弱い。


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