Aarakshan

3.0

 時々、「インドでは憲法上カースト制度は禁止されている」とされることが多いが、それは誤りである。インド憲法第3部(第15-16条)「宗教、人種、カースト、性別、出身地に基づく差別の禁止」においてカースト差別が禁じられているだけだ。インド憲法を精読すると、社会的・経済的な後進階級の地位向上を目的とする場合、カーストを基準とすることが例外として認めてられており、つまりインドにおいてカースト制度は存在し利用され得るものとして扱われている。そして実際にカーストは政治の舞台で積極的に利用されており、カーストはますます顕在化している。

 インド憲法第16条では雇用機会の平等性が謳われているにも関わらず、上記の理由から、インドでは留保制度(英語では「リザベーション」や「クォーター」、ヒンディー語では「アーラクシャン」などと呼ばれる)が施行されており、社会的・経済的な後進階級のために、政府系教育機関への入学や公職への就職に際して特別枠が設けられている。留保制度の運用に当たって出自ごとにいくつかのカテゴリーが設けられており、恩恵を得られる特別枠の割合はそのカテゴリーによって異なる。州によって異なることがあるが、インド全国では一般に、指定カースト(SC)――かつてアチュート(不可触民)と呼ばれ、マハートマー・ガーンディーがハリジャン(神の民)と呼び、現在ではダリト(抑圧された人々)と呼ばれる人々――には15%、指定部族(ST)――僻地で文明から離れて伝統的な暮らしをして来たとされる部族民――には7.5%、そしてその他の後進階級(OBC)――SCやST以外に社会的・経済的に後進とされるコミュニティー――には27%の留保枠が認められており、これらのカースト・コミュニティーに属する人々は、それぞれの枠の中で入学や就職を目指すことが可能となり、それによって地位向上が図られるという理念の下に運用されているのが留保制度である。これらの割合は1931年に行われた国際調査のカースト別人口統計に基づいている。ちなみに、SC、ST、OBC以外のカースト・コミュニティーに属する人々はジェネラル(一般)と呼ばれる。いわゆるバラモン(知識階級)、クシャトリヤ(統治階級)、ヴァイシャ(商人階級)とされるコミュニティーは大体このジェネラルになる。

 留保制度がインドの国政において大きな問題となったのは、OBC留保枠導入が施行がされた1993年以降である。インド憲法施行以来、SCとSTへの留保枠合計22.5%はまだ許容されて来たが、OBC枠27%が加わることで合計約50%が留保枠となってしまい、留保制度の恩恵を受けられないジェネラルに属する人々から強い反対の声が上がった。元々27%のOBC枠は、モーラールジー・デーサーイー率いる人民党(ジャナタ・パーティー)時代の1979年に、その他の後進階級の地位向上を目的として発足したマンダル委員会が1980年に提出した報告書が提案していたものだったが、インディラー・ガーンディーやラージーヴ・ガーンディーなどが首相を務めていた80年代の間ずっと無視され続けて来た。ところが、人民新党(ジャナタ・ダル)のVPスィン首相が、デーヴィー・ラール副首相との内部抗争から世間の目を逸らすために突然マンダル委員会報告書を取り上げ、それが後々のOBC枠導入につながったという経緯がある。OBC枠が導入された1992年は、アヨーディヤーにおいてラーム・ジャナムブーミ・マンディル(ラーム生誕地寺院)建設を目指す人々によってバーブリー・モスクが破壊された事件と時を同じくしており、OBC留保枠とアヨーディヤー問題は合わせて「マンダル・マンディル・マスジド」と呼ばれることがある。マンダルはマンダル委員会から取って留保制度のことを、マンディルはラーム生誕地寺院のことを、マスジドはバーブリー・マスジドのことを指している。

 導入以降度々論争を巻き起こして来たOBC留保枠問題は、2008年、最高裁判所により、IIT(インド工科大学)やAIIMS(インド医科大学)などを含む公立高等教育機関へのOBC留保枠導入が決定されたことで再び大きく燃え上がった。ただでさえインドでは受験戦争が過熱している。そんな中留保枠が導入されると、ジェネラル枠の学生にとって志望校への狭き門はますます狭くなってしまう。さらに、留保制度のせいで、インドを牽引する人材を輩出するはずのトップクラスの教育機関に、ふさわしくない人物が入学してしまう恐れもある。後進階級の地位向上は重要だが、果たして留保枠という制度はインドの国益に適ったものなのか?ここ20年に渡ってインドで議論され続けて来ている問題である。

 このセンシティブな問題を果敢に取り上げたのが、2011年8月12日、ラクシャーバンダン祭とインド独立記念日の週に公開されたプラカーシュ・ジャー監督のヒンディー語映画「Aarakshan」である。ジャー監督はヒンディー語映画界の中でも作家性のある作品を作る社会派映画監督として知られており、昨年は政治ドラマ「Raajneeti」(2010年)をヒットさせた。「Aarakshan」は今年の話題作の一本だが、予想通り全国で物議を醸しており、既にアーンドラ・プラデーシュ州、ウッタル・プラデーシュ州、パンジャーブ州で公開禁止となっている。また、公開された州でも同作品は反不可触民、反留保制度のレッテルを貼られ、抗議を受けているが、ジャー監督はその抗議内容を否定している。デリーの映画館では概ね平和裏に公開がされているようであるが、NCRではそうでもないようだ。ウッタル・プラデーシュ州に入るノイダやガーズィヤーバードなどでは上映禁止であるし、ハリヤーナー州に入るグルガーオンやファリーダーバードでも上映禁止ではないが警察からの指示で上映自粛が続いているとのことである。そのせいかデリーでは「Aarakshan」は予想以上に客入りが良かった。

監督:プラカーシュ・ジャー
制作:プラカーシュ・ジャー、フィーローズ・A・ナーディヤードワーラー
音楽:シャンカル・エヘサーン・ロイ、ウェイン・シャープ(BGM)
歌詞:プラスーン・ジョーシー
振付:ジャエーシュ・プラダーン
衣装:プリヤンカー・ムンダーダー
出演:アミターブ・バッチャン、サイフ・アリー・カーン、ディーピカー・パードゥコーン、マノージ・バージペーイー、プラティーク・バッバル、ターンヴィー・アーズミー、ヘーマー・マーリニー(特別出演)、ヤシュパール・シャルマー、ダルシャン・ジャリーワーラーなど
備考:PVRプリヤーで鑑賞、ほぼ満席。

 2008年、ボーパール。市内随一の私立大学シャクンタラー・タクラール・マハーヴィディヤーラヤ(STM)の学長プラバーカル・アーナンド(アミターブ・バッチャン)は優秀な数学者かつ厳格な教育者であった。プラバーカルの娘プールヴィー(ディーピカー・パードゥコーン)もSTMに通っていた。プラバーカルから寵愛を受けていたのが、ダリト(不可触民)出身ながら努力と勤勉によって優秀な成績を収めて来たディーパク・クマール(サイフ・アリー・カーン)であった。ディーパクは米国に留学して博士号を取得しようとしていたが、留学の実現までにまだ時間が掛かりそうだった。それまでディーパクはSTMに講師として務めることになる。ディーパクとプールヴィーは恋仲で、プールヴィーはディーパクの米国留学が決まったら自分の米国に留学しようと考えていた。また、プールヴィーにはスシャーント・セート(プラティーク・バッバル)というクラスメイトがいた。スシャーントはプールヴィーへの好意を公にしていたが、プールヴィーはディーパク一筋だった。

 STMの副学長に就任したミティレーシュ・スィン(マノージ・バージペーイー)は、STMの方針に逆らって内緒で塾KKコーチング・クラスを経営していた。KKコーチング・クラスは今やボーパールでもっとも合格率の高い塾として知られていた。プラバーカルは、ミティレーシュが授業をせずに塾で教えていることを知り、彼に「理由開示請求」を突き付けた。1週間以内に、停職処分を受けるべきでない理由を示さなければならなかった。

 ところが、州政府教育相などと太いパイプを持っていたミティレーシュは余裕の態度だった。折りしも、公立高等教育機関へのOBC枠導入が決定し、世間では留保制度を巡って議論が過熱していた。STM内でも留保制度の恩恵を享受する後進階級の学生と、留保制度によって不利を被るジェネラルの学生たちの間で亀裂が走っていた。特にSCのディーパクと、ジェネラルのスシャーントは公衆の面前で留保制度を巡って何度も衝突していた。スシャーントは停学処分となり、ディーパクは講師を辞す。ミティレーシュはこの問題を利用することにした。

 ある日プラバーカルの家を1人のジャーナリストが訪れ、留保制度について彼にインタビューをする。プラバーカルは留保制度への賛成は口にしなかったが、留保制度は国の利益となっていると述べる。ところが翌日の新聞に、プラバーカルがSTMに留保枠の導入を決めたと大見出しで記事が出る。これは全てミティレーシュの策略だった。たちまちの内にプラバーカルは論争の渦に巻き込まれる。この論争の渦中に招集された理事会において、プラバーカルは潔く学長を辞任する。

 プラバーカルは学長邸を出て家族と自宅へ向かう。自宅は亡き友人の妻と息子に貸していた。ところが自宅はKKコーチング・クラスになっており、勝手に2年間の契約が結ばれていた。プラバーカルは警察を呼ぶ。幸い、やって来た警官タークル(マノージ・ティワーリー)は彼の教え子だった。ところが彼は息子をKKコーチング・クラスに通わせており、ミティレーシュに対しても頭が上がらない立場だった。タークルは不動産所有権の紛争は民事訴訟となると言って弁護士を紹介する。ところがその弁護士もKKコーチング・クラスに子供を通わせたことがあり、ミティレーシュの仲間だった。プラバーカルはとりあえず家族と共にホテル住まいをすることにする。

 この騒動が起きている頃、ディーパクは米国にいた。ところがプラバーカルがSTMの学長を辞任したことを知り、また電話で話した際のプールヴィーの様子が変であることに気付き、異変を感じてインドに戻って来る。事情を知ったディーパクは、KKコーチング・クラスになってしまったプラバーカルの自宅へ押しかけて暴れるが、ミティレーシュはそれを、プラバーカルが暴漢を送ってよこしたと世間に向けて主張し、ますますプラバーカルの立場を弱くする。また、ディーパクは警察に逮捕されてしまう。

 しかしプラバーカルは挫折しなかった。彼の自宅の前で牛舎を営み、プラバーカルを尊敬していた酪農家シャンブー(ヤシュパール・シャルマー)の家で、貧しい子供を含む全ての子供を対象にした無料の塾を開く。また、逮捕されたディーパクはスシャーントの手助けによって釈放される。スシャーントは、プラバーカルが不可触民だけでなくバラモンの子息も助けたことを知り、彼の平等精神を知って、かつて対立していたディーパクにも救いの手を差し伸べたのだった。ディーパクとスシャーントはプラバーカルが開いた私塾を助けることを申し出るが、プラバーカルはそれを拒絶する。しかし2人は同様にディーパクの自宅で貧しい子供たちに無料で勉強を教え始める。やがてプラバーカルにも2人の塾のことが知れることとなる。プラバーカルは彼らを許し、自分の塾に加わるように誘う。

 次第にプラバーカルの塾は市内で評判となり、学生が集まって来る。高額な授業料を取るKKコーチング・クラスを止めてプラバーカルの無料塾に来る学生も続出した。そしてプラバーカルの塾で学んだ学生たちが共通入試で一様に高得点を叩き出すと、メディアも彼の塾をスーパー・タペーラー(牛舎)と呼んでもてはやす。それに業を煮やしたミティレーシュは、州政府を動かして、州政府からの借用地だった牛舎の土地を強制的に接収しようとする。ところがプラバーカルを慕う人々が集まり、強制接収と建物取り壊しに立ち向かう。ショベルカーの運転手などもミティレーシュではなくプラバーカルの味方をする。ミティレーシュは機動隊を動員して力尽くでプラバーカルの塾を破壊しようとするが、そこへ1台の自動車がやって来る。降り立ったのはSTMの創立者で、現在リシケーシュで隠遁生活を送っていたシャクンタラー・ターイー(ヘーマー・マーリニー)であった。州政府の権力者は皆シャクンタラーの教え子であり、絶大な発言力を持っていた。シャクンタラーの一喝で警察は身動きが取れなくなってしまい、ミティレーシュは発狂してしまう。シャクンタラーはプラバーカルの努力を評価し、貧しい子弟のために無料の大学を開くことを発表する。そしてプラバーカルをその学校の恒久的な学長に指名する。

 確かに留保制度をテーマにした映画ではあったが、留保制度が関係あるのは前半のみで、全体的なテーマはむしろ教育の商業化への反対であった。特に結果重視型の塾産業への痛烈な批判となっていた。留保制度については、賛成・反対双方の意見が劇中で激突させられており、結果的に賛成でも反対でもなく、映画を観ただけではプラカーシュ・ジャー監督自身の見地もよく分からない。よって、留保制度問題の映画化を楽しみに見ると期待外れである。それに加えてストーリーは理想主義的かつ予定調和で現実味に欠けた。悪役のディフォルメ化も極端であるし、水戸黄門的な決着の付け方も杜撰過ぎる。着眼点が面白く、話題性があるが、映画としての完成度はお世辞にも高くないと言わざるを得ない。

 劇中では留保制度に対する賛否双方の意見が戦わせられていた。面白いことにどちらも「平等な競争」を論拠としている。つまりは「平等とは何か」と言う、一見簡単そうで実は非常に難しい問題に基づいた議論が戦わされている。留保制度の被害者、つまりジェネラルの人々の立場から言えば、留保制度を取っ払って、全ての子供が平等な条件の下で受験することが「平等な競争」である。これらの主張はスシャーントやミティレーシュが行っていた。また、留保枠を利用できる人が留保枠を利用せずに留保制度のない私立大学に入ったり職に就いたりすることで、ジェネラルの機会がますます減ってしまうという苦情も出されていたし(ディーパクの講師就任やパンディトの不合格などのシーン)、社会に出てからも、SC/STの後輩が留保制度のおかげでジェネラルの先輩を追い越して出世してしまう不可解さにも簡単に触れられていた(ローンを出した銀行員のシーン)。一方、留保制度の受益者、つまりSC、ST、OBCなどの立場から言えば、歴史的に抑圧されて来ており、現在でも上層階級の子供たちが享受しているような恵まれた教育環境の下に勉強ができない自分たちにとって留保制度は必要不可欠なものである。もし留保制度をなくし、「平等な競争」によって合格者を決定するならば、全ての子供は、一般的な被抑圧層のように、エアコンのない部屋で勉強し、毎日公共水道や井戸まで水を汲みに行き、高額な授業料を取る塾に通ってはならない。自分たちと同じ苦境に全ての子供たちを置いた上で競争が行われて初めて「平等な競争」が可能となるのである。それは現実的ではないので、その代替として留保制度は「生来の権利」と言うことになる。これらの主張はディーパクがしていた。

 また、留保制度が論争の的となったことで、恋仲だったディーパクとプールヴィーは絶交状態となってしまうが、二人の関係はそのまま、留保制度がインドの社会に亀裂を生じさせていることを象徴していた。プールヴィーは留保制度に疑問を感じていたが、その大きな理由は、この制度によって違うコミュニティーに属する人々がお互いを別の存在だと認識し、利害関係が伴うことでやがて敵視し合うようになる恐れがあるからである。また、プラバーカル・アーナンドの妻カヴィターは、一人の母親として、「自分の子供が不便を被るような制度には反対だ」と述べる。アーナンド家はブラーフマン(バラモン)で、当然ジェネラルであり、留保制度の拡大はそのまま彼の一族にとって不利を生むことになる。

 留保制度のせいでプラバーカルとディーパクは反目し、ディーパクとプールヴィーは絶交し、スシャーントは停学となり、挙げ句の果てにプラバーカルは学長を辞職してアーナンド家は路頭に迷うことになる。しかし、このバラバラになった人間関係を修復するのは、意外にも留保制度問題の解決ではない。映画は突然次のテーマに進む。それは教育の商業化である。この件に関してジャー監督の立場は明白である。教育を金儲けの道具とすることに対し強い反対の声を上げている。

 実はインドでは、学校教師が塾講師や家庭教師などのサイドビジネスをして大金を稼ぐことが一般的になってしまっている。当然公立学校の教員はアルバイトは禁止だが、彼らのサイドビジネスは公然の秘密となっている。受験戦争の加熱によって塾産業は組織化され、ますます拡大している。一体インドのこの補助教育産業の市場規模がいくらくらいなのか、正確なデータはないが、500億ルピーとするデータもあれば、工科系の塾に限っても1,000億ルピーは下らないとするデータもある。競争が過熱すればするほど、塾産業はさらに儲かることになる。劇中でも、「教育ほどおいしい商売はない」という台詞があった。教育をビジネスと考える人々にとって、競争をますます過酷なものとする留保制度は悪くない制度なのである。

 この映画の悪役ミティレーシュは、そんな補助教育産業の悪弊を具体化したような人物であった。本業では私立大学の教員だが、裏では従兄弟を名目上の経営者に据えたKKコーチング・クラスという塾チェーンを展開しており、授業そっちのけで塾で教え、大儲けしていた。権力者の子弟もミティレーシュの塾に通っており、ミティレーシュは彼らと太いパイプを持っていた。ミティレーシュは、彼の裏ビジネスを糾弾して大学から追放しようとしたプラバーカルに復讐するためにそのパイプを駆使し、プラバーカルを逆に大学から追い出し、最終的にはSTMの学長にまで上り詰める。決定打となったのは、プラバーカルが留保制度について発言した言葉だった。ミティレーシュの息の掛かったジャーナリストが、プラバーカルの発言を誤引用する形で記事にし、世論をプラバーカルに対する逆風に持って行ったのである。ここまでは留保制度とも関連した流れで、問題なく筋を追うことが出来た。

 ところが、プラバーカルが学長邸を出て自宅に戻る段階から留保制度はほとんど表舞台から消えてしまう。プラバーカルが知人に貸していた自宅は、ミティレーシュの事前の策略によってKKコーチング・クラスになってしまっており、プラバーカルは自分の家を取り戻すために戦うことになる。テナントが借りた家を長期不法占拠して図々しく所有権を主張し出すというのもインドではよくある問題で、それ故にそういう主張をする可能性がない外国人に家を貸すことを好む大家も多い。一度このような問題が起きて訴訟となり、裁判所で争われることになると、判決が出るまで何年も「現状維持」が続くことが多く、結局大家にとっては大損となる。プラバーカルの戦いはまず、自分の家を取り戻すことであった。だが、その点では留保制度も教育も全く関係ない。

 その家をミティレーシュがKKコーチング・クラスにしたことで、何とか「商業化された教育に対するプラバーカルの理念の戦い」という言い訳はできるが、こうなると逆にミティレーシュがあまりに度の過ぎた嫌がらせをプラバーカルにすることに対する非現実性が気になって来る。KKコーチング・クラスに対抗するためにプラバーカルが開いた無料の塾(元々彼は自宅のベランダで貧しい子供たちのために無料の塾を開いていた)も、無料であるからあまり違和感がないものの、塾であることに変わりなく、学校や大学などの本流の教育は全くストーリーから外れてしまう。プラバーカルの努力が実り、彼の塾からトッパー(最高点を収めた受験生)が続出し、そして彼を恒久的な学長とする無料の大学が創立されたことで一応映画はまとめられているが、これは「留保制度の拡大よりも貧しい子供たちの教育を無料化すべし」という監督からのメッセージと受け取っていいのだろうか?その辺りは曖昧だった。

 また、プラバーカルがタペーラー(牛舎)で開いた塾は、成功後に「スーパー・タペーラー」と呼ばれることになるが、これはビハール州パトナーで数学者アーナンド・クマールが開いた工科大学受験生向けの私塾「スーパー30」をモデルとしているのだろう。スーパー30では毎年、優秀だが貧しい子供30人を選び、無料で徹底的に英才教育を施す。スーパー30からは、インドの名門工科大学IITなどに毎年多数の合格者を出しており、全国的に名を轟かせている。「Aarakshan」は、留保制度を題名に関していながら、実際にはこのスーパー30とアーナンド・クマールを映画化した作品だと言える。

 インドでは理系(サイエンス・ストリーム)信仰が強いが、その信仰が全く無批判のままになっていたことに、インドの文系(アート・ストリーム)学生と主に交流している僕には違和感があった。劇中では、理系に進めなかったら人生は終わりだと言うような発言が何度もされていたが、文系を学んでいるインドの学生たちは皆自殺すべきなのか?もしインドの教育の問題点を挙げるならば、この度が過ぎた理系信仰にも切り込んで欲しかった。また、貧しい子供たちに数学を英語で教えている光景にも違和感を感じた。そこまで英語が出来たら最初から苦労していないだろう。高等教育や高級職へのアクセスのために英語が通行手形となっているエリート主義な教育事情も是非ジャー監督に触れて欲しかった問題である。

 ヒンディー語映画界では、「Taare Zameen Par」(2007年)、「3 Idiots」(2009年)と、インドが抱える教育問題をテーマにした映画がコンスタントに続いており、この流れが今後続いて行くとひとつのジャンルとして確立しそうである。そういう意味では一定の重要性を持った映画だ。

 男女間のロマンスや、その他登場人物の心情などが必ずしもうまく描写されていた映画の部類ではないが、父プラバーカルと喧嘩をしてホテルの部屋を飛び出したプールヴィーが帰って来て彼に後ろから抱きつくシーンや、米国から突然帰って来たディーパクを見てプールヴィーが思わず抱きつくシーンなど、なぜかディーピカー・パードゥコーンが抱きつくシーンにジーンと来た。あまりに人と人がバラバラになって行くので、それが少しでも再びつながったことでホッとしてしまったのかもしれない。

 アミターブ・バッチャンは、今まで彼がよく演じて来たタイプの、規律を重視する高潔な人物の役柄であった。彼以外に適役はいなかっただろう。不可触民の優等生ディーパクを、王族の末裔サイフ・アリー・カーンが演じたことに関しては反対の声もあった。「なぜ王族が不可触民役を演じるのか?」という批判である。しかしこれに対しては逆差別と言う真っ当な反論も起こり、すぐにそのような批判は沈静化した。しかし実際に映画を観てみたところ、高貴な雰囲気がどうしても抜けないサイフはなかなか不可触民には見えず、やはりキャスティングに難があったのではと感じた。ディーパクのライバル、スシャーントを演じたプラティーク・バッバルも元々演技力のある俳優であるが、この役にはあまり似合っていないように感じた。それでも両者とも好演していたと言える。ヒロインのディーピカー・パードゥコーンは、中心的な役柄ではなかったものの、とても誠実に演技をしていた。しかし、悪役のミティレーシュ・スィンを演じたマノージ・バージペーイーのねっとりとした演技が全てに勝っていた。

 この映画の大きな欠点のひとつは音楽だ。シャンカル・エヘサーン・ロイの作曲であるが、基本的には重厚な雰囲気の映画であるのに対し、彼らがこの映画のために作った曲はあまりに軽すぎて、雰囲気を損なっていた。前半のいくつかのダンスシーンも無理に挿入されていた。ダンスシーンは全くなくても問題なかっただろう。唯一、「Kaun Si Dor」は名曲であった。

 マディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパールが舞台の映画であったが、実際にボーパールでロケが行われていた。ボーパールは「シティー・オブ・レイク」の別称を持つほど湖が特徴的な街であるが、やはり映画中でも特にロマンスのシーンなどでボーパールが誇る湖が背景に出て来ていた。

 「Aarakshan」は、留保制度をテーマにした映画かと思いきや、意外にも教育の商業化と塾産業の隆盛に対する批判のメッセージがメインの映画で、留保制度に対する答えはあまり見えて来ない。キャストはそれぞれ熱演しているが、映画自体の完成度は高くなく、幼稚なストーリー運びに思えるだろう。ただ、留保制度を巡る賛否両論を確認することはできるし、インドの教育が抱える問題を垣間見ることもある程度可能だ。日本で「インド数学」「インド式教育」などともてはやされた時期があったが、インドの教育の現場で一体どんな問題が起こっているのか、手っ取り早く確認しようと思ったら、一定の参考になる作品ではある。


Aarakshan (2011) Hindi Full Movie - Amitabh Bachchan | Saif Ali Khan | Deepika Padukone