Jodhaa Akbar

4.0
Jodhaa Akbar
「Jodhaa Akbar」

 2008年最初の期待作は何と言っても歴史ロマンス「Jodhaa Akbar」であった。当初は2007年公開予定だったが、度々公開日が延期され、結局ヴァレンタインデー・シーズンの2008年2月15日に全世界一斉公開されることになった。26ヶ国1,500スクリーン一斉公開はインド映画史上最大の規模とのことである。ただし、ラージャスターン州のラージプート団体が映画制作者に対し、「歴史の歪曲がある」と抗議を続けている影響で、ラージャスターン州での公開は見送られた。映画が一般の人々の歴史認識に及ぼす影響は大きいが、映画と歴史を混同する人々が未だに多いのは残念なことである。

監督:アーシュトーシュ・ゴーワーリカル
制作:ロニー・スクリューワーラー、アーシュトーシュ・ゴーワリカル
音楽:ARレヘマーン
作詞:ジャーヴェード・アクタル
振付:チンニー・プラカーシュ、レーカー・プラカーシュ、ラージュー・カーン
衣装:ニーター・ルッラー
出演:リティク・ローシャン、アイシュワリヤー・ラーイ、クルブーシャン・カルバンダー、スハースィニー・ムレー、イーラー・アルン、ソーヌー・スード、ディグヴィジャイ・プローヒト、シャージー・チャウダリー、ニキティン・ディール、プーナム・S・スィナー(特別出演)、アミターブ・バッチャン(ナレーション)
備考:PVRベンガルールで鑑賞。

 ムガル朝第2代皇帝フマーユーンの死後、1556年に即位したジャラールッディーンは13歳だった。将軍バイラム・カーンの庇護の下、ジャラールッディーンは混乱に乗じてデリーとアーグラーを占領したへームーを第2次パーニーパトの戦いで破る。以後、ジャラールッディーンとバイラム・カーンは戦役を重ね、支配領域を拡大して行く。立派な若者に成長したジャラールッディーン(リティク・ローシャン)はムガル朝の事実上の支配者であったバイラム・カーンを追放し、皇帝として自立を始めるが、乳母マーハム・アンガー(イーラー・アルン)やその息子アドハム・カーン(シャージー・チャウダリー)には逆らえず、まだ完全に実権を掌握していなかった。

 ムガル朝の勢力拡大により、ラージプーターナー(≒現ラージャスターン州)のラージプート諸侯の間では危機感が募っていた。アーメール王国のマハーラージャー、バールマル(クルブーシャン・カルバンダー)は、ムガル朝と手を結ぶことを考える。だが、他の諸侯はそれに反対する。バールマルの娘ジョーダー(アイシュワリヤー・ラーイ)の結婚は、アジャブガル王国の王子ラタン・スィンと決まっていたが、ムガル朝との同盟が原因で破談になってしまう。代わりにバールマルはジャラールッディーンに会い、ジョーダーと結婚するように要請する。ジャラールッディーンもそれを承諾する。

 ジャラールッディーンとジョーダーの結婚式が行われた。だが、ジョーダーはこの政略結婚を認めていなかった。ジョーダーはジャラールッディーンに、結婚のために2つの条件を出す。ひとつは、結婚後も改宗を強要されないこと、もうひとつは、宮殿にクリシュナ寺院を作ることであった。ジャラールッディーンは2つの条件を快諾する。だが、それでもジョーダーはジャラールッディーンを受け入れようとせず、二人が一緒に寝ることはなかった。

 ジョーダーはアーグラー城に入城した。早速マーハム・アンガーからのいじめに遭うが、徐々にジャラールッディーンとの信頼関係を築いて行く。マーハム・アンガーの策略によって一度は実家に帰されてしまうが、間違いに気付いたジャラールッディーンは彼女を迎えにアーメールまで訪れる。ジョーダーはすぐには帰ろうとしなかったが、ジャラールッディーンはいずれ帰って来てくれることを確信し、アーグラーへ帰る。また、この頃、宰相アトガー・カーンを暗殺し、ハーレムで狼藉を働いたアドハム・カーンをジャラールッディーンは殺し、実権を完全に掌握する。それだけでなく、身分を隠して市場を散歩し、ヒンドゥーの民がムガルを外来の支配者としか考えていないことに気付く。ジャラールッディーンはヒンドゥー教徒巡礼者に課せられる税を免除し、彼らの心も勝ち取る。すぐにジョーダーもアーグラーに戻って来る。ジャラールッディーンは民から「アクバル」の称号を得る。

 しかし、アクバルは暗殺者によって毒矢を射掛けられ、瀕死の重傷を負う。一命を取り留めたアクバルは、ジョーダーに改めて愛の告白をする。

 暗殺者は、実はアクバルの妹の夫シャリーフッディーン・フサイン(ニキティン・ディール)によって送り込まれた者だった。シャリーフッディーンはインドの支配者になることを望んでおり、アクバルを暗殺しようとしたのだった。シャリーフッディーンは、アーメールの王位を追われたスージャーマル王子と共にアーメールへ進撃する。だが、アクバルも迅速に軍を動かし、シャリーフッディーンと対峙する。スージャーマル王子はシャリーフッディーンがアクバルにまたも刺客を送り込んだばかりか、自分をも暗殺しようとしていることを知り、アクバル側に寝返るが、その際に矢を受け、瀕死の状態となる。スージャーマルはアクバルに刺客のことを伝え、刺客は取り押さえられるが、スージャーマルは絶命してしまう。その場にはジョーダーも駆けつける。ジョーダーとスージャーマルは従兄妹の関係にあり、お互い親しみ合っていた仲であった。

 いよいよ決戦のときが来る。アクバルは内輪もめによる兵力の疲弊を嫌い、講和を呼び掛ける。それに対しシャリーフッディーンは一騎打ちによる決着を申し出る。アクバルとシャリーフッディーンは両軍が見守る中死闘を繰り広げる。最後にアクバルがシャリーフッディーンを圧倒するが、命までは取らず、反乱を起こしたことを許す。

 アーグラーに戻ったアクバルは、ジョーダーがインドの王妃であることを改めて宣言し、ヒンドゥーとムスリムの調和を国家の政策として打ち出す。

 3時間20分の大作。モダンな風貌のリティク・ローシャンがアクバルを演じ切れるかどうか、美貌先行型のアイシュワリヤー・ラーイが勇猛果敢なラージプートの姫に適しているかどうか、どこまで歴史にフィクションを持ち込めるか、音楽がパワー不足なのではないかなど、多くの疑問を持ちながらの鑑賞だったが、全体として十分楽しめる作品に仕上がっていて安心した。前半は退屈なシーンも散見されるのだが、後半の盛り上がりはそれを補って余りある。同じくアクバルを主人公に据えた伝説的傑作「Mughal-e-Azam」(1960年)には到底及ばず、インド映画史の不朽の名作に数えられるまでには至らないだろうが、2008年を代表するヒンディー語映画の一本になることは確実だろう。

 アーシュトーシュ・ゴーワーリカル監督も明言しているが、「Jodhaa Akbar」は歴史を忠実になぞった映画ではない。歴史を題材にした空想のロマンス映画である。まずはこの点を理解しておかなければならない。「Mughal-e-Azam」にもサリーム王子の母親としてジョーダーは出て来るが、ジョーダーは実在の人物ではない。アクバルがアーメール王国の姫と結婚したのは事実だが、彼女の名前がジョーダーだという証拠はなく、むしろ事実誤認だと言える(ちなみにジャハーンギールの妻の名はジョーダーである)。アクバルが結婚したラージプートの姫の名前に関しては諸説あり、それは映画の冒頭にも表示される。どうしてジョーダーという名がアクバルの王妃として通用し始めたのか、それははっきりしない。だが、「Mughal-e-Azam」の影響なのか、民話として遥か昔から語り継がれているのか、だが、既に人々の心の中にジョーダーという存在がアクバルの妻として根付いているのは確かだ。「Jodhaa Akbar」はその国民的な記憶に基づいた映画だと言うことが出来る。

 「Mughal-e-Azam」はアクバルの晩年を描いた作品だが、「Jodhaa Akbar」はアクバルが即位したばかりの青年期を描いた作品である。弱冠13歳で即位したアクバルはまだ実権を掌握しておらず、ムガル朝の創始者バーバルや第2代皇帝フマーユーンの時代から付き従っていた重臣たち――バイラム・カーン、マーハム・アンガー、アドハム・カーン、アトガー・カーンなど――が実質的な支配者であった。だが、1560年から62年にかけて彼らが次々に死亡または失脚したことにより、アクバルは19歳にして帝国の全権掌握を成し遂げる。「Jodhaa Akbar」のストーリーは、このアクバル台頭の時代と重なっている。言わば、ジャラールッディーン(アクバルの本名)からアクバル(「偉大」という意味の称号)へ脱皮する期間の物語である。この辺の歴史をあらかじめ予習しておくと、映画にスッと入って行けるだろう。

 だが、映画が最も丹念に描写していたのは、アクバルの政治家としての側面や歴史上実在の人物としての側面ではなく、一人の女性かつ妻であるジョーダーとの関係によって紡ぎ出される人間としての側面であった。つまりは恋愛である。アクバルとジョーダーが本当に心を通い合わせるまでの過程がじっくりと時間をかけて描写されており、とても好感が持てた。歴史映画は時として、「何年に何が起こった、何年に誰が死んだ」などと言った教科書的映画になってしまうことが多いのだが、そのような説明は序盤のみで、物語が軌道に乗った後は極力史実から離れ、二人の関係をクローズアップしていた。

 また、インド人も大好きな嫁姑ドラマの要素もあり、その点はとても分かりやすい。一応補足しておくと、アクバルの実の母親はハミーダー・バーヌーだが、フマーユーンがペルシアで亡命生活を送っていた期間、アクバルは両親とは離れ離れになり、乳母マーハム・アンガーによって育てられた。そのため、マーハム・アンガーはアクバルに対して実の母親以上の独占欲を持っており、アクバルも乳母には逆らえなかった。ハミーダー・バーヌーが嫁のジョーダーに対して優しく接するのに対し、マーハム・アンガーは姑として厳しく当たる。

 とは言っても、恋愛や嫁いじめのみを追及したただのロマンス映画ではない。ジョーダーとアクバルとの関係は、政治家アクバルに見事に反映されていた。アクバルは、なかなか心を開かないジョーダーに「あなたは勝つことは知っているが治めることは知らない」と言われ、ジョーダーの心を勝ち取るだけでなく、愛情と信頼を注ぐことに腐心する。それだけでなく、それをインドの統治にも当てはめ、彼は人民の本心を理解しようと試みる。その瞬間から、ジャラールッディーンはアクバルへと脱皮したのだった。

 また、イスラーム教徒のアクバルと、ヒンドゥー教徒のジョーダーの結婚は、そのまま宗教調和のメッセージである。ヒンドゥー教イスラーム教の調和だけでなく、インドに生まれた者はインドが侵害されることに無言でいてはならず、インドのために団結して生きなければならないという国家統合のメッセージにもなっていた。

 リティク・ローシャンの演技は最高点を与えられるべきであろう。時代劇は言葉が難しく、モダンな役を演じることの多いリティクに務まるか不安だったが、その不安は見事に吹き飛ばされた。どうもデビュー作「Kaho Na… Pyaar Hai」(2000年)の頃からウルドゥー語の発音を訓練していたようで、「Jodhaa Akbar」でも綺麗で力強い台詞を話していた。得意のダンスを披露することはさすがになかったが(さもなくば日本公開時に「踊るムガル皇帝」と副題を付けられてしまう・・・!)、惜し気もなく肉体美を見せびらかしており、現代のヒンディー語映画界で最も完成した男優であることを無言で主張していた。象との格闘シーンが特に見所である。

 ヒロインのアイシュワリヤー・ラーイは、この映画の最大の懸念だったと言っていい。アイシュワリヤーは作品によってかなり雰囲気が変わるので、今回の彼女がどのように作品に作用するか、見ものであった。だが、勇猛果敢なラージプートの姫の役を気丈に演じ切っていた。リティクと剣を交えるシーンはスリリングだったし、とても美しかった。また、一回実家に戻され、アクバルが謝りに来たときの夜、カーテンの向こうでアクバルの説得を無視して眠った振りをするジョーダーが見せる一瞬の笑み――笑みの寸前の笑みと表現しようか、笑みとも言えない笑みと言おうか――その表現が非常にうまかった。時々アイシュワリヤーの演技力を疑問視する人がいるのだが、あのような微妙な表情を作れるのは演技力がある証拠である。

 ほとんどリティクとアイシュワリヤーの独壇場であったが、脇役陣も重厚な演技をしており、映画を盛り上げていた。「Lagaan」(2001年)にも出演していたクルブーシャン・カルバンダーやスハースィニー・ムレー以外、あまり聞いたことがない俳優が多かったものの、実力派揃いだと感じた。

 ハリウッド映画に比べると戦争シーンの迫力や臨場感は劣る。アーグラー城のセット(実地ロケではない)も安っぽい感じがした。だが、宮殿の内装は豪華絢爛で美しかった。ラージプート諸侯の城は実物が使われていた。リティク、アイシュワリヤーやその他の登場人物が着ていた衣装も節度を守った豪華さで素晴らしかった。数年前に公開されたムガル朝映画「Taj Mahal: An Eternal Love Story」(2005年)の衣装は奇抜すぎて「スターウォーズ」状態になっていたが、「Jodhaa Akbar」の衣装はより現実的だった。デザイナーはニーター・ルッラーである。

 音楽はARレヘマーンだが、「Jodhaa Akbar」の弱点のひとつに音楽が挙げられるだろう。「Azeem-o-Shaan Shahenshah」は行進曲風の勇壮な楽曲で素晴らしいが、それ以外のものは映画の雰囲気にそぐわなかった。敢えて一言言うならば、アジメールのチシュティー廟と関連した曲「Khwaja Mere Khwaja」をもっとカッワーリーっぽくして欲しかった。どうもレヘマーンは歴史映画ではなくロマンス映画というコンセプトで作曲したような感じがする。

 言語は難解である。アクバルをはじめとしたムガルはアラビア語・ペルシア語の語彙を多用しており、ジョーダーをはじめとしたラージプートはサンスクリット語の語彙を多用している。ヒンディー語の学習者はムガルの台詞を理解するのに苦労するはずだし、ウルドゥー語の学習者はラージプートの台詞に頭を悩ますだろう。同様の意味のことが両者の間で全く別の単語で表現されていたりした。ここまではっきりと語彙を分けてしまうことにも疑問を感じるが、ヒンディー語/ウルドゥー語の語彙の広がりを感じるにはいい映画だと思う。

 鳴り物入りで公開された歴史スペクタクル「Jodhaa Akbar」。3時間を越える上映時間、歴史の簡単な予習の必要性、難解な言語など、この映画を完全に楽しむにはいくつかハードルがあるが、もっとも重点が置かれているのは永遠のテーマ「恋愛」であり、万人が楽しめる娯楽大作になっている。特に後半の盛り上がりに期待である。