Chup Chup Ke

2.5
Chup Chup Ke
「Chup Chup Ke」

 本日(2006年6月9日)から、「コメディーの帝王」プリヤダルシャン監督関連の2本のヒンディー語映画が同時公開された。今日は、PVRアヌパム4でその内のひとつ「Chup Chup Ke」を観た。

 「Chup Chup Ke」とは「黙って」「こっそりと」という意味。監督は前述の通りプリヤダルシャン。音楽はヒメーシュ・レーシャミヤー。キャストは、シャーヒド・カプール、カリーナー・カプール、パレーシュ・ラーワル、ラージパール・ヤーダヴ、スニール・シェッティー、ネーハー・ドゥーピヤー、スシュマー・レッディー、オーム・プリー、アヌパム・ケール、マノージ・ジョーシー、シャクティ・カプール、アスラーニーなど。

 ジートゥー(シャーヒド・カプール)は、多額の借金を自身にかけられた保険金で返すために海の飛び込んで自殺してしまう。だが、遺体が発見されなかったことにより、保険金は下りなかった。借金取りたちはジートゥーの父親ジャイヴェード・プラサード(アヌパム・ケール)に借金を返すよう詰め寄る。また、ジートゥーの許婚だったプージャー(スシュマー・レッディー)は、ジートゥーの未亡人として生きることを決める。

 一方、コルカタで漁船のオーナーをしているグンディヤー(パレーシュ・ラーワル)と、雇い人のバンディヤー(ラージパール・ヤーダヴ)は、ある日魚網にかかったジートゥーを発見する。グジャラート人ビジネスマン、プラバート・スィン・チャウハーン(オーム・プリー)に多額の借金をし、お金に困っていたグンディヤーは、ジートゥーを億万長者だと勘違いし、手厚く保護する。ジートゥーは意識を取り戻すが、自分が生きていることがばれると保険金が下りないと考え、聾唖者の振りをする。

 ジートゥーとバンディヤーは、借金のかたとしてプラバートの家に使用人として住み込むことになる。プラバートの家には結婚儀式用の祭壇が置かれていた。これは、プラバートの兄の娘、シュルティー(カリーナー・カプール)の結婚のためのものだった。シュルティーの縁談は一度はまとまったのだが、結婚式当日にそれが破談してしまったという過去があった。それ以来、この祭壇はそのままここに置かれ、シュルティーが結婚しない限り、家の誰も結婚してはならないという掟が作られていた。また、この家を取り仕切っているのは、プラバートではなく、プラバートの兄の息子で、シュルティーの兄、マンガル・スィン・チャウハーン(スニール・シェッティー)であった。シュルティーは、プラバートの娘ミーナークシー(ネーハー・ドゥーピヤー)と大の仲良しであった。

 シュルティーとミーナークシーはある日、酒に酔っ払ったジートゥーが歌を歌い出すのを聞いてしまう。2人はジートゥーの秘密を誰にもばらさないと約束する代わりに、彼を使ってマンガルが勝手に決めたシュルティーの縁談を破談させる。シュルティーはジートゥーに恋するようになり、マンガルも彼女の気持ちに気付き、シュルティーとジートゥーを結婚させることにする。ただし、マンガルはジートゥーに対し、絶対にシュルティーを残してどこにも行かないことを約束させる。許婚のプージャーはもう誰かと結婚してしまったと思い込んでいたジートゥーは、それを承諾する。また、このときジートゥーは、自分が聾唖者でないことをみんなに打ち明ける。最初は怒ったプラバートやマンガルであったが、事情を聞いて彼を許す。

 ところが、ジートゥーは村へ行って借金を返して来たバンディヤーから、プージャーが自分の未亡人として生きていることを知ってしまう。また、ジートゥーの家族も、ジートゥーが生きていることに勘付いてしまう。既にシュルティーとの結婚は決まってしまっていた。板ばさみになったジートゥーであったが、結局家には帰らず、シュルティーと結婚することに決める。だが、結婚式に両親やプージャーが来てしまう。それを見たシュルティーは、ジートゥーをプージャーに譲ろうとするが、プージャーはジートゥーとシュルティーの結婚を認め、場は丸く収まる。

 ヒンディー語映画界には名前で観客を呼び込める監督が何人かいるが、プリヤダルシャン監督もその1人だ。プリヤダルシャンが最も得意とするジャンルはコメディー。彼が作るコメディー映画は、一定の爆笑が保証されていると言っていい。「Chup Chup Ke」も爆笑コメディー映画であった。だが、この映画の特筆すべきなのは、プリヤダルシャン映画にありがちな「筋のない爆笑」ではなく、ちゃんとしたドラマがあったことである。前半は大爆笑だが、後半は「これどうやってまとめるの?」と見ているこちらが不安になるような、かなりシリアスな展開となる。それがうまくまとまっていれば傑作となったわけだが、残念ながらまとめ方は最良ではなかった。

 インド映画にはインド映画の批評方法がある。僕が最も重視しているのは、いかに観客の同情をコントロールできたか、という点である。インド映画は、観客の同情を一点に集め、終盤でその同情を裏切るかと見せかけてやっぱりそちらへ持って行き、誰もが爽快な気分で映画館を出ることができるように心掛けなければならない。観客が一番納得のいく終わり方にしなければならない。言い換えれば勧善懲悪なのかもしれないが、必ずしも悪が打ちのめされ、善が勝つような必要はない。観客の同情をコントロールし、その同情に沿った終わり方ができればそれでいい。

 「Chup Chup Ke」のクライマックスには少なくとも2つの選択肢があった。ひとつはジートゥーがシュルティーと結婚する終わり方、もうひとつはジートゥーがプージャーと結婚する終わり方である。だが、シュルティーにもプージャーにも悪いところはなく、どちらの終わり方で終わっても、観客の心には後味の悪さが残る。いったいどうするのかとハラハラドキドキして見ていたが、結局プージャーが妥協して、ジートゥーとシュルティーの結婚を祝福する、というエンディングであった。この終わり方では、生きているか死んでいるか分からないジートゥーの帰りを一心に待ち続けていたプージャーが不憫すぎる。そもそも問題の発端はジートゥーの借金と優柔不断な性格なのだが、ジートゥー自身はどちらの終わり方でもそれほど痛みはなかった。むしろ、大富豪の娘シュルティーと結婚したことにより、今後の人生の安泰が約束された。何か噛み合わない終わり方であった。よって、ドラマの部分ではこの映画は失敗作であった。

 だが、コメディーの部分は面白すぎる。さすがプリヤダルシャン監督。いや、監督だけの手腕ではあるまい。キャスティングが絶妙であった。パレーシュ・ラーワル、ラージパール・ヤーダヴという当代一流のコメディアン俳優の共演や演技派男優オーム・プリーの堂々たる演技に加え、シャーヒド・カプールも彼らの輪の中に溶け込むことに成功していた。実世界のカップルであるシャーヒド・カプールとカリーナー・カプールの相性もバッチリであった。スニール・シェッティー、ネーハー・ドゥーピヤーなどの助演俳優や、シャクティ・カプール、アスラーニーなどのチョイ役俳優も自分の仕事をキッチリこなしていた。スシュマー・レッディーも悪くはなかったが、肌が荒れていてものすごく老けて見えた。何かあったのだろうか?

 物語の多くは、コルカタに住むグジャラート人実業家の邸宅が舞台になる。よって、映画のセリフの中にはグジャラーティー語が頻出した。観客の中からグジャラーティー語への反応がけっこうあったので、グジャラート人観客がけっこういたかもしれない。

 「Chup Chup Ke」は、プリヤダルシャン映画なだけあって、コメディー部分はとても面白いが、なまじっかドラマを盛り込んでしまっているので、エンディングのまとめ方に対する観客の目は厳しくなる。プリヤダルシャン監督のコメディー映画にありがちな「ハチャメチャな大団円」という訳にはいかない。爆笑は保証するが、終わり方には納得のいかない人が多いだろう。