
2003年5月16日公開の「Armaan(願望)」は、夢と愛と義務の間で板挟みになり苦悩する人間の心情を描き出したドラマ映画である。
監督はハニー・イーラーニー。「Kaho Naa… Pyaar Hai」(2000年)などの脚本家であり、本作は彼女にとって初の監督作にして唯一の監督作になる。イーラーニー監督は著名な脚本家・詩人・作詞家ジャーヴェード・アクタルの元妻であり、また、ファルハーン・アクタルやゾーヤー・アクタルの母親でもある。アクタル・ファミリーのホームプロダクション的な作品で、ジャーヴェードがイーラーニー監督と共同で脚本を書き、歌詞も担当している他、ゾーヤーがキャスティングをしている。さらに、ゾーヤーの親友であるリーマー・カーグティーが助監督を務め、イーラーニー監督の姪にあたるファラー・カーンがコレオグラファーに名を連ねている。音楽監督はシャンカル=エヘサーン=ロイである。
主演級の俳優は4人。アミターブ・バッチャン、アニル・カプール、グレーシー・スィン、そしてプリーティ・ズィンターである。アミターブとアニルは既に確立したスターであったが、ヒロインを務めるグレーシーとプリーティは20世紀末にデビューした若手女優であり、それぞれ「Lagaan」(2001年/邦題:ラガーン クリケット風雲録)や「Dil Se..」(1998年/邦題:ディル・セ 心から)などを当てていて、彼女たちのダブルヒロイン起用は当時としては将来を占う面白いキャスティングであった。どちらがメインヒロイン扱いなのかは意見が分かれそうだが、結果的に主役アーカーシュの心を射止めたのはグレーシー、より演技力を要する役を演じたのはプリーティであった。
また、ランディール・カプール、アーミル・バシールなども出演している。
2003年に筆者はインドに住んでいたが、この映画の公開時には旅行に出掛けており、見逃していた。ただ、サントラCDは買って聴いていたので、挿入歌には親しみがある。2025年7月5日にようやく鑑賞することができた。
スィッダールト・スィナー(アミターブ・バッチャン)は病院を設立し、その運営に人生を捧げてきた。彼は生涯未婚を通していたが、交通事故で家族を失い孤児になったアーカーシュ(アニル・カプール)を養子として育て上げた。アーカーシュはスィッダールトの病院で脳神経外科医として働いていた。アーカーシュは、新しく病院で働き出した麻酔科医ネーハー・マートゥル(プリーティ・ズィンター)と恋に落ち、二人は将来を考え始める。
そんなとき、とあるパーティーでアーカーシュは世界有数の大富豪グルシャン・カプール(ランディール・カプール)の一人娘ソーニヤー・カプール(プリーティ・ズィンター)と出会う。ソーニヤーは足を捻挫したことで病院にしばらく入院することになり、アーカーシュと親密になる。すっかりアーカーシュに惚れてしまったソーニヤーは父親に、アーカーシュと結婚したいと言い出す。娘の願いを何でもかなえてきたグルシャンは、スィッダールトと会い、病院への多額の寄付と引き換えに娘をアーカーシュと結婚させるという取引を提案する。アーカーシュとネーハーの仲を知っていたスィッダールトはその提案を断る。
持病を抱えていたスィッダールトは急死してしまう。病院は借地に建っており、存続のためには多額の資金が必要だった。スィッダールトの後を継いだアーカーシュは、病院の財政難を救い、父親の夢をかなえるために、ソーニヤーと結婚することを決める。それを聞いたネーハーはショックを受けるが、アーカーシュの置かれた状況を理解し、二人の結婚式にも出席して証人にもなる。だが、ソーニヤーはアーカーシュとネーハーの仲について勘付いており、ネーハーを病院から追い出そうとし始める。
ネーハーを巡ってソーニヤーの奇行が目立つようになり、アーカーシュは悩まされることになる。ネーハーの母親が重傷を負って病院に搬送されたとき、ソーニヤーが妨害したことで、ネーハーの母親が死んでしまうという出来事が起こる。これをきっかけにアーカーシュは、ソーニヤーと一緒にいたら医者としての義務が果たせなくなると実感し、彼女との離婚を考え始める。
そのとき、ソーニヤーが交通事故に遭い、頭部に重傷を負う。助かる見込みは少なかったが、アーカーシュとネーハーは共にソーニヤーの手術を行い、見事に成功させる。回復したソーニヤーはアーカーシュに離婚届をわたし、旅に出る。
女性監督の作品らしく、女性登場人物の心情に特にフォーカスを当てたドラマ映画になっていた。まず観客の同情を集めるのはグレーシー・スィン演じるネーハーだ。優秀な麻酔科医であり、脳神経外科医アーカーシュとの息もピッタリで、理想のカップルとして描き出される。誰もが二人の結婚を自然に望む。だが、アーカーシュとネーハーの間に割って入る形になったのが、プリーティ・ズィンター演じるソーニヤーであった。大富豪の一人娘で、わがまま放題に育ったソーニヤーは、金の力でアーカーシュをネーハーから奪い取った挙げ句、異常なまでに嫉妬深い性格をしており、ネーハーを病院や街から追い出そうとまでする。完全に嫌な女である。ネーハーを捨ててソーニヤーと結婚し、妻の言うがままになっているアーカーシュにもあきれてしまう。
これだけだったらお粗末な三角関係ストーリーだったのだが、そこにソーニヤーの不幸な生い立ちを加え、さらに息子としての義務および医師としての義務という別次元の要素を入れたために、厚みのあるストーリーになっていた。
まず、アーカーシュはスィッダールトの実の息子ではなかった点に注目すべきである。スィッダールトは未婚であり、アーカーシュを養子として育てた。アーカーシュはそれだけでもスィッダールトに実の息子以上に多大な恩義を感じていた。さらに、彼はスィッダールトが生涯独身を通した理由も知ってしまう。スィッダールトには意中の女性がいたが、彼女との結婚を考えたとき、彼は既にアーカーシュを育てていた。その女性の父親は、アーカーシュを孤児院に返すことを結婚の条件に出した。スィッダールトは愛よりも父親としての義務を優先し、アーカーシュを選んだ。このエピソードは、スィッダールトに対するアーカーシュの敬愛を倍増させた。
だから、スィッダールトが急死した後、アーカーシュは父親から受け継いだ病院を何としてでも存続させなければならなかった。それこそが父親の恩に報いる唯一の手段だった。題名の「Armaan」とは「願望」という意味だが、それはスィッダールトの夢であり、彼の死後はアーカーシュの夢でもあった。だが、病院は財政難を抱えており、喫緊に政府または企業から資金援助を必要としていた。気前よく手を差し伸べてくれていたのはグルシャンであったが、彼から寄付を得るためには、彼の娘ソーニヤーと結婚しなければならなかった。アーカーシュは、息子としての義務とネーハーへの愛情を天秤に掛け、息子としての義務を優先したのだった。
わがまま放題に育ったソーニヤーとの結婚生活は決して順風満帆ではなかった。ソーニヤーは執拗にアーカーシュの人生からネーハーを排除しようと動き、それがアーカーシュを悩ませた。
だが、ソーニヤーのその異常なまでの独占欲にも理由があることがグルシャンの口から語られる。ソーニヤーが幼い頃に両親が離婚し、彼女はグルシャンと母親の間を行ったり来たりする生活を送っていた。その後、母親が別の男性と再婚したことで、ソーニヤーは母親から見捨てられたと感じていた。その幼少時のトラウマから、彼女はアーカーシュを徹底的に独り占めしようとしていたのである。このようなバックグラウンドストーリーを用意することで、ソーニヤーのキャラクターにも立体感を持たせてあった。
アーカーシュは基本的には寛容な男性であり、ソーニヤーの大方のわかがまと異常行動を許容してきた。だが、彼がソーニヤーとの離婚をとうとう決意したのは、医師としての責任感からだった。ソーニヤーの妨害により、ネーハーの母親が必要な手術を受けられず死んでしまったのである。どんな命でも助けるというスィッダールトの理念を受け継いでいたアーカーシュは、ソーニヤーの行動や態度が許せず、彼女に離婚を突き付ける。
インド映画において離婚はタブーである。特に20世紀のインド映画において離婚が描かれた映画は少なく、しかも離婚が肯定的に描かれた映画は数えるほどしかない。「Armaan」において、離婚という命題が浮かび上がると、いったい離婚が成立するのかどうか、非常に興味が沸いた。
だが、その前にアーカーシュの前に立ちはだかったのが、再び医師としての義務であった。離婚を切り出されたソーニヤーは怒り狂い、銃を持ってアーカーシュまたはネーハーのところへ向かうが、その途中で運転を誤って交通事故に遭う。そして脳に重傷を負う。その手術を行うのは脳神経外科医であるアーカーシュだ。彼の目の前にはいくつかの選択肢があった。ひとつは手術をしないことだった。ソーニヤーの脳の状態は非常に悪く、手術の成功率も5%ほどしかなかった。いかに有能な脳神経外科医であろうと、手術を安請け合いすることはできなかった。しかも、離婚話が進んでいたとはいえ、法律上は彼の妻である。ソーニヤーの父親もアーカーシュが彼女の手術をすることを望んでいなかった。アーカーシュは手術を断ることができた。だが、彼はソーニヤーの手術をすることにする。そうすると、今度は2つの選択肢が浮かび上がる。わざと手術に失敗してソーニヤーが息を引き取ってしまえば、離婚のゴタゴタから解放される。そもそも成功率が低い手術であるため、わざとでなくても失敗する可能性は高かった。だが、事情を知った世間はその失敗を殺人だと見なすかもしれなかった。それは、医師生命の終了を意味した。そうなると、手術を始めた彼は、絶対に失敗できなかった。手術を実行し、絶対に成功する。これが彼の選んだ道だった。ただ、彼を手術に突き動かしたのは、このような損得勘定ではなかった。再び、医師としての義務である。重傷や重病を抱えて病院に担ぎ込まれた患者の命を救うことが医師の義務であり、それしか見ていなかった。そしてそれは父親から受け継いだ誇り高い価値観でもあった。
果たして、ソーニヤーの手術は成功する。手術から2ヶ月後、すっかり回復したソーニヤーはアーカーシュを訪れ、彼に離婚届を手渡す。二人が実際に離婚をしたのかどうかは映画では描かれていない。だが、アーカーシュとネーハーが引き続き病院で仲良く仕事をしている姿が映し出され、十分に離婚は暗示されていた。それでも、離婚を明示しなかったのは、離婚をタブー視するインド社会の固定観念に配慮したためだと思われる。離婚を曖昧にして終わらせた点は、監督や脚本家の妥協だと残念に感じた。ただ、このような結末にしても観客の受けは良くなかったようで、「Armaan」は興行的に失敗したと評価されている。
アミターブ・バッチャンとプリーティ・ズィンターの演技はオーバーアクティングに見えた。一方で、アニル・カプールとグレーシー・スィンの演技は地に足の付いたもので、個人的にはこちらの二人の方に拍手を送りたい。
作曲を担当したシャンカル=エヘサーン=ロイは「Dil Chahta Hai」(2001年)などで注目を浴び、「Armaan」の頃は絶頂期にあった。「Armaan」のサントラCDは彼らの初期の特徴がよく詰まっており、明るい曲が多く、個人的には好きだ。「Meri Zindagi Mein Aaye Ho」や「Jaane Ye Kya Ho Gaya」などのかわいいラブソングが多いが、中でもお気に入りはプリーティ・ズィンターがアニル・カプールを脅しながら誘惑する「Mere Dil Ka Tumse Hai Kehna」だ。
実は「Armaan」の舞台がどこなのか、映画の中では明示されていない。ロケはモーリシャスで行われているが、モーリシャスが舞台の映画とはどこにも言及されていない。そのため、インドが舞台の映画のつもりだと思われる。この無国籍感は2000年代のヒンディー語映画によく見られる。
「Armaan」は、ジャーヴェード・アクタルの元妻で脚本家のハニー・イーラーニーが唯一撮った映画だ。脳で考えるべき「義務」と、心で考えるべき「愛」を対立軸に置き、登場人物たちの葛藤を描いた優れた作品だが、離婚の扱いが曖昧になってしまっていた点が個人的に不満だった。興行的にも失敗しており、これに懲りたのか、イーラーニーはその後は脚本家に専念している。だが、もっと評価されてもいい、もったいない作品だ。