1977年5月27日公開の「Amar Akbar Anthony」は、多くの宗教が共存する世俗国家としてのインドの理念を娯楽映画のフォーマットで体現したオールスターキャストの傑作コメディー映画である。題名は主人公3人の名前を連ねたものだが、「アマル」はヒンドゥー教徒、「アクバル」はイスラーム教徒、「アントニー」はキリスト教徒の名前である。
監督はマンモーハン・デーサーイー。1970年代から80年代にかけて、「Zanjeer」(1973年)などのプラカーシュ・メヘラーや「Yaadon Ki Baaraat」(1973年)などのナースィル・フサインといった同世代の監督たちと共にマサーラー映画の礎を築き上げた人気映画監督である。音楽はラクシュミーカーント=ピャーレーラール、作詞はアーナンド・バクシー。
オールスターキャストの映画であり、3人のスターが主演であるが、その中でも主役級なのがアミターブ・バッチャンだ。このときは既に「Sholay」(1975年)などが公開済みで、人気の絶頂期にあった。他の2人はヴィノード・カンナーとリシ・カプールである。
対してヒロインを演じるのは、パルヴィーン・バービー、ニートゥー・スィン、シャバーナー・アーズミーである。メインヒロインはパルヴィーンといっていいだろう。
他に、ニルーパー・ロイ、プラーン、ジーヴァン、ユースフ・カーン、ムクリー、ナーズィル・フサイン、カマル・カプール、シヴラージ、ヘレン、ナーディラー、ランジートなどである。
2024年12月5日に鑑賞し、このレビューを書いている。
キシャンラール(プラーン)は密輸マフィア、ロバート(ジーヴァン)の運転手をしていたが、ひき逃げをしたロバートの罪をかぶり服役していた。出所したキシャンラールは、妻のバーラティー(ニルーパー・ロイ)と幼い3人の息子の面倒をロバートが全く見ていなかったことを知り憤る。キシャンラールはロバートの邸宅に押し入り、彼を殺そうとするが失敗する。ロバートの自動車を奪って逃走したキシャンラールはいったん家に戻るが、バーラティーは結核になったことを悲観し、書き置きを残して家出をしていた。キシャンラールは3人の息子を連れて自動車で逃げ、彼らを公園において食べ物を探しにいく。彼がどこかへ行っている間に、3人の息子たちはバラバラになってしまう。キシャンラールはロバートの追っ手に見つかり、逃走する内に崖から落ちてしまう。生き残ったキシャンラールは、その自動車に隠されていた大量の金塊を発見する。キシャンラールはそれを持って公園まで戻るが、息子たちは既にいなかった。また、バーラティーは自殺しに行く途中で頭を打ち、失明してしまっていた。
長男のアマル(ヴィノード・カンナー)はカンナー警部補(カマル・カプール)に拾われて育てられ、警察官になった。次男は神父ゴンザルベス(ナーズィル・フサイン)に拾われ、アントニー(アミターブ・バッチャン)と名付けられて育った。アントニーは酒場のオーナーになった。三男はイスラーム教徒のイラーハーバーディー(シヴラージ)に拾われ、アクバル(リシ・カプール)と名付けられた。アクバルはカッワーリー歌手になった。アマル、アクバル、アントニーはお互いに顔を合わすことがあったが、兄弟だとは夢にも思わなかった。一方、キシャンラールは奪った金塊を使って密輸マフィアのドンにのし上がっていた。しかも彼はロバートの娘ジェニー(パルヴィーン・バービー)を誘拐して育てていた。落ちぶれたロバートはキシャンラールに娘の居所を教えてくれるように懇願するが、キシャンラールはジェニーが海外にいることだけを教えた。ロバートはキシャンラールの金塊を奪って逃げ、止めようとしたカンナー警部補を撃つ。ロバートは途中でアントニーに出会い、かくまわれる。
アマル警部補はロバートを探してアントニーのところまでたどり着いた。アントニーは口を割ろうとせず、二人の間で戦いになるが、アマル警部補の方が一枚上手で、彼を気絶させて牢屋にぶち込んでしまう。裁判所に移送される途中、アントニーはキシャンラールの部下たちによって誘拐される。アントニーはキシャンラールからもロバートの居所を聞かれる。アントニーは逃げ出し、アマル警部補のところへ戻る。実はアントニーはロバートを教会の地下室にかくまっていたが、いつの間にか逃げていた。
アントニーは海外から帰国したジェニーと出会い、恋に落ちる。アクバルは医師サルマー(ニートゥー・スィン)と恋仲にあった。また、アマル警部補は事件の捜査上で出会ったラクシュミー(シャバーナー・アーズミー)を自宅に住まわせていた。
キシャンラールはゼビスコ(ユースフ・カーン)をジェニーのボディーガードに付けるが、ゼビスコはジェニーとの結婚を企てるようになっていた。このときまでにロバートは、キシャンラールから奪った金塊を元手に再び自分のマフィアを立ち上げていた。ゼビスコは、ジェニーとの結婚を条件にロバートにジェニーの居場所を密告する。ロバートの部下たちはキシャンラールの家を襲撃しジェニーを誘拐しようとするが、キシャンラールはジェニーを連れて逃げ出す。その途中でキシャンラールは事故に遭って怪我を負う。たまたま通りがかったアクバルがキシャンラールを病院へ連れて行く。ロバートは入院したキシャンラールを手術と称して連れだし、ジェニーの居場所を聞き出そうとするが意識を失ったままだった。ロバートはサルマーを連れてきて彼の意識を戻させようとする。そこへバーラティーがやって来て妨害したため、ロバートはバーラティーを郊外に連れ出し殺そうとするが、途中で事故に遭い、バーラティーは逃走に成功する。バーラティーが逃げ込んだシルディー・サーイーバーバーの寺院ではアクバルがカッワーリーを歌っていたが、彼女は奇跡の力で視力を取り戻す。アクバルの家を訪れたバーラティーは、アクバルの子供の頃の写真を見て、彼が自分の息子ラージューであると気付く。それをきっかけにして、アマル、アクバル、アントニーが兄弟であること、キシャンラールとバーラティーの息子であることなどが次々に分かっていく。
懲りないロバートは再びジェニーを誘拐する。ロバートは現場を目撃したゴンザルベス神父を殺害する。また、このときたまたまラクシュミーが通りがかっており、彼女もジェニーと一緒に誘拐されてしまった。ゴンザルベスの死を知ったアントニーは、ロバートが神父を殺しジェニーを誘拐したことを知る。まずはアクバルがロバートの邸宅に変装して潜入し、そこにジェニーとラクシュミーがいることを確認する。アクバルはサルマーを呼び寄せ、次に神父の振りをしたアントニーと楽士の振りをしたアマルがやって来る。そしてゼビスコとジェニーの結婚式をする振りをして混乱を起こし、ジェニー、サルマー、ラクシュミーを逃がして警察を呼んで来させる。
こうしてロバートは逮捕される。キシャンラールも自首し牢屋の中にいたが、アマル、アクバル、アントニーはそれぞれジェニー、サルマー、ラクシュミーと結婚することになり、母親バーラティーと再び住めるようになった。
両親と生き別れ、お互いバラバラに育てられることになった3人の兄弟が、それぞれヒンドゥー教徒、イスラーム教徒、キリスト教徒の名前を持つことになる。現代においてヒンドゥー教徒はインドの人口の8割弱、イスラーム教徒は14%、キリスト教徒は2.4%を占めている。他にも宗教はあるが、有力なのはこの3宗教である。当初は赤の他人だと思っていたアマル、アクバル、アントニーがお互いに血の通った兄弟であることに気付き、力を合わせて一族の敵に立ち向かう姿は、印パ分離独立を経て宗教による線が引かれてしまったインド社会に再び宗教融和をもたらそうとする努力に他ならない。
この作品の鑑賞に際してポイントになるのは、観客は登場人物の相互関係を理解しているが、本人たちは終盤までそれに気付いていないということである。父親キシャンラール、母親バーラティー、長男アマル、次男アントニー、三男アクバルは、血縁関係にあることを知らない内から顔を合わせ、接点を持っていた。しかも、まるで神様が合図してくれているように、血縁を匂わすような出来事が彼らの身に何度も起きていた。たとえばバーラティーが事故に遭って倒れ、病院に担ぎ込まれたとき、輸血が必要になっていた。そのとき彼女に輸血をしたのは、たまたま病院に居合わせ、血液型も合致したアマル、アクバル、アントニーだった。三人は、輸血をしている相手が実の母親であること、また、隣のベッドに横たわっているのが兄弟であることを知らず、純粋な人助けの気持ちから輸血をしていた。だが、観客はそこに自覚がなくても強力な家族の結束力を見るのである。バーラティーが祈りを込めてアントニーに渡した花が、彼の手を通して、彼女の夫キシャンラールに届く様子も同じくらい象徴的だ。
宗教融和はこの映画の大きな主題であり、その読み取りは欠かせないが、同時に宗教という点に関していくつかの問題もはらんでいることに気付く。まず、この映画は全ての宗教の共存を訴えているだけであって、宗教が混ざり合うことは支持していない。ヒンドゥー教徒のアマルが恋愛対象とするのはヒンドゥー教徒のラクシュミーであり、イスラーム教徒のアクバルが恋愛対象とするのはイスラーム教徒のサルマーであり、キリスト教徒のアントニーが恋愛対象とするのはキリスト教徒のジェニーである。異宗教間結婚にならないようにうまく住み分けをしている。これが異宗教間結婚にまで触れる内容であったら、当時のインド社会でどこまで受け入れられたであろうか。
また、生き別れになる前の3人はヒンドゥー教徒の家庭で育てられていた。よって、生き別れた後にそのままヒンドゥー教徒として育てられたアマルについては問題ないのだが、残りの2人については、出自を知った後にどちらの宗教に属することになるのかという疑問が浮上するはずだ。しかしながら、映画の中ではこの問題について全く触れられていなかった。特にアクバルについては深刻だ。ヒンドゥー教徒として生まれ、イスラーム教徒として育てられ、恋愛相手もイスラーム教徒だ。イスラーム教徒はイスラーム教徒としか結婚できないことになっている。果たしてアクバルはイスラーム教徒でい続けるのか、それともヒンドゥー教徒に戻るのであろうか。母親はアクバルをヒンドゥー教徒に戻そうとしないのだろうか。現実世界なら大きな問題であり、インド人なら大いに関心を寄せるであろうが、「Amar Akbar Anthony」は沈黙を守っている。
ちなみに、演じている俳優たちの宗教もさまざまである。主演男優3人、アミターブ・バッチャン、ヴィノード・カンナー、リシ・カプールはヒンドゥー教徒であり、主演女優3人の内の2人、パルヴィーン・バービーとシャバーナー・アーズミーはイスラーム教徒、残ったニートゥー・スィンはスィク教徒である。
メッセージ性は素晴らしい映画だが、時代であろうか、多少の雑さも感じずにはいられなかった。たとえばアントニーはロバートがキシャンラールから奪った金塊の一部を、彼をかくまうことの見返りとしてせしめる。アントニーが手にした金塊がどうなったのか、その後話題になることはなかった。オールスターキャストということで3組のカップルが誕生するが、ひとつひとつの描写はどうしても急ぎ足になってしまっていた。特にアマルとラクシュミーの関係には十分な時間が割かれていなかった。
それでも、アミターブ・バッチャン、ヴィノード・カンナー、リシ・カプールのコミカルな演技は見ものである。生き別れた親子や兄弟の物語であるが、コメディー映画としてまとめたことで、沈痛な気持ちになることもなく楽しめる。
歌と踊りも素晴らしい。もっとも力が入っているのは終盤の「Amar Akbar Anthony」だ。実は3人のヒーローと3人のヒロインが一堂に会するのはこのシーンのみである。当時はスターが一度に何本もの撮影をこなすのが普通のスタイルだったため、6人のスケジュールを合わせるのはとても困難だった。それ以外のシーンではうまく全員が揃うような展開を避けている。また、この曲によく登場するフレーズ「Anhoni Ko Honi Kar De Honi Ko Anhoni(起こらないことを起こしてみよう、起こることを起こらないようにしよう)」は、ゼビスコとジェニーの結婚を止めようとするストーリーともピッタリ合っている。
プレイバックシンガーという観点でもオールスターキャストの映画であり、「Humko Tumse Ho Gaya Hai Pyar」では、ムケーシュ、ムハンマド・ラフィー、キショール・クマール、ラター・マンゲーシュカルという偉大な歌手たちが揃っている。この4人が同時に歌った曲は映画史上これが唯一である。
音楽面でも宗教の多様性が表現されている。「Parda Hai Parda」はイスラーム教神秘主義の音楽であるカッワーリー曲で、アクバルとサルマーの恋愛を演出していたし、「My Name is Anthony Gonsalves」はイースターのパーティーで流れる西洋的なパーティーソングで、キリスト教徒のカップルであるアントニーとジェニーの仲が深まるきっかけになっていた。
「Amar Akbar Anthony」は、長いこと多くの宗教が共存してきたインド社会の美しさを歌い上げる作品である。コメディー映画としても優れており、主演アミターブ・バッチャンたちのコミカルな演技が光っている。マンモーハン・デーサーイー監督の最高傑作にも数えられる。必見の映画である。