Maximum

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Maximum
「Maximum」

 ムンバイーが「マキシマムシティー」の異名を持つようになったのは、スケートゥ・メヘター著のノンフィクション「Maximum City: Bombay Lost and Found」(2004年)からであっただろうか。ラージャスターン州の古都は昔からイメージカラーを持っているし――ジャイプル=ピンク・シティー、ジョードプル=ブルー・シティー、ジャイサルメール=ゴールデン・シティーなど――、ドミニク・ラピエールの小説「City of Joy」の題名がそのままカルカッタ(現コルカタ)の愛称になったり、おそらく新聞などのディベロッパーやメディアの宣伝によってグルガーオンがいつの間にか「ミレニアムシティー」と呼ばれるようになっていたり、都市の愛称の起源は様々だ。デリーにもいくつか愛称があるが、「シティー・オブ・セブン・シティーズ(7つの都市からなる都市)」がもっとも由緒があるだろうか。ゴードン・リズレー・ハーンの「The Seven Cities of Delhi」(1906年)がその由来だと考えられている。

 さて、本日(2012年6月29日)公開の「Maximum」は、ムンバイーを舞台にした映画ではあるが、スケートゥ・メヘターの著書を原作とした作品ではない。監督は「Sehar」(2005年)などのカビール・カウシク。ナスィールッディーン・シャーとソーヌー・スードが主演の、渋めの警察映画である。

監督:カビール・カウシク
制作:ウダイ・コーターリー
音楽:アムジャド・ナディーム、ヴィクラム・サーワン
歌詞:シャッビール・アハマド、ラキーブ・アーラム
出演:ナスィールッディーン・シャー、ソーヌー・スード、ネーハー・ドゥーピヤー、ヴィナイ・パータク、スワーナンド・キルキレー、アミト・サード、モーハン・アーガーシェー、ラージェーンドラ・グプターなど
備考:DTスター・プロミナード・ヴァサントクンジで鑑賞。

 2003年ムンバイー。ムンバイー警察は、上層部はスボード・スィンとカンナーという2人の警察官僚がライバル関係にあり、現場ではスボードの寵愛を受けるプラタープ・パンディト(ソーヌー・スード)とカンナーと通じるアルン・イマームダール(ナスィールッディーン・シャー)がエンカウンター数(犯罪者を現場で射殺すること)を競い合っていた。プラタープはスプリヤー(ネーハー・ドゥーピヤー)と結婚しており、二人の間にはイーシャーという娘がいた。

 ラクナウーからムンバイーにやって来た若きジャーナリスト、アシュヴィン(アミト・サード)は、同じラクナウー出身つながりでプラタープとも親しくなる。また、プラタープはラクナウー出身の政治家ティワーリー(ヴィナイ・パータク)に可愛がられていた。プラタープの父親(ラージェーンドラ・グプター)は大学の英文学教授で、ティワーリーは教え子であった。ティワーリーはムンバイーに住む北インド人政治家として、地元マラーターたちが外部の者に対して持つ排他的な感情を強く感じていたが、党首でマラーターのサーテー州政府内相(モーハン・アーガーシェー)とは表上親しい関係を保っていた。

 プラタープは決して正義漢ではなく、ムンバイー中に様々な人脈を持つ中でアンダーワールドとも通じており、違法行為で私服を肥やしていた。だが、ナンダーという実業家が関わる土地取引に関してマフィアとの癒着を指摘され、裁判に掛けられる。また、ムンバイー警察内でカンナーが実権を握ったことにより、イマームダールの勢力が増大する。プラタープは停職となり、プラタープの右腕だったサードゥも寝返ってイマームダールの腹心となる。プラタープは凋落の一途を辿る。

 時は2008年になっていた。プラタープの父親は既に亡くなっていた。だが、長年係争中だった裁判でプラタープは無罪となり、警察に復帰する。また、2008年11月26日にムンバイー同時多発テロが発生し、カンナーが失脚したことで、スボードに実権が移る。プラタープの復権が明らかとなり、イマームダールは焦っていた。そんな中総選挙があり、ティワーリーの所属する党は躍進する。サーテーは中央政府で入閣することになり、ティワーリーが内相に昇格する可能性が強かった。ところが、カンナーやイマームダールと通じ合っていたサーテーは、内相就任の条件として、プラタープの暗殺を提示する。ティワーリーはそれを断ることができず、ナンダー子飼いの殺し屋を使ってプラタープ暗殺を試みる。この襲撃によりスプリヤーが命を落としてしまうが、プラタープは生き残る。憤ったプラタープはナンダーを殺し、ティワーリーの邸宅も襲う。そしてティワーリーを殺す。

 プラタープは娘のイーシャーを連れてムンバイーを脱出しようとするが、駅でイマームダールの待ち伏せを受ける。プラタープは腹心バーチー・スィン(スワーナンド・キルキレー)やアシュヴィンにイーシャーを託し、電車に乗せるが、イマームダールとの銃撃戦において相打ちとなってしまう。

 警察を主人公にした映画は星の数ほどあるヒンディー語映画界であるが、警察内の権力抗争を中心に据えたこの作品には一定の目新しさがあった。警察内に2つの派閥があり、それぞれが別のマフィアや実業家と通じている。そしてその派閥の実働部隊となる警官が、実業家の支援を受けて、敵対派閥と通じるマフィアを射殺しまくり、手柄を競い合うのである。つまり、マフィアの抗争や企業間の抗争は現実には警察内の2派閥の抗争でもあることを暗示する内容であった。しかしながら、同様のストーリーの映画には、過去にナーナー・パーテーカル主演の名作「Ab Tak Chhappan」(2004年)が、最近では「Department」(2012年)があり、全く斬新なストーリーという訳ではない。

 「Maximum」のストーリーは主にアシュヴィンの視点から語られる。だが、非常に断片的なストーリーテーリングで、細かい台詞ややり取りを全て丹念に拾い集めて行かなければストーリーに付いて行くのが難しいほどである。それでいて、スクリーンに吸い込まれるようなグリップ力はなく、非常に退屈な展開が続くため、眠気を催してしまう。エンディングも極度に暴力的かつ悲劇的なトーンで救いがない。一言で言えばつまらない映画だった。

 唯一光っていたのは、ムンバイーにおける非マラーターの立場に焦点が当てられていたことである。シヴ・セーナーやマハーラーシュトラ再建党(MNS)など、マラーター主義を掲げる政党が根強いムンバイーでは、特にビハール州やウッタル・プラデーシュ州など北インドからの移民に対して、度々排他的な運動が行われる。それは政治の世界でも同様で、ラクナウー出身の政治家ティワーリーは出身地というハンデから州政府の重要なポストにスムーズに就けずにいた。最終的にはティワーリーは夢を叶えるためにプラタープを売ることになる。一方、ジャーナリズムの世界にいたアシュヴィンはマラーティー語を修得し、地元に溶け込もうと努力していた。この部分をもう少し膨らませて行くことができたら、より明確なメッセージを持つ映画になっていたことだろう。だが、残念ながら単なる分かりにくい警察内部抗争映画で終わってしまっていた。

 ソーヌー・スードは、大ヒット作「Dabangg」(2010年)でサルマーン・カーン演じる悪徳警官チュルブル・パーンデーイに対峙する悪役を演じたのだが、今回はチュルブルと同様にチョビ髭を生やし、自らが悪徳警官となって暴れ回った。警官としての仕事を全うしながらチャッカリ私腹も肥やすという「Maximum」でのプラタープのキャラクターは、確かにチュルブルと共通するものがあるが、性格や言動も映画の味付けも全く異なり、鑑賞中に「Dabangg」を思い出すことはなかった。やはりむしろ「Ab Tak Chhappan」がかぶっていた。ソーヌー・スードは南インド映画界で主に活躍する男優で、ヒンディー語映画界でもちょくちょく顔を見るが、主演としては作品に恵まれていない。「Maximum」での彼の演技は非常に渋いのだが、正義漢そうに見えて悪いこともしているという「むっつりワル」な役で、ヒンディー語映画界でブレイクしそうなタイプのものではない。

 それに対するのはベテラン男優ナスィールッディーン・シャー。彼の老練な演技は、筋骨隆々たるソーヌー・スードの硬派な演技を受け流していて、「柔よく剛を制す」を思い出させた。最後でチープな一騎打ちをしてしまっており、この絶妙なパワーバランスが崩れてしまっていて残念だった。

 ヒンディー語映画界の新型コメディアンとして活躍するヴィナイ・パータクは今回政治家役でシリアスな演技を見せていた。元々演技力はあり、とても自然な演技をしていた。最後に主人公プラタープを裏切るのだが、その伏線がなかったために、非常に困難な演技を要求されていたと思う。だが、何とかうまくこなしていたのではないかと思う。

 ヒロインのネーハー・ドゥーピヤーにとっては、「Maximum」では大きな活躍の場はなし。しかし、世間から忘れられないためにはこのような作品でも顔を出しておかなければならないだろう。

 渋い映画ではあったが、意外にアイテムナンバーが派手で、「Aa Ante Amalapuram」、「Aaja Meri Jaan」など、気合いが入っていた。インド映画なのでダンスシーンをいくつか入れることを要求されるのだろうが、この作品を見る限りでは監督が積極的にアイテムナンバーを挿入したように感じた。

 ちなみに、題名となっている「マキシマム」については、劇中に以下のような台詞があり、その種明かしがされていた――「最大の力を手に入れるためには、トップにいるか、それとも黙っているか、どちらかだ」。つまり、第一義的には、「マキシマム」なパワーを巡る、プラタープとイマームダールの抗争を意味すると言っていいだろう。

 「Maximum」は、2003年から2008年までのムンバイー警察の内部抗争を描いたシリアスなドラマ。しかしストーリーテーリングに難があり、ストーリーに付いて行くのが難しい。そしてストーリーに何とか付いて行きたいと思わせるほどの魅力もなかった。観なくても構わない映画だ。