インドの映画監督は社会を変えるために映画を作っている、そのためには広範な観客に作品を観てもらう必要があり、それゆえに大衆娯楽映画という手段が採られている、というのが持論である。歌と踊りで彩られたインドの娯楽映画を表面だけなぞると、どうしてもその派手さが目立ち、ふざけて作っているのかと思われがちだが、娯楽映画であっても実際には非常に真面目な人々が非常に真面目に作っているというのが、長年インド映画を見続けてきて辿り着いた結論だ。
その持論を裏付けるような記事が、2024年4月24日付けのTimes of India紙折込版Delhi Timesに掲載されていた。
発言の主はヒンディー語映画界のトレンドセッターの一人、カラン・ジョーハルである。監督として「Kuch Kuch Hota Hai」(1998年)や「Kabhi Khushi Kabhie Gham」(2001年/邦題:家族の四季 愛すれど遠く離れて)など、プロデューサーとして「Kal Ho Naa Ho」(2003年)や「Dostana」(2008年)などの名作を送り出し続けてきた、業界の最重要人物だ。
このほどジョーハル監督はデリーを訪れ、全インド経営協会(AIMA)主催の第9回国家リーダーシップ・コンクレーブにて、「社会の中での映画の役割」について講演したようである。その中で彼はこう語っている。
「映画監督として私たちはとてつもない力を持っており、それゆえに、とてつもない力にはとてつもない責任が伴うと信じている。私たちは、映し出すもの、口にするものについて、ある程度慎重に考えなければならない。もちろん、長編映画1本で社会の構造を変えることはできない。それは不可能だ。今日、何かを訴えかけたいのであれば、多くの努力と多くの映画が必要だ。」
その例として彼は女性のエンパワーメントを挙げている。ヒンディー語映画界では、特に2010年代に、多くの映画が束になって女性のエンパワーメントを取り上げてきた。その影響なのか、現在ではインド社会でも女性の社会進出が受け入れられるようになってきた。1本の映画が社会を変えるのは難しいが、複数の映画が様々な方面から繰り返し同じ主題についてメッセージを発信し続けることによって、それが成し遂げられたり、実現が早まったりする。これに関してはデリー集団強姦事件も参照していただきたい。
続けてジョーハル監督は、メインストリーム映画にセンシティブな問題を組み込むことについて以下のように語っている。
「知的な映画監督の中には、独自の伝え方に強いこだわりを持ち、おそらく社会の大部分には理解できないような方法でそれを表現する人もいる。私のように、メッセージをよりわかりやすくしようとする映画監督もいるが、批評家たちはそれを『dumbing down(バカでも分かるように説明すること)』と呼ぶ。しかし、私はそれがメッセージの『dumbing down』だとは思わない。それは私がアクセシビリティーと呼ぶものだ。ニュアンスを理解できないような人々にも理解できるように問題を語るためには、ある程度前のめりになって伝える必要がある。もしあなたがその問題に敏感で、それを多くの観客に届けることにこだわるのであれば、有機的に作る必要がある。」
どんなに社会に必要なメッセージが込められた映画であっても、多くの観客に観てもらえなければ、そのメッセージは届けたい人に届かない。これはジョーハル監督のみならず、インドの多くの映画監督が口を揃えて言うことだ。たとえばジョーハル監督は、インド社会においてしばしばタブーとされる一夫一婦制の是非や不倫について取り上げようとした際、ストレートにぶつけるのではなく、「Kabhi Alvida Naa Kehna」(2006年)というオールスターキャストのメインストリーム映画を通して世に議論を呼びかけた。映画一家に育っただけあって、ジョーハル監督はインドにおいて娯楽映画が担っている役割を正確に理解し、作品作りをしていると感じる。
ただし、それとは全く逆の意見を言っている監督もいる。「3 Idiots」(2009年/邦題:きっと、うまくいく)のラージクマール・ヒラーニー監督だ。2024年2月26日付けのDelhi Times紙に記事が掲載されていた。
ヒラーニー監督は、「Lage Raho Munna Bhai」(2006年)から「PK」(2014年/邦題:PK ピーケイ)を経て「Dunki」(2023年)に至るまで、多数の作品でタッグを組んだ脚本家アビジャート・ジョーシーと対談を行った。その中で彼は「3 Idiots」に関してこんなことを語っている。
「私は決して説教をするために映画を作るのではなく、娯楽的なストーリーを伝えるために映画を作っている。『3 Idiots』は、教育について語ろうと考えて作り始めていない。私は大学寮の雰囲気が好きだったが、従来の映画ではそれがうまく表現されていないと思った。そこから構想が始まった。いったん書き始めると、さまざまなニュアンスや自分の信念がストーリーに流れ込んでくるものだ。」
ジョーシーも合いの手を入れて以下のように語っている。
「『PK』の脚本を執筆しているとき、ヒラーニーは私に、我々は誰かを傷つけるためにここに来たのではない、と言った。そこには、対話をしようというある種の謙虚さと敬意があった。我々はこう考えている、これは正しくない、お前は馬鹿だ、こんなことはあってはならない、と主張するために我々はここにいるのではない。敬意を持って、対話をしなければならない。ヒラーニーは一貫して、あるアイデアについて話し合いたいと言っている。彼は観客に考えを押し付けようとはしない。」
「3 Idiots」はしばしば、インドの教育制度の問題点について切り込んだ映画として語られる。だが、ヒラーニー監督にとって「3 Idiots」は、インドの教育に対してもの申すために作られた映画ではないようだ。むしろ、「楽しかった大学時代を映画にしてみたらどうだろう?」という思い付きから作り始められた映画とのことで、方向が逆だ。意外な事実である。確かに「3 Idiots」からは、インドで社会問題になっているラギングについて批判めいた論調を感じなかった。
ヒラーニー監督は、まず面白い着想があり、そこからストーリーを肉付けしていって、一本の映画にまとめるタイプの監督のようだ。出世作の「Munna Bhai M.B.B.S.」(2003年)にしても、「40歳のギャングが医科大学に入学したらどうだろう?」というアイデアから構想が始まったという。社会問題を深く掘り下げようといった意気込みは感じられない。
ただし、人々に自分の意見を押しつけないまでも、人々との「対話」を求める態度は、メッセージ性のある映画作りのひとつに含めていいだろう。「PK」も着想源は「神様を探す異星人」だったようだが、そこにはインドの宗教について冷静になって議論してみようという呼びかけが含まれているのは明らかである。
ジョーハル監督とヒラーニー監督、どちらもヒンディー語映画界の大御所であるが、彼らの発言から察するに、映画作りについては全く逆のアプローチを取っているものと思われる。それでも面白いことに、彼らの作る作品には、一般庶民に届きやすい娯楽映画のフォーマットに何らかの社会的なメッセージを載せるという共通点が生じている。そして、それこそがヒンディー語映画の強みだと感じるのである。