以前、3月以降しばらく話題作が公開されないと書いた。3月~5月はインド人学生にとって、日本で言うセンター試験、学年末試験、入学試験などが行われる試験期間に当たり、それが興行的にマイナス要因となるため、映画産業的には空白の期間となることが多い。また、今年はそれに下院総選挙やIPL(クリケットの国内リーグ)が重なり、人々の注目が映画に向きにくくなっている。だが、どうも話題作枯渇の原因はそれだけではなさそうだ。報道によると、現在映画プロデューサーの協会とマルチコンプレックスの間で、興行収入の取り分を巡って対立が起こっているようで、4月以降、新作の公開にも影響が出て来そうな気配である。
しかし、話題作の公開が控え目になることで、逆に低予算ながら良質の映画が一般公開の機会を得ているような感じである。2009年3月20日、複数の新作映画が公開されたが、どれもなかなか良さそうな映画だ。まずは、名女優ナンディター・ダースの初監督作品「Firaaq」を観ることにした。この映画は2008年9月5日にトロント国際映画祭でプレミア上映された。
監督:ナンディター・ダース
制作:パーセプト・ピクチャー・カンパニー
音楽:ラジャト・ドーラキヤー、ピーユーシュ・カノージヤー
出演:ナスィールッディーン・シャー、シャハーナー・ゴースワーミー、サンジャイ・スーリー、ティスカ・チョープラー、ディープティー・ナヴァル、パレーシュ・ラーワル、ノワーズ、ムハンマド・サマド
備考:PVRアヌパム4で鑑賞。
2002年、グジャラート州でヒンドゥー教徒とイスラーム教徒のコミュナル暴動が発生した。暴動がひとまず落ち着き、1ヶ月経った頃のアハマダーバード・・・。 オートリクシャー運転手のイスラーム教徒ハニーフ(ノワーズ)とその妻ムニーラー(シャハーナー・ゴースワーミー)は、暴動があったときにたまたま市外におり、久し振りに家に帰って来た。だが、家は何者かによって焼き討ちされていた。家を片付けている内に、ハニーフはヒンドゥー教徒が付けているペンダントを見つける。復讐に燃えるハニーフは妻を家に残し、どこかへ出て行く。 ムニーラーのところに、近所に住むヒンドゥー教徒の親友が訪ねて来る。ムニーラーは彼女に、誰が家を焼き討ちしたのか聞くが、友人は答えようとしなかった。代わりに、彼女はムニーラーをメヘンディーの儀式に連れて行く。そこでメヘンディー塗りのバイトをすれば、5,000ルピーの報酬があるとのことだった。ムニーラーはそれを承諾する。 ヒンドゥー教徒のサンジャイ(パレーシュ・ラーワル)は、暴動のときに息子と共に近所の店を略奪し、一財産を稼いでいた。だが、その妻のアールティー(ディープティー・ナヴァル)は、暴動のときに助けを求めるイスラーム教徒を助けなかったトラウマに悩まされて生活していた。アールティーは外へ買い物に出掛けたとき、暴動で家族を失った少年モースィン(ムハンマド・サマド)を見つける。不憫に思ったアールティーは少年を家に連れて帰る。だが、サンジャイはアールティーの態度が気に入らず、彼女に暴力を振るう。それを見て怖くなったモースィンは家を抜け出て逃げ出す。 イスラーム教徒のサミール・シェークは、ヒンドゥー教徒のアヌラーダー・デーサーイー(ティスカ・チョープラー)と結婚し、店を経営していた。だが、暴動で略奪を受け、アハマダーバードを捨ててデリーへ引っ越そうとしていた。サミールとアヌラーダーはビジネスパートナーの友人の家に行き、防犯カメラをチェックするが、そこに映っていたのは、少し前に接触事故を起こしたサンジャイであった。サミールは、暴動以来、いろいろな人の前で自分がイスラーム教徒であることを隠すようになっていたが、考え直し、このままアハマダーバードに住み、イスラーム教徒として堂々と生きようと決心する。だが、アヌラーダーはそれに反対であった。サミールはその晩恐ろしい夢を見て、やはりデリーへ引っ越すことを決める。 イスラーム教徒の音楽家カーン・サーハブ(ナスィールッディーン・シャー)は、暴動があった後も全く変わらぬ生活をしていた。だが、使用人は暴徒に怯えながら暮らしていた。暴動で殺された友人の葬儀に出席したとき、カーン・サーハブは途中にあった詩人ワリーの墓がなくなっていることに気付く。また、夜中にテレビを見て、人々の間に憎しみが渦巻いているのを見て、音楽ではこの憎しみを消すことはできないと絶望する。 ハニーフは、イスラーム教徒の友人たちと共謀し、暴動をきっかけに逃亡した知り合いスライマーンの家へ言って銃を手に入れることにする。その過程で、路地をうろついていた少年モースインも一緒に連れて行くことになる。銃は見つけたが、銃弾はひとつしかなかった。しかも、仲間の一人が勝手に銃を撃ってしまい、それすらもなくなってしまった。銃声を聞いて警察がやって来たため、彼らは散り散りになって逃げ出す。ハニーフはモースィンを連れて逃げる。彼はモースィンを隠れさせ、身軽になって走って警察を巻くが、ヒンドゥー教徒の住民に殺されてしまう。 メヘンディーの儀式でのバイトを終え、ムニーラーたちは家に帰って来た。だが、ハニーフの家には警察が来ていた。友人はムニーラーを自分の家に匿う。そこで友人がペンダントをなくしたことに気付き、ムニーラーは彼女が家を焼き討ちしたのではないかと疑う。だが、すぐにペンダントは見つかり、ムニーラーは親友を疑ったことを悔やむ。 翌朝。サンジャイが目を覚ますと、アールティーはいなくなっていた。カーン・サーハブは、昨晩ひどく落ち込んだものの、いつも通り音楽の授業を始めた。モースィンはキャンプに戻る。
グジャラート暴動そのものではなく、暴動がその後の一般市民たちの心理や生活にどのような影響を及ぼしたのか、グランド・ホテル方式ドキュメンタリータッチで描写した映画であった。その点では「Mumbai Meri Jaan」(2008年)と似ていた。宗教対立の悲惨さを、言葉ではなく映像で物語っており、映画という媒体の特徴を存分に活かした作品だと言える。
グジャラート暴動を題材にした映画は今までいくつも作られている。もっとも有名なのは、ラーケーシュ・シャルマー監督のドキュメンタリー映画「Final Solution」(2004年)であるが、最近では「Parzania」(2005年作品、インドでは2007年に一般公開)が記憶に新しい。2002年2月27日に、グジャラート州パンチマハル県のゴードラーにおいて、列車に乗っていたヒンドゥー教徒たちが火災によって焼死するという事件があった。その火災が事故なのか故意のものなのかは未だにはっきりしないが、一般にはイスラーム教徒の暴徒によって焼き殺されたとされており、そのニュースがグジャラート州各地に飛び火して、イスラーム教徒に対する報復攻撃が発生した。さらにそれがイスラーム教徒によるヒンドゥー教徒への報復攻撃を呼び起こし、大規模なコミュナル暴動へと発展した。暴動は2月末から3月にかけて続き、1,000人以上が殺害された。
映画は相互に微妙に関連し合った6つの小話が同時並行で進行することで展開して行く。様々な階層の人々の視点から、暴動後のアハマダーバードの緊張感が描写されていた。特に卓越していたのは、徐々に人々の心を蝕んでいく疑心暗鬼の描写である。今まで宗教の別なく仲良くしていた人々が、コミュナル暴動をきっかけに宗教で物事を考えるようになり、それが人々の絆をいとも簡単に引き裂いて行く。コミュナル暴動は多くの死者を生み、それが最大の悲劇であることに変わりはないのだが、それと同じくらいの悲劇は、生き残った人々の脳裏にこびりつくコミュナルな感情であることを、映像とストーリーで雄弁に語っていた。「Firaaq」の美点はそこにある。
映画の最後は、モースィンの不思議な表情で閉められる。モースィンは父親を捜していたのだが、果たして父親が見つかったのだろうか?それは観客の想像に任せられており、議論を呼びそうだ。また、小話のひとつのエンディングに、アールティーが夫を捨てて家を出るというシーンがある。これは、夫による家庭内暴力や暴動でのトラウマからの解放を意味すると思うのだが、はっきり言って何の解決にもなっておらず、平凡な気がした。女性の解放を無意味に強調するのは、女性監督が陥りやすい罠であり、ナンディター・ダースもそれから逃れられなかったと感じた。
演技も素晴らしかった。ナスィールッディーン・シャーやディープティー・ナヴァルのようなベテラン演技派俳優陣の洗練された演技も良かったが、「Rock On!!」(2008年)で一気に名声を獲得したシャハーナー・ゴースワーミーが引き続き好演していたのも嬉しかった。ナンディター・ダース監督は、子役のムハンマド・サマドから印象的な表情を引き出すのにも成功していた。
「Firaaq」は世界中の映画祭で賞を受賞しており、一見に値する社会派映画である。昔からのインド社会派映画ファンに対しては、名女優ナンディター・ダース初監督作品と説明するだけで十分であろう。